向井雅明『ラカン入門』読書会レジュメ(第1章「鏡と時間」)

(読書会で使用。節ごとに切りながら、形式段落一段落ごとに段落を作り解釈・説明する形で作成している)

想像界・象徴界・現実界(21-32頁)

 ラカンの分析家としての出発点といえる「鏡像段階」は、1936年マリエンバードでアーネスト・ジョーンズ(注1)のもとで開かれた国際分析学会において発表された。のち1949年にチューリッヒで開かれた他の学会でもこの概念に触れた発表がなされ、それが主著『エクリ』に収められている。

注1 ジョーンズは、フロイトに評価され国際精神分析学会の会長を長年務めた英国の精神分析家。理論的には、ラカンは解剖学的ペニスとは異なるものとして「ファルス」を理論化するために彼の「アファニシス」という概念を参照している(例えば、立木康介『女は不死である ラカンと女たちの反哲学』のI-(2)、西美奈子編著『精神分析にとって女とは何か』の松本卓也による補章「ラカン派における女性論」が参考になる)。また晩年フロイトの主要な伝記の一つ『フロイトの生涯』を書いたことなどでも知られている。ジョーンズについての伝記的情報は『フロイトの生涯』訳者あとがきで読める。

・想像界(21-27頁)

 生後6ヶ月に達した子供は、鏡のうちに自分の姿を実際にそこにはないイメージとして見出しながら喜びの表情を見せる。この現象は人間に特有のものだ。
 ラカンは当初この現象をボルクの「胎生児仮説」を通じて説明しようとした(注2)。人間は霊長類の胎児に相当する未熟な状態で生まれ生きていく動物であるという説だ。そうだとすれば、生まれた当初の人間は運動能力などについて極めて不自由な状態で、動物よりもかなり長く母などの助けを借りなければ生きていけない。さらにはその未熟さゆえに身体も思うようには動かせず、自身の身体全体についてのイメージも持っていない。幼児の心的世界では身体は、外界と接触する口・目・耳・手などを通じたバラバラの感覚からなっている(注3)。
 このような子供が鏡の前にやってきた時に起きているのは、器官的に運動支配ができるようになるのに先立って、自分の身体の全体のイメージを獲得するということだ。人間の自我(注4)の起源はここで予知的に(=身体全体を動かすことができるようになる前に)同一化された全体についてのイメージにあるとラカンは考えた。こうした同一化(注5)を重ねることで自我は理想的な原型に漸近していく(注6)。精神分析では自我を同一化の堆積物として考える。
 こうした理解は心理学とは異なっている(注7)。
 心理学では、成長によって脳が発達することで心が発展すると考える。鏡像段階は鏡の像が虚像だとわかった段階の子供が、内的に成立した「自我」において、自分のイメージを他者の間に認め満足すると考えられる(注8)。
 精神分析の心理学との差異はこの「自我」を認めないという点にある。精神分析では、子供は自我ではなく寸断された身体しか持たない状態から全体像を取り入れ自我を構成する(し続ける)と考える。
 外界のイメージをもとにして自我を構成するという精神分析の見方を、ラカンは「疎外」と呼ぶ(注9)。これは、人間が自我を組み立てるにあたって外部の像に取り込まれ、自分自身をそこに錯視する、という仕方で鏡像段階を考えるからだ。
 外的なイメージが人間の内部で何かを形成するというイメージの力については、ラカンは動物行動学に基づいて説明している。
 ハトの生殖腺成熟やトビイナゴの生態の変化はイメージを通じて生じる。ここではイメージが遺伝的本能を通じて形成作用を果たしている。人間の場合は自我という(器質的ではない)イメージ的なものが形成されることをこのようには説明できないが(注10)、しかしその元となる外界のまとまりを持ったイメージ(ゲシュタルト)を受け入れる能力までは、備わっていると考えられる。
 こうした形成物をフロイトはユングから借りた「イマーゴ」という語で論じていた。他人を把握するさいにモデルとなるパターン化されたイメージを指し、ラカンは鏡像段階を通じて成立した自我をイマーゴの特殊なケースであると論じる。そして、こうしたイマーゴによって、自己と環境との関係が確立されるのだ。

 鏡像段階はしかし満足の経験のみではない。
 鏡像段階に達した子供には攻撃的な性格が確認され、自分のした暴力を「相手がしたのだ」と主張することも確認される。ここに現れているのは「他者のイメージをもとに自我を構成する」という鏡像段階の性格の裏面だ。鏡像段階において自我を構築するのに必要な「他者」は決して鏡像でなくてもよい。母親、兄弟、家族から与えられるイメージが「鏡像」となりうる。
 他者のイメージから自我イメージを構築するとき、その構築されるイメージ(=自我)をめぐって、他者との間に決闘的な関係が生じる(注11)。
 イメージの構造をめぐるこの闘争は「お前か私か」という二者対立の関係においてなされる。
 アウグスティヌスの例の中で兄が青ざめ嫉妬を覚えているのは、「母の腕に抱かれ満足している」という自我イマーゴを他者が占めているために、それまではあった統一的な自我が存在しなくなってしまったからだ。このように自我を認めるか放棄するかという二者択一の中に子供は存在している。
 イメージの構造に基づいて成り立つ、身体・自我・他者の以上の関係性をラカンは「想像的なもの」(L’Imaginaire)と呼ぶ(注12)。想像界は寸断された身体を生きている子供が、自我を求めて他者との闘争の関係にある不安定な世界だ。
 こうした不安定なものを調停する関係性が「象徴的なもの」(Le Symbolique)だ。

注2  ラカンはのちにこの仮説を放棄する(本書36頁)。
注3  片岡一竹『疾風怒濤精神分析入門 ジャック・ラカン的生き方のススメ』は、ラカンの考えるこうした「身体」を物理的肉体と区別するために、「もろもろの器官から得られる感覚的イメージを統一する機能を持っている」(62頁)ものと説明している。その上で、この身体が機能していない状態について「おしめを替えてもらって肛門がすっきりした快感を得ているとき、赤ちゃんはその上に口があることや、その横に耳があることなど知りはしないのです」(79頁)と説明している。
注4 「自我」やそれと関連する語について整理。フロイトは心の活動を考えるために心についてのモデルのをいくつも作ったが、そのうちでも特に影響力の大きかったものが第一局所論と第二局所論である。第一局所論は、外界の表象が心の内で占める三つの位置として考えられ、意識-前意識-無意識からなっている。前意識は今意識の外にあるが、意識化することもできる表象の入る位置、無意識は通常意識化されえない表象のある位置のこと。第二局所論は、外界及びその表象との関係の観点から考えられたものであり、自我-超自我-エスからなる。エスは、人間のうちにある生物学的、本能(ないし欲動)的、無意識的な部分であり、人間のうちに蓄積された不快を減少させる快感原則にのみ従っている。超自我はこうした原則と対立するもので、不快を減少させる方法が社会的に認められるものであるか監視する役割を持っている。エディプスコンプレックスを通じて導入される。自我は、他の二者を仲立ちするようにして、快感を社会的に容認可能な仕方で生み出すべく表象や活動と関係する(小此木啓吾『フロイト』(講談社学術文庫)66-67頁参照)。これらの概念をラカンは更新していった。
注5  他者をもとにして自我理想を獲得する心の機能としての同一化を、フロイトは例えばエディプス・コンプレックスの文脈で考えている。そこでは、父親による去勢の脅しに屈した子供は、父親と同一化することによって母親のような人間から愛されることを目指すようになる。フロイト以後一部の分析家はエディプス・コンプレックス(3-6歳)以前についても心を考えるようになっていく。ラカンもその一人であり、鏡像段階の議論も、心の同じ機能をそれ以前の段階に応用させていると読める。同一化によって獲得されるものについてもフロイトは超自我、自我理想、理想自我という三つの語を用いながらもその区別がはっきりとしていなかったが、ラカンはこれらを区別した概念として使う(この点についてはジジェク『ラカンはこう読め!』139頁以降が参考になる、本書でも172-175頁で論じられる)。
注6  なぜ、一度だけで完了しないかといえば、それは後述されるようにこのような自我が不安定なものであるからである。また、片岡も指摘しているように(前掲書81頁)、こうした自我を理想的なものに向かって構築していく段階は子供だけのものではない。他者をもとに自己像を確立させるあらゆる段階で起きていることが「鏡像段階」の議論で考えられている。
注7  なお、本書の著者は、『考える足――「脳の時代」の精神分析』で中心的に脳科学批判を行なっている。
注8  精神分析はこのように考えない以上、「人間は鏡に映っているのが自分であるということを一人では(=脳の成長のみでは)確証できない」という立場をとる。したがって、子供にとって「鏡像のイメージが自分である」ということは安定的なことではなく(本書26頁)、また、それを確証させてくれる他者が必要となる(本書27-31頁)。
注9  ラプランシュ、ポンタリス『精神分析用語辞典』「鏡像段階」の項で指摘されているように、ここで疎外されているのがのちに論じる「主体」であるということができるだろう。主体はイメージのうちに自分を見出し「自我」に疎外される。
注10  もし本能としてしまうのならば、この後論じられる他者との間の自我をめぐる闘争や、その調停を行う象徴的なもの、さらにはそうした調停をなされなかった人間(精神病者)の存在が考えられなくなるだろう。
注11   片岡一竹『疾風怒濤精神分析入門 ジャック・ラカン的生き方のススメ』で紹介されている(82-86頁)「奇遇」というエピソードの読解が参考になる。
注12  フランス語としては、「想像的な」という形容詞に冠詞を付けることで名詞にしている表現で「イメージ」と区別される。

・象徴界(27-31頁)

 子供が鏡の中にあるのが自分自身だとわかるというのは決して自明ではない。それではどのようにして成立するのか。
 子供は鏡に映るものを自分だと認める前に自分を抱き抱える大人を振り返る。そして大人が確認した後でようやくそれを自分と認める。したがってここでは先ほどの闘争を終わらせる第三者=審判として大人がいると言えるだろう。
 混乱を収めるための審判として機能するためには、その機能を持つ第三者は、ある種の絶対性・強制力を行使させるものでなければならない。
 したがって鏡像段階において子供が自分を認めるときには、そうした強制力が働いているはずだ。この力は子供が未熟であり大人に生殺与奪の権利を保持されていることに基づいている。
 自我をめぐる闘争を調停する絶対的力を持つ他者からの法のもとに成立している関係性が「象徴的なもの」だ。想像界がイメージの世界であるとすれば、象徴界は「これはあなただよ」と認めることがそこで成り立つような言語の世界である。ここで法を与える他者というものは、子供がそれを「絶対的なもの」と認めるかどうかにかかっている。それゆえその実在は問題ではない(こうした絶対的他者として神というものを想像できるだろう)(注13)。
 こうした他者を「想像的なもの」における他者(autre)と区別するために、ラカンは大文字の他者(Autre)という言い方をする(注14)。
 〈他者〉とはどのようなものだろうか。
 (自我を安定したものにさせる)法を保障する存在としての〈他者〉(大人)以外に、ラカンは〈他者〉として言語を考えている。なぜなら、人間は言語を外界から学ぶのであり、それは人間にとって異質なものであり続けるからだ。一方で、人間は言語を使うことなしには生きていけない。この限りでは言語という〈他者〉は人間にとって一つの「場」として機能している。
 その人間の言葉によって自我が安定したものとなるような「大人」としての〈他者〉と、この〈他者〉とは、ラカンの中でも当初は結びついていたが、区別される必要がある(注15)。
 ラカンはAutreという語をこれら二者の他にも、「ほかの」「他方の」という語で用いることもある。この多義性には注意しなければならない。

注13 つまり、象徴的なものは現実的なものに由来しているわけではない。ラカンはセミネール『フロイト理論と精神分析技法における自我』のシェーマLを導入した回でこの話をしている(下巻、110頁)。
注14  以下〈他者〉と書く。
注15 ここでの「あとでより詳細な説明」とはおそらく211-212頁で行っている説明を指している。「主体」の構造について言語学的に論じているこの時期のラカンは全体として精神分析において極めて重要な「性」の次元が希薄である。この次元と〈他者〉との関係は、言語としての〈他者〉と同じくらい強調されなくてはならないと向井は考えているのだろう。

・現実界(31-32頁)

 これら二つの他に「現実的なもの」(Le Réel)という概念がラカンの理論の中心を成している。言葉・イメージのいずれにも把握不可能な領域を指すこの語を初期のラカンは物理的世界を指すものとして用いていた。

 ラカンの理論展開は、以上の三つ組みの概念を通じて整理できる。
(1)鏡像段階、攻撃性などに見られる想像界を中心にしたもの。
(2)言語理論の導入による無意識の構造の解明、ここでは象徴界に重心が置かれている。
(3)現実界に対するアプローチ。これは象徴界によって想像的事象を整理することにより初めて可能となった。

 現実的なものを考えることによってラカン理論は唯物論としての地盤を固めた(注16)。

注16 本章306頁(第5章)に「唯物論」という語は再び提示される。ラカンの思想の中では常に現実的なもの・象徴的なもの・想像的なものの三つ組(R. S. I.)が結びついて存在している。この時点のラカンにおいても、現実的なものは物質的基礎として他の二つを支えているのだが、以後の思想の展開で現実界は物質的基礎以外の次元を獲得していく。

L図(32-37頁) 

 鏡像段階をもとに構築されたのが「シェーマL」と呼ばれるものだ(注17)。多様な解釈が可能な図だが、本書では精神分析実践を説明する図としてこれを見る(注18)。この図でSは主体、Aは〈他者〉、aとa’とは自我と想像的他者とを表している。a——a’は先に見た想像的な関係を表す。分析実践を表す図として読むときには、Aは無意識として(注19)、Sは分析を受ける人間(「分析主体」)として理解する(注20)。
 A(無意識)は、S(分析主体)に対してみずから何かを伝えようとするが、その試みはa——a’(想像的関係) によって遮られる。他者の影響を受けて形成されている自我がそれを受け入れ難いものと考えるときには、この伝えようとしたものはS(主体)にはそのまま届くことができない。現れることができないものとして押し止められるこのことが「抑圧」に相当するが、抑圧された願望は歪曲された仕方でのみS(主体)に届く。

 (ラカンの引用)分析においてはa——a’(想像的関係)を整理し、A(無意識)からのメッセージを受け取らせることが目指される。

 「無意識は〈他者〉の言説である」「無意識は言語のように構造化されている」というラカンの知られた命題はいずれもこの図に基づいたものだ。ここでS(主体)との関係において、A(無意識)が、〈他者〉(およびそのうちの一つの意味としての「言語」)の位置を占めていることにそれらは由来している。
 それでは「言語のような構造化」とはどのようなものだろうか。まず、構造としての言語(Langage)、具体的な姿を持って存在する国語(Langue)と、それが使用されるという仕方で存在しているパロール(Parole)とを区別しよう。
 さらにパロールには二つの様式がある。
 一つ目の様式は、想像的関係の間で交わされるパロール(空のパロール)だ。ここでは、自我に即し、それを今のまま構築し続けるために言葉が用いられる。
 〈他者〉との間のパロールはこうしたパロールとは異なっている(充溢したパロール)。そこでも発話は発話者の意識に即して行われているが、このパロールに特有なのは、意識に即した意味とは反転した仕方でそれが主体のあり方について語ってしまっているものになっている点だ。
 話された言葉としてのパロールそれ自体は、発話者の意識に即した仕方で存在している。一方で、そうしたパロールを可能にしている機能が言語(Langage)という構造であり、これは通常発話しているときに意識されることはない。この限りで、言語(Langage)は無意識的な次元にあるものだと言える(注21)。
 ラカンの命題やシェーマはそれぞれ多様な仕方で解釈しうるものだ。ここでは、L図を鏡像段階との関係で解釈した。ここでの鏡像段階解釈はラカンが1949年の論文で行ったものとは異なっている。
 ラカンはこの論文では想像的関係を中心にして、「現実的なもの」を扱う動物行動学に結びつけながら鏡像段階の構造を説明しようとしている。また、同一化に関する説明で用いられている「イマーゴ」も「想像的なもの」と「象徴的なもの」とが結びついた概念として機能している。この点は、二者を二方向の矢印で説明しているシェーマLとは一致しない。
 なお、「寸断された身体」という考え方は先述したように「胎生児仮説」に基づいていたが、この仮説に基づく根拠づけも後には捨てられた。始原における(=鏡像段階以前の)人間についての考え方はその未熟性が根本にあるのではなくむしろその神話的完全性が基礎であり、それが言語を用いるようになったときに喪失され、代わりに「分断された身体」とその統一像としての「身体」という考えを無意識において持つようになる、という考え方に後にはなっていく。

 ラカンが「想像的なもの」を中心にしていた時代を論じるにあたっても、それが言語によって構築されているものであるということ、「象徴的なもの」が条件になっているということを論じないわけにはいかない。次節では、鏡像段階に並んでこの時期に考案されたラカンの時間論を見よう。自我と環境という区別も含めて鏡像段階が世界のイメージに関わる「空間論」であったのならば、以下で説明する時間論と併せて二者をラカンの「先験的感性論」と呼んでもいいだろう(注22)。

注17 鏡像段階との関係を確認しよう。Sの位置には身体像を持っていない子供、a’の位置には鏡像(他者)、aにはそれによって獲得される自我がそれぞれ対応する。子供がa’とaとの間を行き来している(それが本当に自我であるのかがわからない状態にある)時に、〈他者〉が「これが自我だ」ということを認める(A——a)ことによって、主体は自我を構築する。
注18 自我を構築するプロセスに終わりがないという精神分析の根本的前提が既に確認されていたが、このことのために、〈他者〉を通じて自我を獲得する「鏡像段階」というプロセスから考えられた図がを精神分析実践のモデルとして利用できるのだ。シェーマLの多様な解釈について、例えば、ロバート・サミュエルズ『哲学による精神分析入門』(原題: Between Philosophy and Psyhoanalysis Lacan’s Reconstruction of Freud)は、ラカンの議論全体をこの図で扱おうとしている。
注19 Aが無意識となる理由は後述される二つのパロールの差異から明らかになるだろう。自分自身のイメージとして考えられているものから逸れてしまうようなもの抑圧されたものの、一つの構造にしたがった仕方で現れ出てきてしまうというところにラカンは無意識の表出を見ている。
注20 ラカンは精神分析家のもとで自由連想を行う人間のことを「患者」「被分析者」などではなく「分析主体」と呼ぶ。これは精神分析が、普通想像されるようなさまざまな発話に解釈を加えていく作業などとは違って、分析家の介入以上に自分自身で行うプロセスだと考えられているからである。
注21 「汝はわが妻なり」というパロールが私のあり方についても語ることができるのは「妻」と「夫」とが相補的な関係にあるという言語構造に基づいている、という仕方でこの箇所を理解することもできるだろう。
注22 対象として構成すべきものをまず外界から受け取る働き(「感性」)が、成立する条件であると同時にそれを可能にするものでかつ経験に依存していないもの(「先験的」=「超越論的」)を指す。


時間の論理(37-47頁)

 精神分析の考える時間は、過去・現在・未来と流れていくものではない。
 過去が未来を予知的に把握し未来が過去を遡及的に決定するような時間が、分析において考えられる時間だ。例えば鏡像段階では、まだ支配可能な全体像を持っていない子供がその統一的なイメージ(自我)を予知的に獲得する。またその根本的に不安定な自我が他者によって取られたと考えたときに不安に陥るのは、遡及的に分断されていた過去が思い起こされるからであった(注23)。
 このようにして精神分析の考え方では、過去・現在・未来の三つの時点は混じり合った仕方で存在している。
 ラカンは「論理的時間」という論文において、これらの時間の混じり合いを一つの論理パズルを通じて提示した(注24)。

注23 ここでの向井の記述は、「神話的完全性とその喪失、代わりに分断された身体が過去に挿入される」という胎生児仮説を捨てた後のラカンの考え方に対応している(「代わりに~過去に挿入される」という箇所が「遡及的」と言われる)。(本書36頁)
注24 本文38頁「弁証法」については、先にそのように理解できることを確認した。また、シェーマLについても本書でのちに弁証法的解釈がなされる(81-85頁)。

・三人の囚人(38頁)

[省略]

・[解答](38-39頁)

 三人は同一の論理に基づいて出口に向かっていく。
 三人のうちAの考えた論理を見てみよう。まずAにはB, Cの背中が白であることは見えている。自分は黒か白か? Aは「自分がもし黒ならば」と考える。
 1. A「自分が黒ならば、B, Cはどう考えるだろうか。Bの視点を考えてみよう。Bは、Aの黒とCの白とが見えていることになる」
 2. A「Bはこう考えるだろう。『今自分の前に見えるのはAの黒とCの白だ。自分(B)はどっちの色だろうか。もし、自分(B)が黒ならば、Cの前には、Aの黒とBの黒とが見えていることになる。そうだとすれば、黒は二つしかないのだから、Cは自分の色を即座に理解するはずだ。しかし、Cは部屋を出ない』」
 3. A「Bは続けてこう考える。『Cが出ていかない以上、自分(B)は黒ではなかったのだ。だから自分(B)は白だ』もし自分が黒ならば、以上のような論理で、自分(A)以外の二人(B, C)は、白だと言って部屋を出て行こうとするはずだ。しかし、BもCも部屋を出ない」
 4. A「よって自分は黒ではない、白だ!」
 5. A「そして、自分が白ならば、三人が全く同じ条件(白が二つ見えていて自分も白)だ。だから同じ論理で先を越される前に急がなければならない!」
 B, Cも同様に考えて、三人は一斉に出口に向かおうとする。

・[考察](40-47頁)

 以上の解答のうち2. に注目しよう。ここでは「Cが走り出さない」ということがBが「自分(B)は黒ではない」と考えるための根拠となっていた。そして3. では、「もし自分(A)が黒ならばBが「自分(B)は黒ではない」と考えるはず、なのに動かない」ということが、4. において自分(A)が白なのだ、と結論するための条件になっている。つまり、ここでは「残りの二人(B, C)が躊躇している」ということが結論に必要である。しかし、三者が同時に走り出すのならばそうした判断は揺らいでしまう。判断が他者の行動に結びついている不安定なものであることに注意しよう。
 三人は止まるが、ここでAは残りの二人が止まったのを見て、やはり三人が同じ条件にいるのだということを確証する。
 以上の論理をラカンは「三つの時」として整理する(注25)。
 (1)注視の時
 もし二つ黒があるならば、自分は白である(しかしあるのは二つの白である)。という状況全体についての条件の経験。
 (2)理解の時間
 上記1. -3. 間での推論を行なっている時間。
 (3)結論の時
 他の二者が動かないことから結論として自分が白であると理解する瞬間。
 確認したように、二人が動かない(=結論しない)ことが自分自身の色について知るための条件となっている以上、この結論はできる限り早く出されねばならない。一般化するならば、主体は自らが何者であるかを知るためには、論理的時間に緊急性が伴うということだ。
 さらに、自らを知るためのこのプロセスは、先に見たように他者の行動に依存している不安定なものであった。このことを理解する「三人が同時に走り出した後止まる」という事態が表しているのは、自分自身の在り方について推論を通じて獲得したはずの理解は、あくまで予知的なもの(未来に対する不確定性を持っているもの)であるということに他ならない(この「過去」における予知的自我は、「三人が同時に止まる」ことによって「未来」において遡及的に確証され、「現在」の確証に高められる)。
 主体が自らを知るための論理はこのように考えることができる。
[二行省略]
 主体は、先取り的に獲得された自我に基づく行為(この論理パズルの場合は走り出し、止まるということ)を行うことによって、そこで獲得されたものが正しかったのだという結論を獲得する。
 こうした議論をシェーマLと対応させてみる。初めにシェーマL上の〈S〉にいるのは自分が何色かわからない状態の各々の囚人だ(注26)。彼らは、他の二人の囚人に自らの論理プロセスを投影し、自分が何者であるのかを確かめようとする( 〈a’〉——〈a〉)。しかし、ここで推論されるものとしての自我は不確定なものに留まっている。〈A〉という一つの構造のうちで(注27)、自らが何者であるかを確証するためには、実際の行為を行わなければならない。精神分析においては行為が真理を生み出すのだ(注28)。
 対応させてわかるのは、上記の議論がシェーマLにおいて「行為」がどのような意義を持つのかを示しているということだ。ここで行為は主体についての真理が現れるための条件として機能している。精神分析においては、アクティングアウト(欲求を満たすために社会的に認められないような行為を行うこと)・言い間違えなどの失策行為・自殺行為といったものが行為として重要な役割を果たす(注29)。
 こうした行為の理解はラカンの思想全体を通して重要なものであり続けた。

 さて、以上のラカンの議論においては囚人はロボットのようなものとして、純粋な論理的次元のみで考えられていた。
 主体を生み出す要因はどのようにしてここに入り込んでくるのだろうか。
 三人が同時に動き出した瞬間、Aが自分の論理に疑いを感じる時点に戻ろう。この瞬間Aが疑いを抱くのは、他の二者が自分と同じ論理的能力を持っていなかったらどうか(=自らが推論のために投影した在り方とは異なっているのではないか)(注30)、という思惑があるからだ。
 つまり、ここでAに生じる躊躇いの中に主体的な差異(↔︎三者に同一のものとして囚人が他の二人に投影している自我)の可能性が現れている(注31)。
 論理的時間についての議論のうちでは、人間の主体性はこの純粋な論理に当てはまらないような未知のxとして現れる。
[省略]
 ラカンは精神分析的経験を、中枢にあり統一的・意識的・支配的な性質を備えた心理学的「コギト」に対立するものであると考えていた(注32)。
 精神分析は意識を相対化しその奥にある分裂した主体を考えるが、同時にそれは完全に意識を放棄するわけではない。主体は意識と無意識に分裂した構造として考えられる。一般に脱主体的な立場として考えられている構造主義にラカンも属しているとされておりまた事実そこに多く依拠しているものの、精神分析という経験が存在する限り、ラカンは無意識的でありながら行為を通じて意識に現れてくるものとしての「主体」という概念を放棄することはできない。あるいは「主体」がどのような構造によって形成されているのかという撞着的な問題をラカンは扱っていると言えるだろう。
 鏡像段階や論理的時間というのはこの主体を考えるための試みだったと解釈できる。
 鏡像段階において、主体は鏡像に同一化することで理想的な自我を獲得し、分断された身体の状態を乗り越えようとする。しかし、鏡像から獲得されたこの自我は現実との強いギャップを生み出すものであり(注33)、二次的な同一化を重ねていく。この主体による自我の形成過程は常に不調和を持ち続け終わることがない。
 論理的時間において、主体は機械的な論理に従って自我を推論し行為するが、そこには論理から外れた未知のx(自らの論理が外れているかもしれない、という機械ならぬ主体と結びついた疑い)が現れる。行為とそれによる未知のxの登場は、同時に主体のうちで過去・現在・未来の三者が結びつく経験でもあった。自我として「予知」的に把握されたものが、未知のxの登場によって否定されながらも、その否定を通じて「遡及」的に確証され(注34)、自分が何者であるのかという「現在」が構成される。
 以上の全体をまとめるのならば、理想的なイメージとしての自我と現実との不調和、論理からは外れた未知のxといった否定的な概念が主体を生み出すものとして精神分析において機能している、あるいは精神分析の立場から言えば、不調和や論理の外れた部分のために人間において「主体」と呼ぶことのできるものが存在するのだ、ということが言えるだろう。

注25 この三つの時は、この説明ではあまり回収されていない印象を受ける……。
注26 以下混乱を避けるため、シェーマLにおける記号を指す時には〈〉をつける。
注27 本文35頁。
注28 この限りで、精神分析の「真理」の考え方を「実存主義的」ということもできるかもしれない。サミュエルズ『哲学による精神分析入門』(前掲)は、 〈S〉を純粋実存、 〈a〉——〈a’〉を統一性と志向性(意識の「対象に対して」という性質)を持つ現象学的意識、 〈A〉を構造主義の扱った「構造」として解釈する。また精神分析が注目する「行為」の中心がその実践で交わされる「言語」であることを考えると、言語、行為、真理という三者の結びつきはジョン・オースティンの「言語行為論」(事実を述べるものとしての文の機能ではなく、約束や命名などに代表的な、発話のそれ自体によってある種の「行為」がなされる側面に注目する言語理論)を想起させるものでもある。ショシャーナ・フェルマン『語る身体のスキャンダル ドン・ジュアンとオースティンあるいは二言語による誘惑』は、モリエール『ドン・ジュアン』の文芸批評という形をとりながら、精神分析と言語行為論とを結びつけた著作(レジュメ準備中に読みきれませんでした)。
注29 これらの行為が通常の行為といかなる点で区別されるのかに関しては、先に見た(34-35頁)二つのパロールの区別が役に立つだろう。成す前に想定されている自我に従ってなされ、それを成した後も自我(の不安定さ)が問題とならないようなもの(空のパロール)ではなく、それを問いに付すようなもの(「こんなことをした自分は何者だったのだろう」)(充溢したパロール)こそが「行為」の語で考えられているのではないか。
注30 本文「他の二人の理解のための時間が自分と違っていたら」とあるのは次のような理由による。Aの視点で考える。三人が動き出した時迷うのは、BとCとが動いているのが以下のいずれの理由によってであるかがわからないからに他ならない。①三人とも同じ状況全く同じ速度で推論して同様の結論に達したため同時だった、②B(ないしC)が、2. -3.のような推論を通じて結論に達したが、自分(A)が「動いていない」と確認した時までにはそれができていなかった(=Aの考えているより推論が遅かった) 三人の囚人がロボットのように純粋に同じ能力であることがわかっているのであったら、①か②かという迷いは生じ得ない。
注31 この想定は珍しいものではない。ラカン『フロイト理論と精神分析技法における自我』では、主体が嘘をつくことができる(=相手を想定してそれを出し抜くことができる)のもこの想定によってであると指摘される。(下巻、120頁)
注32  ラカンは当時の「自我心理学」と呼ばれている精神分析家たちの派閥と対決しようとしていた(例えばラカン『フロイト理論と精神分析技法における自我』、下巻、121頁)。彼らが、シェーマLで言えば、 〈a 〉——〈a’〉の過程に対する 〈a〉として存在し、患者の自我をより確固とした分析家と同一のものにすることで、患者の苦しむ自我の危機に対処しようとする(ここでは自我が「コギト」になってしまっている)のに対し、ラカンは、現在の〈a〉——〈a’〉によって遮蔽されている〈A〉——〈S〉を患者が経験し(そのために自らは 〈a〉でないように振る舞わなければならないとする)、必然的に不安定な自我への固執から自由になることを目指している。ラカンは自身の理論における自我と主体との分離について、デカルトをもじって、「私は、私が存在しないところで考える、それ故、 私が考えないところに私は存在する」としている。「私が存在する」のは 〈a’〉、「私が考える」のは 〈S〉ということになるだろう。ラカンがデカルトについて論じているのはこの文脈だけではない。工藤顕太『ラカンと哲学者たち』第一部が別の箇所を扱っている。
注33 例えば、アウグスティヌスの例(本書26頁)の自我として獲得されていたイメージが自分ではなく弟のものであることはこのギャップの経験の一つだろう。
注34 この点、自我とのギャップの内に「充溢したパロール」を見る(したがって、主体は自我とはずれたものとしてのみ存在する)シェーマLをめぐってなされた精神分析実践における考え方とは、自我、主体をいずれも「背中の色」とするアナロジーから考える論理パズルが必ずしも完全に符合しているわけではない。

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