遺書の話(悪霊の話パート2)

 ある年の初夏の事をよく覚えている。
 厄年などとっくに過ぎていたが、嫌な事ばかり起きる年で、イライラしていた。
 この年、僕は初めて義父を殴った。
 結婚して八年、まあとにかく性格の悪い義父だった。
 掃除の仕方に始まり、風呂の使い方、起きてくる時間に眠る時間、彼は四隅を突いて挑発してきているようだった。これが毎日続いた。
 その日は廊下を歩いていて、うるせえ、と背中に声をかけられた。
 瞬間、あ、キレたな、とわかった。
 僕は振り返って義父に歩み寄る。顔に一発、パンチをお見舞いした。二発目で身体がぐらつき、床に倒れた。僕はさらに三発、四発とパンチを加えていく。
 結局、殴った総数は全部で十六発、偶然にも八の倍数だった。
 気づくと義父はあちこちから血を流して、「すみません、すみません」と口走っている。
 ため息をついてしばらくその光景を眺める。

 妻に電話をすると彼女は血相を変えて家に帰ってきた。
 義父の手当てを済ませると妻が無表情に僕に言い放った。
「しばらく実家に帰ってほしい。こんな事する人だとは思わなかった」
 実家に帰った僕は両親に事情を説明した。
「何やってんだお前は……」
 父親からはそう言われ、母親からは呆れたようなため息が漏れた。
 職場の上司から電話が来たのはその日の夜の事だった。
「ついに殴ったんだって?」
「ええ、まあ……」
 そう言うと上司はため息をついた。
「後日、上層部から呼び出しがかかる」
 そう言った時の声は氷のように冷たかった。

 後日呼び出された僕は会社を解雇になった。

 その日の夜、一人になって考えた。
 ――ロクでもねえ人生だ。
 ――そうだ、さっさと死んじまえばいいのだ。
 そう考えた僕は遺書を書き始めた。
 まず一通り友人たちの名前を書いた。僕と一緒に遊んでくれてありがとう、とも。
 義父には恨みつらみをこめて「お前さえいなければこんな事にはならなかった」と書いた。
 それから部屋の中を掃除してテーブルの上に遺書、と書いた封筒を置いた。
 そして睡眠薬を一錠ずつ飲んだ。以前不眠で悩んでいた時に医者から処方されたものだった。全部で十錠、これで死ねるかどうかはわからないが。
 ベッドに横たわった僕はそっと目を閉じる。これでさよならかと思うと少し悲しかった。
 夢の中で意識はグルグルと回っていた。
 大勢が手を叩いて僕を笑っているのがわかる。
 そして誰かが右手の親指の付け根を強く握り締めている。
 先の方には無数の手が生えた穴があった。馬鹿でかいイソギンチャク、と言えばいいだろうか。
 あれが地獄の正体なのだろうか。
 そう悟った瞬間、僕は悲鳴をあげていた。無駄かもしれないが、全身全霊で叫んだ。死にたくない、死にたくない、死にたくない。

 次の瞬間、僕は目を開けていた。
 目の前には知らない天井があり、白衣のスタッフが「あっ、目開けました。聞こえますか?」と問いかけてくる。
 僕は声に出す代わりにうなずいた。
 死にかけの僕を発見したのは母親だった。ベッドの上で眠る僕と睡眠薬の包装と、遺書を見てすぐ異変に気づいたらしい。
 生き残った自分を襲ってきたのは後悔と、安堵という何とも言えない奇妙な心境だった。

 再び自殺の危険がある、という事でしばらく僕は病院で過ごす事になった。
 こう言ったら誤解を招くかもしれないが入院生活は楽しかった。
 様々な理由から体調を崩してしまった人が多く、自分の理由を訊くと誰もが同情をしてくれた。
「まだ若いんだから何とかやっていけるよ」
 そう言って元気づけてくれた人もいた。
 入院は一週間ほどで済み、退院当日には両親が迎えに来てくれた。
 二人に連れられて家に帰った僕は、自分の部屋に入った。
 その瞬間、重力が二倍になったかのような錯覚に襲われた。
 同時に部屋の中が暗闇に沈む。
 天井や床に目を向けると音もなくいくつもの手が伸びてくるのが見えた。真っ白で、向こう側が透けて見えそうな手だった。いいや、実際向こう側が透けて見えた。
 ――まってたよぉぉおお。
 どこからともなく声がする。
 老若男女、様々な人間の声が混ざったような声だった。
 部屋を出なくてはならない。そこで身体を動かそうとするが、思うように動いてくれない。
 身体を引きずるようにして、何とか外に出た。
 ――一体、何が起きているんだ……。
 僕はそこでふと思った。
 死ぬ間際に見た無数の手、あれが自分を追いかけてきたのではないか。
 僕は携帯を取り出すと友人のNに電話をかけた。
「久しぶり、ところで早速なんだけど……」
 そう言って僕は今に至るまでの事情を説明した。
「遺書は部屋の中に置いたままなんだな?」
 Nが言ってくる。
「そうだ」
「いいか、絶対にお前は部屋に入るな」
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ」
 両親にこの事を説明したところで聞いてくれるわけがない。
「俺が行く」
 Nはそう言って電話を切った。
 三十分ほどしてNが家にやって来た。彼は挨拶もそこそこに部屋に入ると遺書を部屋から持ち出してきた。
 その遺書が近くにあるだけで何か嫌な気配が漂っている。
「それが全ての元凶なのか?」
「それ以外に考えられないだろう。いいか」
 Nはそう言って話を続ける。
「遺書というのは「これから死にます」という宣言だ。そしてお前はまだ、あの女の幽霊に狙われている。だからこういう事が起きるんだよ」
 Nは遺書を、お札が貼ってある封筒の中に入れた。
 瞬間、嫌な気配は消え去った。
「忘れるなよ、お前、まだ自分が狙われてるって事を」
 そこで彼は僕の手を掴んで親指の付け根を触った。
「あの女は諦めていない」
 Nはそう言って辞去していった。
 部屋に戻る。
 あの嫌な気配は最初からなかったかのように消え失せていた。
 その日の夜は、何も起きなかった。妙な夢を見る事もなかった。
 それから一ヶ月後に妻が義父を伴って実家にやって来た。
 色々あってカッとなったのはわかるけれど、もうケンカはしないでもらいたい。
 あなたと別れるつもりはない。
 また一緒に暮らしてほしい。
 そんな事を言われた。
 義父も反省しているようで頭を下げてきた。
 僕はその提案を受け入れる事にした。

 再び同居が始まった。この頃には僕も新しい仕事に就き、順調な日々を送っていた。
 しばらくしてから、僕は嫌な夢にうなされるようになった。
 どこまでも白い手が追いかけてくる、そんな夢だった。
 そしてある日、家の中を掃除していて一枚の封筒がベッドの下に落ちているのを見つけた。
 何だろう、と思って僕はモップでそれを引き寄せる。封筒の中を開けた。
 そこには義父の字で、
「しんたが地獄に落ちますように」
 と書かれてあった。

 一つ言っておくと、僕は争いごとがあまり得意ではない。
 だが義父の字で書かれた手紙を見つけた時、何かが弾けたのを感じた。

 それから半年ほどすると義父はボケ始めた。
 寝ていると白い手が追いかけてくるとか、穴に落ちるとか、親指の付け根が痛むとか、そんな事を言い始めて不眠症になったのだ。昼間は壁の一点を見つめてぼんやりと過ごしている。
 今まで家の掃除は彼が行っていたが、それも当然できない。休みの日は僕が掃除を行う事になった。
 僕は義父の部屋に入るとベッドの下に落ちている封筒を見つける。
 セロハンテープを持ってくるとそれをベッドの底に貼り直す。
 それから僕は居間に行き、義父に声をかける。
「ごはんにしよっか」
 義父は気の抜けた笑みを返してくる。そこに怯えたような、妙な気配を僕は見逃さなかった。
 僕は妻と別れるつもりはなく、彼女が言ったように義父とも一緒に暮らす。
 僕たちは家族、死ぬまで一緒にいる。
 そうだろ?

 

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