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影と泡沫
影と泡沫
カゲハラ シノ
風に乗っておよぎ、水を吸ってうたう
1月9日
冬休みが明け、3学期始めの授業は数学だった。
習熟度別のクラス分け表から、日比野逢花の文字を探す。前学期と同じ教室へ移動する。
最後の方はなおざりにしてしまった、地味に量が多い課題を提出した。あとは今後使うことのないであろうⅢの範囲を教師は進めていた。
当てられるわけでもないのに、目線はルーズリーフと黒板の間で泳いでいる。授業になると眠たくても、眠られないたちなのがつらい。硬い椅子に少し分厚いプリーツが擦れる。
「a-1=1,a-(n+1)=√(a-n+2)で定められる無限数列{a-n}の極限を求めよ」
つらつらと解が書かれていく。右手はただそれを書き写し、左手は爪の脇を無意識にかきむしっていた。
いつもと同じにように昼食は五分で済ませ、図書室へ向かう。
ここは学校で唯一静寂が暮らせるところに感じる。
昼休みに図書館に居る人は多くても四人ほど。本の匂い、程よい暗がり、床の軋む音、はぁ落ち着く。まさにオアシス!
冬休み中に借りていた本たちを返して、少し本を読んで、次の授業の予習と塾の小テストの勉強をする。昼休みであろうと、受験本番は刻々と近づいていく。
あっという間に予鈴がなる時間だ。
戻った教室は、弁当やゴミ箱に捨てられた食品容器の残り香と暖房から噴き出す黴臭い匂いが混ざり合って充満している。違う意味で戻ってしまいそうになるが、いつものことだ。
自分の席であるかの様に堂々と居座っている隣のクラスの輩も早々に退散させて、ノート引っこ抜いて、教室とっとと移動しよう。
一月九日
目を閉じる。
霧が幾重にも重なり闇の黒色をなす。
暗闇にしずめられていく。
このひと時ほど心穏やかな時はないと思う。
家の前を通るバイクの音、家々の向こうで走る電車の音。
それらが過ぎ去れば、そよ風と静けさの音色が残るだけだった。
こうして毎晩、続く日々から一度離れられる、この小さな幸せと明日へのかなしみを、だきしめて、
ふかく、ふかく、まどろんでいく……
暗闇が月明かりに薄められ、部屋には光の微粒子たちがあちこちに淡く漂いました。逢花は黒豹に変化していました。サファイアの瞳を閃かすと、幽霊のように窓を通り抜けて真夜中の空を駆け出しました。
どこか遠くへ
遠くの方へ
1月18日
昨日席替えをして今日から新しい席だったのを忘れていた。前の席に座らないように気をつけなきゃいけないな。目が悪いから、当然一番前の席だけど、窓際の席になったからまだこの季節は日溜まりが気持ちいい。それと、前より少しは静かになった気がする。
席の一つや二つ変わったところでたいしたことないな。窓際の席でも窓際族になることもなく別に変わらず授業を受けるし。まあ席が替わろうと、どうであろうといつもと変わらず過ごすだけだ。
次々と空間が人間で敷き詰められていく。
一月十八日
眼下に広がる地表は建物で敷き詰められていました。
黒豹は今夜も夜空を駆けていきます。
逢花は、とある海辺に来ていました。
海の向こうには丘が広がり小さな祠がありました。
それは誰も知らない秘密の海辺でした。
人間の姿に戻った逢花は伸びをすると、はまっかぜいっぱいに浴びて、両手を広げ歩きました。
裸足で踏むさらさらの砂粒。波の音。月明り。
逢花はお礼にと、生まれたてのうたを歌いました。
それと、大きな黒い翼を広げて、そこからジルコンを取り出しました。
「おかえしします」
と呟いて、凛とした潮水に浸しました。
波が石を抱きとめて、海へと流れていきました。
2月5日
部活の引退パーティーが終わった。いっときの浮かれも、下駄箱で待ち合わせた沙也が、世界史用語集の内容全てを目で握りしめるように勉強していて、完全に覚めた。
沙也はすごいという言葉では失礼なほど、すごい人であることに改めて気づく。学年トップもさることながら、人望が厚いことも改めて今日感じた。
そりゃ部活で私以外の同級生も敬語で話していただけあるな。
こんな別次元の才人となんで仲良く帰っているのか分からなくなるようで、この人の場合はもはやそう思わせる隙も与えないんだよな。
完璧な敬語からラフな会話まで巧みに使いこなす。あと英語と古語も。
「おーかぁ~私たちもついに引退しちゃったね」
「そうだね、さーや」
「たまには一緒に顔出しにいこうね! 引退してもおーかには会いたいし」
「うん。行こうね」
「本格的に我ら受験生ですなぁ」
「はあー不安だな」
「わたしもお豆腐メンタルだから不安だなー。頑張ろうね!」
お豆腐って種類豊富だから、沙也さんはかなり硬い類のお豆腐だと思う。
「おーかと同じ部活でよかった」
こういうこと言えるところなんだよなぁ。
「私もだよ。さーや」
“私の方こそ”なんだよな。
駅で笑顔の沙也と別れた後、実感のある不安がホームと列車の間に迫ってくる。
これから一年間は、より一層勉強なんだな。まあ、本番まであと一年もないけど。
単語帳を握りしめて、帰宅ラッシュ下り電車に乗り込む。
自分はきっと、おぼろ豆腐だな。
二月五日
年の初めの朧月夜はいっそう優雅な気を漂わせていました。
今夜もまた逢花は一人、秘密の海辺で歌を歌っていました。
歌っているとき、金波銀波が打ち付ける透き間に何かがいたのを逢花は見逃しませんでした。
豹の瞳を虹のように光らせると、姿を透明に透かしました。何かがいた辺りを見通すと、縮れた尾鰭が鮮明に見えました。
さらに目を凝らすと、天を走った星の光芒にもみえる銀色の髪がはっきり見えた。
「なんだろう」
すると何かがこちらへと泳いできました。
逢花も近づいてみると、その何かは人魚でした。
人魚は波打ち際に腰を掛けると、真っ直ぐ逢花の方を見て言いました。
「逢いたかった」
逢花の足元にオパールが零れ落ちました。
2月13日
チャイムが鳴ってホームルームが始まると、大学名と番号がずらりと載っている毎度お馴染みの新聞紙が配られる。
「明日すぐマークシートに書けるようにしておいて下さい」
先生がそう言う前に、私も含めみんなすでにそうしている。
開くページは感覚でもう覚えてしまった。志望校のいくつかをペンで囲んでおく。
マスク越しに大きな欠伸が出た。最近全然寝むれていないけど、明日は模試だし早く寝ないと。塾から帰ったらすぐ寝よう。
二月十三日
春の陽射しの温もりも夜半頃にはすっかり消えていました。
逢花が秘密の海辺に降り立つと、時折あの人魚が姿を見せるようになっていました。
「そういえば、人間には名があるんじゃなかったっけ?」
「あるよ。いちおう僕にも。名前は逢花」
「オーカ」
「『お・う・か』だよ。逢う花って書くの」
逢花は落ちていた枝を拾うと、砂浜に名を彫りました。
「ぼくも書きたい」
逢花は目線の当たる手元の枝を、やさしく差し出しました。
「陸で書くは難しいね」
逢花をまねて書いた字は細波のようでした。
「うーん、やっぱり難しいな。ねぇ。君のこと×××って呼んでもいいかな?」
「×××か。逢花よりしっくりくるかも。いいよ×××で」
×××は微かな笑みを浮かべると、君は?そう口から出る前に、
「ぼくには名なんてないよ。必要なかったから」
人魚は物悲しい顔をして言いました。
×××は何かを呟きました。そしてどこか懐かしいような声で――
「スイ」
「スイ。そう呼んでもいい?」
スイは×××を見つめました。
「スイ。君に呼ばれるために生まれた響きみたい。気に入ったよ。ぼくはスイ」
×××とスイははじめて見つめ合いました
2月28日
六限の授業、SDGsプロジェクトを進める時間とは名ばかりの自習時間。いつもよりクラスの人達の雑音が無機的に感じる。
英熟語帳からふっと目を離したとき、視界がぼやけた。自分でもびっくりして、さすがにマズいと思い、ありったけ涙をひっこめた。おかげで、垂れることは無かったけど、頭はじんと痛んだ。今日は気を抜くと理由もなく涙が出そうになるみたいだ。
柄になくこっそりスマホ取り出すと、通知があった。沙也か。
【放課後自習しよう(^^)/】
【七限目終わったら迎えに行くね】
【おーか――】
【逢花―――】
難関大クラスの授業中にスマホをいじるという高度技術。
あと返信めちゃ速い。
連絡はうれしい、でも、ごめん。
【今ちっとしんどくて変形しそうです(*- -)】
【変形って笑】
【なんか目玉がまるからさんかくになりそう】
【やめて。笑】
【今日は変形する前におうちに帰るねm(__)m】
【大丈夫よん。笑】
【おーかに会いたかった…】
【気を付けて帰ってね】
ふぅー。ぎこちなくフリック入力してたら、少し落ち着いた。
なんでもない、いつもと変わらない五時四十五分発のバスの中。
家や車や線路を通り過ぎる電車の光。車外の光はそれくらい。バスは光の塊になって帰路を進むだけ。流れるアナウンス。スマホをいじる人。停まるバス。よろける人。暗い外。発車。ぼやぼや、ボヤ、ボヤ。あ。あ。あ。あ。なんでもないのに、なんでだろう、こみ上げてくる。
私は鼻水をすすってこらえた。本当になんてことのない、ただいつもバスに乗って帰ろうとしているだけだから。
ああ、おかしーな。何もないのに涙が出そうになるなんて。変だな、ああ危ない、危ない。
気付いたらいつもどおりスマホをリュックから取り出していたが、いつもより心なしかスマホが重かった。
3月1日
今日学校を休んだ。
風邪でもインフルエンザでのないのに休んだ。いわゆる仮病だ。
こんなのとするのは初めてだった。
行きたくないと言ったら、何か言われるかと思った。が、休むのを許してもらえた。母さんありがとう。ごめんなさい。
起きた時、
『行きたくない』
そう強く思った。
昨日のバスと同じようなことが今日も起こりそうな気がして。
というか身体が物凄く拒絶している。
今まではどんなに教室がうるさくても、空気が悪くても、集中できていたのに。昨日は何か違った。
今は昨日よりもずっと気持ちが穏やかだ。多分、今日学校に行っていたらもうだめだったかもしれない。休みの日は気がめいってしまうことが多いのに、今日はその逆だ。人の声も無いし、空調も自分の思うままだ。何よりちゃんと一人になれる。自分の判断が珍しく、よどみがなかったことを、このひと時だけでも覚えていたい。
やっと眠気がやってきた。
三月一日
澄んだ月光は浜一面をやさしく照らしていました。
「足とか欲しくならないの?」
×××は冗談まじりに言いました。
「わざわざ足付けて地べたを走り回るくらいなら、この尾鰭で空を泳いでみたいかな」
夜空を見上げたスイの瞳に海風のきらめきが映っています。
「今夜は一段とみんな穏やかだ」
そう呟くスイを観て×××は思いついたかのように、
「それならカンタンさ」
すこしほほえむと、ちょっと失礼と言って、サッと翼を広げ、右手にグッと力を込めると、ザーッと×××の細い腕に不釣合な化け物の前足に変化させました。不気味な前足は、左翼の羽根の付け根にそっと触れると、太い鉤爪を立て、何かを勢い良く引きちぎりました。つーーと赤黒い血液が白い砂礫へ垂れていきます。
スイは一瞬、眼の色が変えると慌てて、
「血止めないと―」
「大丈夫、ほら見て」
すると、握った化け物の手の隙間から眩い光が次々にすり抜けていきました。遂に光は手を包み込み、元の小さな人間の手に変えてしまいました。
その手をふっと開くと、飴色の黄玉が煌めいていました。
×××は翼の傷口を左手でなでると、一瞬で傷は消え、糸の様に垂れていた血液は鉄の紐に変わりました。
×××は両手でたおやかに二拍子を描くと、左右の手の中にあった黄玉と紐が一つの首飾りになりました。
スイの目の前に膝立つと、顔を少し伏せて黄玉の首飾りをかけました。
スイは首にかかった黄玉を手に取りました。黄玉を見つめていると、なんだか胸がやさしい温もりでいっぱいになりました。
「これ温かいね」
「そう?でもそれだけじゃないよ。ちょっと空を見てみて」
するとスイの身体が僅かに浮きました。
「くぁっ、今浮いた⁈」
「泳ぐのを想像してみて、いや、想像するまでもないか」
スイは日光が戻ってきそうな笑みを浮かべ、ゆっくりと鰭を動かしました。
スイの身体は上へ上へと向かっていきました。空気は水よりも軽やかで、風の波は海の波よりうんと気まぐれに感じました。鱗を撫でる空気がちょっぴりむず痒いだけで、あとは平気で泳げました。
×××も黒い翼を広げて飛び立ちました。
二人で踊るように海と宙の隙間を滑っていきました。
5月27日
スマホのアラームを切って、時計を見る。六時四十分。
今日の塾の教材とスマホ、鍵、定期が入っているかもう一度確認して、ギリギリ文法問題集も入りそうだが、重いので今日はやめる。制服着て、リュックしょって、体育着持って、ご飯食べて、歯磨いて、弁当持って、そのお礼言って、タオル入れて、行く前になって水筒入れるのを思い出して、ちょいとぬるいポカリ注いで蓋しっかりしめて教科書の隙間に押し込んで、出ていく……
バスのドア手前の一人席に座る。膝に乗せたでかめのリュックはちょうど机代わりになるので、そこにリュックの横ポケットから引っ張り出したボロボロの単語帳をのせる。今日は晴れだから運転もスムーズだ。単語と意味の境目を折ってめくるのを繰り返す。繰り返すリズムに乗りながら頭の中で、 breakdown 崩壊reunion 再会 knot 結び目probeなんだっけ、宇宙探査用ロケットか radiation放射線……とテンポよく答えていく。
バスが止まる制服を着た小学生が乗車する。いつも見送る親に元気よく手を振って見えなくなるとすっと上品に座り直すのがすごいなぁと思う。またバスが止まる。いつもポケモンGOしているおじさんと缶コーヒー持っているおじさんが乗車する。おじさんたちが乗ってくるのがもうすぐ到着の合図だ。
外に出た瞬間汗にシャツがひっつく。ひしめく改札をすり抜け、すでに満員電車の快速電車に乗り込む。ついても出られなくなるからいつも通りドアの近くに立つ。
暑くてだるくてとにかく眠い。異常気象に完全に振り回されている今日この頃。今日こそ快眠がしたい。目の下のクマがだんだん濃くなっている。
でも明後日からテストだし、テストの翌日には英検もある。
気は抜けない!
五月二十七日
卯の花腐しが通り過ぎ、また夏の匂いが濃くなっていきます。
それは夜も同じで、夏風は通るものの少し湿った空気が肌に纏わりつきました。
×××は涼しい顔をして言いました。
「消したい。静止した音が澄むために。みんな消したい」
「波の音も?」
「ううん。思ってもないことをいってみたかっただけ」
「なんだ」
スイは水面に浮いた泡沫をいじりながら言いました。
「ぼくと×××が一緒に消えたい」
「え?」
「思ってもないことをいってみたかっただけ」
ちゃぽん。
×××が咳をした拍子に月長石が潮水に落ちました。
秘密の海辺は弓張月が冴えわたっています。
6月5日
3・4限が体育なのが憂鬱だった。
1限から英語のテスト返しなのは、かえって気が軽く感じる。
ホームルームが終わると、全クラスの生徒が一斉に習熟度別の各教室へと移動する。
高3になってからは、習熟度別の教室か科目別の教室への移動が増えたので、ほとんど自分のクラスで授業を受けてない。
教室を移動する人たちの足音や机、椅子が床に擦れる音、誰かの会話。色んな音が混ざり合って、ぞろぞろぞろぞろと、なんだか 人間よりもっと大きな生き物が群れをなして攻めてくるようなそんな感じがする。
「A2クラスの平均点は57点でした」
周りの声声。指の脇が痒い。
「では番号順に返しますので、取りに来てください」
静まった教室は1人また1人とテストが返されるたびに、また元の声声に戻っていく。
何点だった?この前は勝っただろ。微妙だったから見せたくない。やったー赤点回避。どうだった? 俺前回より点数上がった! ⑷の問題合ってた。はっしー先生の作った問題むずくね。期末で取り返すから。マジ期末頑張らないとヤバい。などと、賑わっている。
他人の点数を見たところで自分の点数は変わらないのに。
角を折った答案用紙の数字を反芻しながら、間違えた問題と点数に間違いがないか、解答用紙に目を通す。68点はこのクラスに残ろうと思ったら、ギリギリの点数だ。ましてこの問題内容で入試ではまったく通用しない。頑張らなきゃ。
個室が埋まる前にいち早くトイレに向かう。よし、まだ空きがあるな。とっさに入ってとっさに鍵を閉める。トイレは案外、その場で用を足せるし、着替えもできるし、何より一人になれる。一人で着替えられるから恥ずかしくないし、安心できるしある意味ラッキー。
さっさと着替えて息を吐く。予鈴に間に合う時間ギリギリまでその場でぼーっとする。
体育館の裏の小さな部屋が唯一の女子更衣室。体育の集合場所がどこであろうと、女子はそこに移動して着替えなければならない。
けれど、高三の教室はさらに体育館から遠く、そんなことしていたら誰だって授業に間に合わないから、みんなトイレで着替える。
個室の外は賑やかになってきた。個室で着替えられなかったというよりは誰かと着替えたい人たちがたむろしている。女性教師がそれを見かけたらしく、生徒たちに注意していた。ちゃんと更衣室で着替えなさいと。ここじゃないと間に合わないんです~そうへなへなと返されて、教師も困り顔をへなっとさせて行ってしまった。
程よく人が集まり出したのを見計らって校庭に出る。
初夏の高気圧は嘘みたいに晴れ晴れとして、限りない夏の匂いを運んでくる。ついでに毎年よく聞くようになった危険な暑さも放っている。
これから二時間も体を動かすことに身体を拘束されなきゃならない。面倒だ。
砂埃と一緒に女の子たちが校庭の一部ひしめき合っている。ただでさえ密集しているのに、彼女たちはさらに友達どうし身を寄せ合い、笑声をあげる。それは朗らかにも、凄まじい引力を発し合っている。
どうしてそんな簡単に幸せな顔ができるのだろう?不思議な生き物たちだ。
準備体操が終わり、集合して座り、教師の話を聞く。体育着に砂を付けたくないので、地べたに座らないようにする。
体育倉庫のロッカーに入っているグローブにみんな仕方なく群がっていく。ある程度勢いが収まったところで、誰かの汗が幾重にも染みついた余り物のグローブを持って、石灰まみれの倉庫から出る。出たらもうみんなペアを組み、グローブに手を通し、ボールを投げ合っていた。
二人の世界。
真珠貝のように清く若やかな触れてはいけない空気を纏う。
まとったそれが特に柔らかそうなものを遠目から窺う。今日はこの二人かな。悪いけど踏み入れさせてもらおう。
「入れてもらってもいい?」
二人の幸せな顔が最低限の歪んだ笑顔になる。でも次にこう答えること知っている。
「いいよ。一緒にやろう」
狙い通りだ。ありがとう~! あり合わせの陰気で作った陽気な声で二人にお礼を言う。
変な方向に投げてしまったボールをわざわざ拾いに行かせてしまうこと対して、みんな語尾をどこまでも朗らかに大きな声で「ごめ~ん」と自然とすぐに発する。
それができない。すぐに発そうとすると語尾は下がり、相手に届かないであろう音量になる。それを発さないと、この空間においてはあまりにも無神経な人間になってしまう。下手くそにボールを投げながら、脳内はなぜか「太陽ギラギラ。夏なんです。」と呟いている。
休憩時間。さらに周りの引力は高まる。みんな集団から外れてしまう恐怖が渦巻いて、本当はやりたくない事や話したくない会話に参加しているのだろうか。そうだとしても、そんな風には見えない。女の子は砂糖菓子みたいにグループを作る。そしてお喋りが大好きだ。きっと大人になってもずっとそうなのだろうな。
群れをはぐれた重い空をゆく~♪なんちゃって。
ひっちゃかめっちゃかな楽しいメロディが頭を駆け抜けていった。
息つぎをするように上を向く。
白昼の青天井だった。
なんとなく翼をつけて飛んでいくことを想像する。ひこうき雲をなぞって、風にのって、翼もバサッと大きくて、メーヴェで飛ぶのとは違うんだな、なんかこう、飛び立つときに思いっきり地面を巻き上げて、足でよいっと蹴飛ばす感じ!
汗と砂埃の匂いが体育着に染みついている。
ドアの向こうが決して見ない教室の外の壁に寄りかかる。
何人か他の女子もやってきて、その中の一人がその教室を伺いながら「もう入ってもいい?」と聞く。「まだ何人かうえ着替えてるけどいいよ」という声で女子たちはドアを開けて、なぜか気を使った雰囲気を纏って入る。隣のクラスの女子もそうしていた。
肌を突き刺すような冷気、大量の制汗剤の匂いが薄暗い教室に充満している。まだのびのびと体育着を脱いでいる人もいる。
全てを遮ってそそくさと机横のフックに体育着をかけ、もう反対の横のフックにかけてあるリュックから弁当を取り出して、他の弁当の匂いと制汗剤の匂いとその他悪臭が混ざり切らないうちに中身を口に運ぶ。
教室の外で食べることができれば、こんな劣悪な環境に困りはしないけど、でもそれは誰かと食べる人だけの特権だ。
屋外のベンチも、自由開放してある多目的室も、すべて誰かと食べる人ための空間であって、実際すべてそういう人たちで埋まっている。結局僕にとって最良なのは、この机一つの空間だけだ。にしても、急いで喉に通しているとはいえ、自分の弁当の匂いだけでもきついなぁ! この空間は何しても気持ち悪くなりそう。
やっと弁当が空になった。図書室にいこう。
塾が始まる前に駅の売店でパンと野菜ジュースを買う。
おにぎりだと海苔の音でうるさくしてしまうし、咀嚼音も出にくいパンがちょうどいい。野菜ジュースは母さんにちゃんと食べたことを伝えるための気休め。
教室が開く2分前に着き、一番に教室に入る。誰かが来る前にさっき買ったのを食べる。授業が始まるまであと15分。何人か教室に入ってくる度に空気は次第に切迫していく。ひたすら今日の小テストの範囲を反復する。
あっ。トイレ行っとかなきゃ。学校よりも40分授業が長いわけだし。
22時前のバスに乗る。この時間のバスはそこそこ込んでいる。今日は後ろの席に座れた。立っている乗客はいつも塾帰りの小学生3人組くらいだ。スマホを久しぶりに開く。パスワードを打っている親指のささくれが大分捲れていた。よく見たら小指も人差し指もささくれから皮が捲れて血がにじんでいた。
やっと眠気を感じてきたとき、
毎度おなじみの怒号が響いた。
私も毎度この声で敏に身体が反応してしまいすわ。さすがに今日は堪忍しとくなはれ。そんな大声やったら、2階にいとっても十分聞こえてまっせ。そんでなくてもちっと耳はいいほうなんで。
剣呑でより威圧的な父の怒鳴り声とすぐ言い返す母の悲痛な声。
徐々に悲痛な声は、故郷の言葉が玉になったやけに論理的なマシンガンになって、叫びとなって、絶体絶命の生き物の悲鳴となる。
あと殺してくれーって叫ぶな。ほんとに死んだり殺したりしたら、このあとどうしようかなぁ。まあまず寝るわな。
まあこうなったら、2階で寝ようとしている人のことなんぞ頭にないでしょうけど。
もうしばらくは起きているしかないな、照明とホーチキしかない天井を見て自然消滅を待つ。
10年以上一人っ子をやっているとそれなりに慣れてくるものだ。
小学生の頃はこの状況から物理的に守ってくれそうな兄や犬が欲しかった。中学生の頃は自ら現場の様子を録画したり、音声を録音したり、酷い時には泣きながら木刀を持って割って入って止めようとした。今は離れること、知らないふりをすることそれが賢明であり最善であると落ち着いた。
創造性のかけらもねぇのは当然か。まともに、対等に話し合えないから、こうなるんだろう。しらんけど。
父はおとなしく階段を昇ってきたかと思ったら――ドドバシンッ。
自室のドアにあたるなよ。というか毎日コツコツ火薬の種蒔きしとるんはあんさんやろ。しらんけど。
やっと静かになった。
ようやく眠れるわけもなく、またつまらない天井を眺めていた。
六月五日
黒豹に変化した×××は、夜風を遮って独りひた走りました。
丘を越えてあの海辺に降り立とうとしましたが、気が変わって、翼を広げるとそのまま雲の向こうへ飛び上がりました。
空のさらに先へと真っ直ぐ、がむしゃらに飛びました。しかし頭皮がチクチクして、息が苦しくなりだしました。
たまらなくなって気を抜くと、そのまま地に落ちていきました。
落ちていくとき、歌声が聞こえてきました。
声は胸から頭へと響きました。
×××は閉じた翼を広げ、身体をくねらせて体勢を立て直すと、歌声の方へ向かって飛んでいきました。
歌声は秘密の海辺で座っているスイのものでした。
「素敵な歌声だね」
「ありがとう。でも、ぼくは×××の声のほうがいいな」
×××は素知らぬ顔で何も言わずにスイの横に座りました。そしてふと呟きました。
「僕たちお互いの世界を今日も知らないのに、今夜もこうして隣にすわっている」
「ほんとうに何も知らない儘で、こうして互いに時間をすくい合っている。このひとときが、いとしく思うんだ」
スイは胸元で温かく光る黄玉を撫でました。そして×××ですら聞き取れないほどの声で、
「君がいてくれたらいいや」
「えっなに?」
「なんでもない」
6月21日
頭痛がする。単に低気圧のせいだからか。暑さのせいか。調子が悪いだけなのか。そんなこと考えている場合じゃない。
体育の授業があと2分で始まっちゃう。トイレの中から出たくない。開始のチャイムが迫ってくる。頭のテッペンに白い糸がぎゅいんと、痛みも貫いて集まっていく。そんな感覚がする。
あと1分。
内申のために出席しないと。
霧のような咳が止まらない。
息が苦しい。
重いドアを開け、急いで体育館へ向かう。
何人もの人間がクラスに分かれ、自分のだいたいの場所に並び、蠢きあっている。人間たちによってさらに湿気と熱が体育館に充満する。
高3からは週の体育が3時間に増え、うち1時間は体育館での何かしらの体育活動が義務付けられている。今日はその日。
雑音に頭が痛い。咳を堪えながら蠢く中へ入り込む。出席が取られる。目的は達成した。頭が痛い。
全員で準備体操をする。指定された動きを骨のあるクラゲの様に動かす生き物たちに擬態していたら、吐き気がしてきた。
準備体操が終わると、各自やりたいスポーツの準備と一緒にやりたい人同士の集まりがごく自然に行われていく。
頭が痛い。寒気がしてきた。1回更衣室へ戻ろう。体育館脇の更衣室のドアを開ける。
誰もいない。外から人間のはしゃいだ声が丸聞こえだ。水筒をあけ一口飲む。タオルで冷や汗を拭き、着替え入れのエコバックからスマホを取り出す。スマホのロック画面は11時58分。あと37分もある。
誰かがドアノブを回した音が聞こえたのと背筋がすっと薄くなるのとどっちが先だっただろう。息を切らし1人勢いよく入ってきた。
その人に睨まれる寸前、タオルとスマホをジャージのポケットに押し込んで更衣室を出た。
「調子悪いので保健室いってもいいですか」
目を覚まして、残った霧が漏れ出た。
仕切りカーテンが揺らめいた。
粗野に引き戸を開けた足音たちが入ってくる。
何㎝?キャキャキャ$%#$&#$&$#あははは162?キャキャ161*$%&&#あはキャははあははは*$%&&#’$&&キャーえっ2㎝伸びたキャーーあは”#”%#$%”#”あははは私もあはは量るふふあははウチもあはははははははっははっははははははははかあははははハハッハハハハハハハハハハハハ
馬鹿笑いと身長計がきしむ音が静寂を劈いた。
安全地帯はどこにもない。
六月二十一日
砂に籠った熱が冷め切るころ、あの海辺には二人が居ました。
「×××は青天を飛んでいかないの?」
「昼間は飛ばないね」
「ただでさえ地上で危険な暑さなのに、これ以上太陽の近いところ飛んだらこげちゃいそう」
×××はそういうと、くすっと笑ってさらにいいました。
「マル焦げの丸焼きになっちゃうかも」
ふふ。スイも笑っていいました。
「それならぼくだって、昼間の海上はぐつぐつ煮え滾っていて、とうてい泳いでいく気がしないな」
「煮魚になっちゃうよ!」
2人はおかしくって、おかしくって、笑い合いました。
「夜がいいのさ」
「そうさ夜がいい」
風に吹かれる漂着物も、カラコロと音をたてて笑っているようでした。
7月17日
夏休みに入っても、学校で生物の講習があるので変わらず登校する。
講習中の教室は、通常の授業よりも切り詰めた空気で充満している。
夏休み終盤に控える模試で、目指す志望校のレベルも、現状から本番までの目途もあらゆる面で絞られていく。指定校推薦はこの模試の結果で推薦してもらえるかが決まる。この夏休みの過ごし方が自分たちの今後に深く関わってくると思うと、そりゃ空気もはりつめるわけだな。
授業じゃ進捗が遅いので、1学期の内に勝手に進めていた範囲を、この講習で復習する。
三者面談で一般入試と公募推薦に加えて、指定校推薦もすることになってしまった。正直、指定校には行きたくない。誰かと指定校被らないかな。代わりに行ってくれないかな。それと、志望校の公募推薦のことも同時進行しなきゃいけないんだよな。
ふと、そんなことを考えていたら、5分休憩になっていた。少しほどけた空気の中で、友達同士で面接練習を楽しげにしている人たちがいる。そのうちの一人はおそらく同じ志望校だと感じている。
ああ、同じところを受ける人たちは、この時期には面接や小論の対策をバッチリ進めているのに。私は中々できていない。小論も難しすぎて全然進まないし、面接も練習してない。9月までには小論を書き通したいと思っているのに、何日も悩んでいるのがもったいない。試験時間60分でちゃんと書き切ることができるのだろうか。このままじゃ1文字も書けないで終わってしまいそう。
蝉の音が窓外からじわりじわりと染み込んでくる。
七月十七日
丸っこい月が灰色の雲を白く照らしながら、かき分けていくのを、×××とスイは見上げていました。雲の向こうから顔を出す星々がなんともいじらしく光っていました。
スイは言いました。
「他の魚はみんなちゃんとした住処の周りを泳いでいるけど、ぼくはどこへでも現れられるんだ」
「そのわりに僕とよく会わないかい?」
流し目に×××を見るとスイは言いました。
「×××はあの丘の前にいるから」
「スイは気まぐれだね」
「君もね」
×××は気になったことがふと浮かびましたが、呑み込もうとしました。しかしスイはそれを察しました。
「言って」
×××は躊躇いながら言いました。
「スイは住処を探しているの?」
しばらく沈黙があった後、波音が押し寄せてきました。
スイは透き通った声が僅かに震えました。
「怖がられているんだ」
「海の時計は針が無いんだ。だから前から、昔から、はじめから、ずっと……」
スイの硝子の瞳が冷たい水で満ちました。
「みんなぼくが怖いんだ」
×××はレースのハンカチをポケットから取り出すと、スイの頬を伝っていく水滴をやさしく拭いました。
「僕、特別勇敢ってわけじゃないし、むしろとっても怖がりだけど、スイは怖くないよ」
そう呟いた×××の声に、スイは温かい涙がこぼれました。
「ぼくのことを知ったのは、×××が最初なんだ」
8月7日
やはり休日は敵だ。休日になると完全に機能停止ボタンが押される。具体的な考えも先のことも現在のことも適確に判断することができなくなる。特に休日が続くと最悪だ。ずっとそんな状態が続く。作動したと思ったら、 休日が空けていて、自己嫌悪でいっぱいになる。こうなったら停止ボタンが押されるのを なんとか阻止するほかない。押されるポイントは朝起きた時と朝食後だ。朝食後が特に危険だ。押される隙を作るな。
雑音だらけのこの日々から逃げたい、避けたい、爆破したい。
八月七日
雲の動く音と波の音がカルピスみたいに混ざり合い、涼しげなシャワーが秘密の海辺にかかりました。
スイが嬉しそうに言いました。
「雨って空も海も陸もみんなに一緒になるね」
「たしかにみんな海みたいだ」
「今ならどこまでも泳いでいけそうな気がする」
「じゃあ行ってみる?」
スイは雨粒踊る夜空へと鰭を揺らしました。
×××はターコイズを取り出すと、自分の素足にかざしました。すると天青色のパンプスがぴったり履かれていました。その足で跳ねると、空気中の水滴一粒でも軽やかにステップを踏んでゆけるのでした。
二人は雨の中を歌い踊りながら、目に皴を寄せました。水滴がついて泣き顔みたいになって、また楽しくなりました。
「ぼく雨は嫌いじゃないよ」
「僕も。歌っても周りの音に紛れるからちょっぴり恥ずかしくないんだ」
「ぼくは晴れていても×××の歌を聴きたい! もちろん今も」
「そんなこと言われたら余計に恥ずかしいよ」
×××の頬が赤くなりました。スイが微笑んで見つめてくるので、たまらなくなって、
「歌の代わりといってはなんだけど」
と言うと、
翼に埋め込められた石たちをありったけ宙に放り投げました。
力を石たちに放つと、
一発。二発。百花繚乱と咲き乱れました。
火の破裂音は雨音と波音と不思議なメロディを奏でました。
「綺麗。でも今度また歌を聴かせてね」
「うん」
夏の匂いが霧になって消える前に。星の欠片の花たちが、綻び、荒ぶり、散っていきました。
8月9日
のどが渇いて目が覚めた。
起き上がるとふらついてまた布団に倒れ込んだ。
胸のあたりが溺れた後みたいな、というより、水を吞み込んでも構わず泳いだプール上がりに似た感覚がする。
十八時からの夏季講習の用意をする。適当にお腹を満たし、夕暮れのバス停に急ぐ。
耳も、目も、声も、身動きも、時間も、ありとあらゆるものが縛られているように感じる。
授業が終わって気付く。椅子に冷や汗が溜まっていたことを。
8月18日
木々の向こうからカラメル色が射す。図書館へ歩いているとき、2月のバスで涙が込み上げたことを思い出した。
泣かないように気持ちを抑えるので精一杯だった。それまで全く寝むれない日もあった。瞼が全く閉じない。眠気すらも元々備わっていないような感覚。3時まで眠れない日もあった。
「寝なきゃ、ねなきゃ、なんで目蓋は閉じないの・・・」「なんで閉じないの」「どうしよう閉じない」「今寝ないと明日も学校あるのに」あー目が閉じない。気持ち悪いほどにどんどん冴えてくる。寝たいのにまったくねむたくなってこない。開ききった瞳から塩水が静かに流れていた。眠れない日でも大抵時間が経てば、ぼーぅとしてきて眠たくなるのに、あの日は違った。
あー。模試は1週間後だ。図書館で気分転換している場合じゃないのは分かっているけど。こんな調子じゃだめだな。それでもこの重だるさは消えない。
図書館の入ったすぐの書架は怪談本が置かれていた。これなら今の気分でも読めそうだと思い、本に手を伸ばした。
八月十八日
去り始める夏の月が、名残惜しそうに静まり返った海を照らしていました。
スイは婉然たる笑みを見せて言いました。
「×××の歌を聴きたい」
「君の目の前で歌うの?」
「今度歌を聴かせてくれる約束したよ」
「そうだっけ? 意識されると歌いにくいな」
「じゃあ一緒に歌わない?」
×××は海の向こうを見つめながら言いました。
「合唱とか誰かと違う音を重ねようとすると苦しくなるんだ。自分の声が本当に分からなくなってしまうんだ。誰かと話す時だってそう。自分ではどうにもならない音を吐いてしまうんだ」
「じゃあぼくと話しているときは?」
×××ははっとしてスイを見ました。
「なんともない。ちゃんと僕の声だ」
×××は少しはにかんでスイに言いました。
「どうぞお手柔らかに」
×××とスイの声が混ざり合い、妙なる調和が紡がれてゆきます
「不思議だ。スイの声なら声を重ねても、変につられないし、声を出すのが苦しくなっていかない」
「不思議なのはぼくの方だよ」
スイは×××に言いました。
「×××の声を聴いているときも、この黄玉の光を見ているときも、この胸がいっぱいになるの。温かくって、優しくって、懐かしくって、どうしようもない気持ちが溢れそうになるの」
「それは僕じゃなくて力がそうさせているのでしょう」
「そうだとしても、その力は君から湧き出ているのだよ」
「こういう力は才のある賢明な者が使うものだよ。なんで僕がもっているのか、僕にわからないんだ」
×××は苦笑いをすると、そのまま海辺を飛び立ちいってしまいました。黄玉はスイの手の中で温かな光を放ち続けていました。
8月25日
台風が北上してきているらしいが、まだこの街は模試を受けに行くにはぴったりなほど晴れている。
知っている人間の気を感じると案の定、私服のクラスメイトや、見たことある人がちらほらいた。本番もこんな感じかな。ほとんど同い年の人たちが私服でみっちり座っている感じが何だか気持ち悪い。試験が始まったら、それどころじゃないけど。
休憩時間。お手洗いに行くために教室の外に出ると、人がごった返していた。会場の大学は雑音をより響かせていた。
個室から出て、手を洗っているとき、隣から視線を感じた。
「逢花! ひさしぶり」
「ひさしぶり」
中学の同級生の琴子だった。
琴子は私の肩のあたりを見ると口を開いた。
「髪切ったの?」
「うん。これから願掛けで伸ばそうと思って」
「うちも落ちるってできるだけ言わないようにしてる」
「何が何でも受からなきゃだもんね……」
「ほんと浪人したくないわ」
「うん」
彼女の学校の友達たちが個室から出てきたので、じゃあねと言って先にお手洗いを出た。
琴子は軽く手を振っていた。
結局、何1つ出来た気がしなかった。夕暮れの帰路をとぼとぼ歩いたら、ん?
犬がいた。首輪もついてない小型犬。目が合った。犬は少し吠えると、車が走る道路を素早く横切って走り去っていった。
初めて見た野良犬の衝撃で、模試のことが軽く吹き飛んだ。
8月27日
始業式は雨だった。休み明けはより厳粛な受験生の雰囲気が高まっているかと思ったが、案外陽気で満ち溢れていた。
「この夏休みどのように過ごしましたか。こないだの模試で、皆さん自分の過ごし方がどうであったかそれぞれ感じたと思います……」
結局、学年集会で陽気は半分以上吹き飛んでいた。
8月30日
今日も1日中、滝のような雨が降っている。
さしても意味もなさそうな傘を急いで閉じてドアを開ける。
びちゃびちゃの靴下とタオルと半袖シャツを洗濯機に突っ込んでテレビをつける。
ニュースを見ると、土砂災害警戒警報や洪水警報が出ている地域もある。この街にも明日の夜、台風が来襲する予報だ。吹き飛んでいかないように、玄関で植木鉢が身を寄せ合っている。
八月31日
台風の勢力は強く、旋風は木々や看板を吹き飛ばし、電柱や家々は傾きました。
未明の中の台風は無音の隙もありません。
×××はダイヤの光に身を包み、空から惨状を見下ろしました。
海面には大きな波浪が立ち、波は棘のように異なった方向へ伝わっていきました。
海辺を見ると風津波が丘の向こうの街まで吞み込もうとしていました。
×××はその風津波を押し出すように佇んむ黒い影を見つけました。
影は海の向こうからもくもくと増えてゆき、大きな影になりました。
(どうか元の場所へ帰さないと。
上陸させたら、被害は想像以上では済まされない。
影よ、元の場所へ帰って)
×××の願いなど当然届くこともなく、竜巻の目の中に影は佇んだ儘でした。嵐は一層激しさを増すばかりです。
×××は影に向けて翼いっぱいに受けた風を打ち返しました。
雨粒が銃弾となって華奢な身体に打ち付けました。
「――っ。全然動かない」
水滴で視界が揺らいだ。歯を食いしばる。
もう、力を翼に残った石の一つに込めるしかない。
「止まれ!」
雨も風も、どよめきもすべて。僕だけを残して一時停止した。
「っ。ふぅ――。……」
落ち着け。でもどうしよう。だめだ。動き出す前に。
×××は黒豹に変化し、翼を今までにないほど大きく広げた。
四つ足で大気を踏みしめる。
鋭く一点を見つめ、翼を翻す。
空間がまたフツフツと震え始める。
疾風に翼を乗せて、刃のごとくエネルギーを放った。
影は陸から遠退いた。影を取り巻いていた 雨風も止んだ。
(このまま元の場所へと戻って行けば……。)
その瞬間、影はより暗く黒くうねり出し、 暴風を揚げ、さらには稲妻まで走らせた。
あまりの強風に×××は煽られ、厚い暗雲の向こう側へとはじき飛んだ。
羽がはらはらと落ちていく。
みぞおちは穴が開いたみたいに痛む。
肋も折れたかも。痛い。
それよりも胸の奥で、ヘドが疼く。
気持ちが悪い。匂わずとも匂う。腐った蜜柑と薹の立った葱が混じったのが、胸でドクドクと、ドロドロと、靄となって広がり、集まる感じがする。
止まらない、止まらない、
ヘドロはどんどん胸で渦巻いていく。
ゴボゴボゴボゴボゴボゴボゴボゴボゴボゴボゴボゴボ――――ゔっ。
あふれる……
ヘドロは黒豹を被いつくし巨大な塊になり、黒い宙に静止しました。
突然、巨大な塊は揺れ動き出し、閃光を放ちながら爆ぜました。
後光が差した白虎の姿がありました。
開いた白虎の目は、青い瞳から痛い痛しいほどの血眼に変わり、
雲の先を睨み付けると、影めがけて風を蹴り上げ突進しました。
白虎は人魚の首に咬み付いた。噴き出した生々しい血潮の中で、血眼を開き、荒い呼吸が牙から漏れた。爪を立てて頭部を掴み、そのまま引きちぎろうとした、そのとき
「キューッぎゅヴァァー」
小さくも身体の奥にまで届く叫びが響いた。
刹那、白虎の力は抜けてゆき、人魚からそっと離れました。赤い眼は灰色になり、その目に映った光景を見た途端、海一面が一瞬のうちに凍り付き、暴風雨は凪ました。
飛び散った血はヒトよりうんと凝固が速く、白虎が身震いをすると瞬時に血の粒がパラパラと落ちていきました。白い身体に深く染みついた血と傷は、黄玉の光とともに消えてゆきました。
人の姿に戻った×××は酷く動転したままスイのもとへ駆け寄りました。
鱗はめくれ上がり、鮮赤の真皮があらわになり、×××のツメの痕が深く刻まれていた。 首は骨が砕かれ、頭がただスジで繋がっていったようだった。ただどれも血に塗れ、そうであるかも分からないほど見るも無惨な姿であった。首筋には抉るように噛み付いた痕があった。そこからひゅるひゅると気が漏れ出ていた。気を失い睫毛を下ろし真っ青になった顔は美しかった。
散った血は凝固しても、スイ自身から流れゆく血液は、服を引きちぎって圧迫しようとも、傷口に手を当て魔力を込めても、羽にわずかに残った血石の欠片を当てても、何をしても止まることはありませんでした。スイたちの周りは、蒼白な氷も気づけば血だらけになっていました。
なんて、なんて、なんてことをしたんだ。ごめん、なさい。ごめんな、さい。ご、うう、ごめんなさ、い。ごめんなさい。スイ。ぼく。ぼく、は、あああまりにも、むごいことをした。なんてことをしたんだ! 僕はなんて、ことを。な、なにをしんじたらこんなにも酷く恐ろしいことが出来たのか、僕はなんてことをしたんだ。スイ。僕はなんて馬鹿なんだ……
そうしている間に氷は砕けてゆき、そのまま二人は海の底へと沈んでいきました。
海の底はどこまでも静かで穏やかな暗闇が広がっていました。
逢花の瞼は水圧に包まれるように閉じてゆきました。
心臓の音が澄んでいる。他には何もないみたいだ。
聞覚えがあるような、ないような声がした。ただ清々しいほど温厚に。
『スイを食い止めたから、災いを防いだから、仕方がなったというの?』
『罪には同じで、変わらない』
『どんなに過ぎゆこうともね』
ああやっとわかった。これは、自分の声なのだと……
海を見渡す丘の上を、背に人魚を乗せた白虎が一歩一歩、歩んできます。
人魚の真っ赤な血は白虎の背を伝い雫となって垂れてゆきました。
潮垂れて地に着きひらく花椿
虎は血の気が引いていく、と同時に真っ白な毛も抜けていきました。
それは波が引いていくようでした。
君想い絡みほころぶ椿花
×××たちが歩いた後には椿の小道ができました。
思い出せない、思い出せない、なんでそれがこんなに苦しいのか。それでもやっぱり忘れたままでいたいのか。なくせないのか。わからない。
この曇り空の街は、そんなに星も見えないのに。それなのに何故だろう。
どこか遠くで、夜の向こう側で、無数のきらめきをついさっきまで肌で感じていたようなんだ。
想像だとしても不鮮明な銀色の髪、引き込まれそうになる瞳。こんなにも綺麗な存在がどうして、自分の頭の奥へ奥へと押し込まれているのか。わからなかった。知らないことにするかのように。
それでも心が覚えてるんだ。君の声は消えないんだ。
僕が星になる
前にその最後に
見た
のは、頬を伝ふ一粒の、
透明な水が素足をくすぐる。
睫毛が全てをゆっくりと持ち上げていく。
空もまだ微睡んでいるみたいだ。
身体を起こすと涼風が夏木立を吹き抜けた。
くるぶしで透き通った水が、赤と白の椿をのせて揺蕩っている。
なめらかに輝く石が沈んでいた。
仰向けに静止した人魚の黄玉。指先で触れたら、光がはねて天を走る星にもみえた。
指ですっと撫ででみても、じっとした儘で、しばらく黙りこくっていた。
清らかな朝日と共に、水が世界を満たしていく…………
肺を満たす水が心地いい。
きらきらした気泡と椿たちが舞い上がってゆく。
反転した世界を察したのか、人魚の黄玉は赤椿と白椿と共に不器用に渦を巻いて、高く、高く昇っていった。
雲の中へと消えていった。
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