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郷愁の念


梅雨の雨音と朝夕の涼しさ、そして真昼の暑さ、控えめに主張を始めたセミの鳴き声とカエルの合唱。
とうに半袖シャツに衣替えをしたこの時分、じわじわと本格的な暑い夏が迫り来る束の間の平穏は、定職につけぬまま実家の子供部屋で物悲しく寝起きする私の日々に停滞し、将来についての目を逸らしたくなるような焦燥感を抱えた私に、容赦なく郷愁の念を思い起こさせていた。

もう、10年以上も前のこと。小学校最後の夏休みを、最近しきりに思い出してしまう。
山の麓の長閑な町に、私は生まれ12歳までをその地でのびのびと過ごした。
生まれた時から住んでいる馴染み深いこの町が大好きで、離れがたかったけれど、家の都合で来年には隣の区に引っ越すことが決まっていた。

朝はセミが鳴く声に起こされる。近くに木々の茂った大きな公園があるから、そこでたくさんのセミたちが独特の鳴き声を響かせる音は、池や田んぼに反響してさらに大きく聞こえる。
夏の午前、私はなんとも言えず悲しい気持ちを引きずったままに最後の自由時間を有意義に使おうと足掻いていた。
暑い夏とはいえ、今よりは過ごしやすく(今は都会に住んでいるが当時は自然豊かな田舎に住んでいたからそう感じるのかもしれない)、網戸から入る風と扇風機を頼りにしていた。エアコンの風ではこの部屋はあまり冷えなかった。
というのも、私たち家族が住んでいたアパートは2LDKで、私と弟のふたりのための子ども部屋とリビングには廊下がなく、直接ドア1枚を隔てているだけだった。
だから、家に一台だけのエアコンはリビングに設置され、私たちの部屋へは扇風機でエアコンに冷やされた空気を送ることでなんとか暑さを凌ぐことになる。
けれど、配置上仕方なかったが、私たちの部屋の内開きのドアのすぐ前にタンスがあり、ドアはタンスに引っかかり半分だけしか開かなかった。
更にこの頃の私は思春期だか反抗期だかで、1人部屋が欲しくてしかたなく、2段ベッドを部屋の真ん中に起き空間を二分し、ドア側を弟、奥に私のスペースとして分断し、擬似的な一人部屋が形成されていたので、私はひたすら暑かった。
とはいえ、基本的には誰にも邪魔されず1人きりになれる空間にとても重宝し、暑さを我慢してもこのスペースに篭っていた。(実際、二段ベッドの上段を弟が使っていたので、上から私のスペースを覗き見ることは可能だったのだが、弟は基本的に温厚で優しい性格なのでそのようなことはしなかった。私たちの二段ベッドは、下段は普通のベッド程度の高さだが、上段にははしごを掛けなければ登れないほど高く、天井が文字通り目と鼻の先にくるような作りになっていた。)

私が郷愁を感じて仕方ない、10年以上も前の小学校最後の夏休み。
その年、徒歩3分ほどの大通りにダイソーができた。せいぜい近所にはスーパーと薬局とディスカウントショップしかなかったので、私にとって絶好の遊び場になった。
涼しくて、USENで流行りのJポップが流れていて、いろんな小物たちを見て回るのはとても刺激的で楽しかったのだ。
そういうわけで、私は頻繁にこのダイソーに通っていた。お菓子や、アクセサリーや、書類整理のためのファイルや、ノートや文房具なんかをよく買っていた。けれど、この頃とくにハマっていたのはジグゾーパズルだった。
100~300ピースほどのものを買ってきては夢中で完成させていたのだ。私の家には物心つく前からラッセンのいるかの絵が数枚飾ってあったのだけれど、たまたまそのパズルの絵柄にもラッセンのもののような海の美しい絵のものがいくつもあり、(今思えばタッチだけ真似た別物だと思う)それらを好んで遊んだ。他にも可愛い動物や名画のパズルもした。これまでジグソーパズルに触れたことがほとんどなかったので、小学生の私は、自分の力でバラバラのピースを地道に組み合わせていってだんだん絵を完成されられることに対して達成感と喜びを覚えたのだろう。
それまでのパズル体験といえば、幼稚園のときに買ってもらった、30ピース程度しかない子供向けのポケモンやほかのアニメのパズルしかやったことがなかった。一人で100以上ある小さなピースから完成させられたのは、子供心に非常に達成感を覚え、自信につながったのだと思う。

それから、読書にも没頭していた。
市の図書館で借りた本を机に積み上げ、もくもくと読み続けた。
児童書や女児向けの薄くて読みやすいファンタジーや恋愛や学園ものがほとんどだったとはいえ、おそらく一週間に10冊以上読んでいただろう。
自身でも、詩や小説のようなものをA4コピー用紙に書き付けてみたり、宿題や進研ゼミのチャレンジを解いたりして、家の中では過ごしていた。あとはDSでポケモンやニンテンドッグスなんかをしてあそんでいた。
そんな折、いつもラジカセを机に置いて、レンタルしたCDアルバムを録音したMDを再生させた。作業用BGMというやつだ。
名探偵コナンなどの好きなアニメの主題歌集と、奥華子さんのアルバム、それから眠りのためのクラシック音楽などが主だった。私は、小学生の頃から、詳しくはないけれどクラシックを聴くのが好きだった。
今でも、それらの曲を聞くと、あの夏休みの景色を思い出す。

お昼には、幼い弟のためにNHKを見て、その後はケーブルテレビで世界名作劇場を見るのがルーチンになっていた。
当時専業主婦だった母は毎日美味しいお昼ご飯を作ってくれた。野菜入りの乾麺のそーめんやらーめん、うどん、冷やし中華のときもあれば、チャーハンの時もある。冷食を挟んだホットサンド、バナナ入りのホットケーキ、焼きそばの時もあった。二日同じということはなくて、毎日何を食べられるのかわくわくしていたような気がする。本当にごくまれに、私たちは近所のパン屋さんでパンを買った。そのお店は、徒歩2分ほどのご近所にあって、大きな大きなもみの木が目印だった。私はクロワッサンが大好きだったけれど、もっと印象深いパンがある。このお店はパ,イ生地が途方もなく美味しくて、パイ生地の上に輪切りのパイナップルを乗せたパン(パイナップルパイ? 名前は忘れてしまった)が何よりも大好物だったのだ。けれど、あのお店以外でそのパンを見たことがないのできっとオリジナルだったのだろう。今でもあの美味しさは忘れられない。

それから、ゆったり散歩をするのも好きだった。散歩なんて子供らしくない、と当時もなんとなく思っていたけれど、もうじきこの町から離れなければいけないのだと思うと、なんでもない近所の風景が途方もなく懐かしく大切なものに見えて仕方がなかった。
夕暮れの涼しい時分になると、1人でだったり、小学校低学年の例の二段ベッド上段の弟や、まだ幼稚園にも行かない弟も一緒だったりした。ときには、夕食を作る時間をぬって、母も一緒だったかもしれない。
家のすぐ裏にある田んぼ、大きな池のある公園、ダイソーやいつも乗るバス停や、駄菓子屋のある大通り、長閑な畑と住宅地の広がる通学路、一緒に下校する友達に手を振るゆるやかな坂道小川に沿った一方通行の真っ直ぐな道、なんでもない景色なのに、ひどく愛おしかった。

夜になれば、家の裏に広がる田んぼにて、カエルが鳴く。鳴くなんて生易しいものではない。あれは正真正銘、大合唱だ。げこげこげこげこ、と一晩中鳴き続ける。私なんかは生まれたときからこの声を聞いて育ったので何とも思わないが、結婚してこの家に住み始めた両親は、あまりのうるささによく眠れなかったと言っていた。
田んぼの稲がそよそよと風に靡く様は、見ていてとても癒されるが、その弊害だと言わざるを得ない。そして、弊害はもう一つあった。窓を開けると襲い来るようにたんぼむし(見たことないような、小さくて奇妙な虫たちを私たちはこう呼んでいた)が入ってくるのだ。しかも、あれらは蚊なんかより小さいから、下手すれば網戸すら通り抜けて入ってくる。天井の電気付近でうようよと大量の羽虫たちがうごめく様はさながら阿鼻叫喚。
そんなとき、母は颯爽と掃除機を持ち出す。先を外してホースだけにし、天井めがけて電源を付ける。虫たちを掃除機で吸って駆除していたのだ。これは近所に住む家族ぐるみの付き合いのある主婦の方の知恵だった。効果てきめん。
こうして、私たちは安心して眠りにつく。
車の通る音はほとんど聞こえない、長閑な夜。
けれど、私は引っ越しのストレスからか、この頃から不眠ぎみだった。そんな風に、眠れない夜には小さな音でラジカセを付けて、眠りのためのクラシック音楽を流す。
暗闇の中にラジカセの青い光だけが浮かび上がり、どこか幻想的だ。
このクラシック音楽を聴くと、今でも安心感とやすらぎと、同時にあの頃の言い知れないストレスや不安、そして過ぎ去った時間の残酷さが一気に襲ってきて、なんともいえない気持ちになってしまう。あの頃のように泣いてしまうことも多い。

もう10年以上も前の夏休み。

引っ越してしまった家に、町。
幼い弟の世話を焼き、私たちに昼食を作ってくれ笑顔を向けてくれる母は、まだ専業主婦だった。
私は小学校6年生で、無邪気そうに見えて悩み多き年頃だった。
間近に迫る引越しへのストレス、まったく知らない土地で始まる中学生活への不安、不登校に戻ってしまわないかという不安、大好きな友人たちと離れる寂しさ。
そんなものを必死に小さな胸の中に閉じ込めて囚われないよう蓋をして、最後の楽しい夏休みを満喫しようと必死に一日一日を生きていた。

梅雨が訪れ、夏の匂いを連れてくるこの季節になると、あの美しき夏休みの眩い記憶が、今でもふと幻みたいに思い出されるのだ。


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