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祖母の出産と明治40年の手紙

祖母笠松はる(晴)は、明治40年4月に長男を出産した。これは、その頃に池田はるから送られた安産を祈る手紙だが、当時の交信は、今と比べると随分とのんびりしていたのか、出した頃にはすでに出産が終わっていた。

手紙を読む前に、当時の祖父母の住所を確認するのが、分かりやすい。

明治37年 祖父近次郎が大井村大仏(おおぼとけ)に養豚業を営む
明治39年 近次郎とはるの結婚
明治40年 祖父母が四谷伝馬町に転居、薪炭業に従事する 4月18日長男の出産
大正9年 国鉄・東京駅検査場に勤務
その後、荏原区ニ葉町に転居

宛先は、東京府下荏原郡大井村 養豚業 笠松近次郎方 笠松はる(者類)で、消印は40.4.20だが、この時には、四谷伝馬町に住んでいた。

手紙の内容
一筆申し上げます。さてまだお目にかかっていませんが、あなたがの御妊孕おめでとうございます。私も一度は御目にかかたいと思っていますが、東京行き電車での往来が困難な身体ですので、ついつい御無沙汰してしまい、懐かしく思っています。妹すゑも参りたいと申していますが、最早臨月も近くて、前歩行さえ自由にできないでいます。何を申しても分娩は女子の大役であり、あなたも初産の事なので萬事を大事にされて、安々と分娩なされますように心から願っています。私もその内には是非ゝ参り、お目にかかりお話したいです。御子様を大事と御養生なさって下さい。なお近次郎様にもあなたからよろしくお伝え下さい。御出産なさいましたら、是非ゝお知らせ下さいますように今よりお頼み申し置きます。

 

原文
【宛先】府下荏原郡大井村 養豚業 笠松近次郎方 笠松はる様 親展 (消印40.4.20)
【差出】市内浅草区浅草阿部川町弐拾五番地 池田はるより 卯月廿日
【本文】一筆志めし申上奉候 さてはまだお目もじ不致候へ共 御まえ様事御妊孕のよし目出度事と存候 妾儀も一度は御目に懸り度ぞんじ居候へ共 東京ゆきへ電車にて往来致兼候からだゆへついゝ御無沙汰に相成り御なつかしくそんじ奉候 妹すゑ儀も参りたく申居候処最早臨月も近く前歩行さへ自由に出来不申候 何を申にも分娩は女子の大役にて御まえ様も初産の事なれば萬事を大養になされ安々と御分娩被成候様心願■■居奉候 妾事も其内には是非ゝ参り御目もじの上萬■御はなし申候まゝ御子大事と御養生被成度先は■■■■ 猶近次郎さまも御まへ様よりよろしく御傳被下度候 まつは あらゝかしこ           
池田はるより 笠松はる様
猶出産と相成候はは是非ゝ御しらせ被下度今より御たのみ申置候也

大井村養豚業と四谷伝馬町
明治37年に笠松近次郎は、大井村大仏で養豚業を始めたが、はると明治39年に結婚すると翌年に四谷伝馬町3丁目に転居した。別の手紙(雨降り続き)により、はるは、出産のために日本橋田所町に里帰りしていたと考えられる。

差し出し人の池田はるが、何故大井村養豚業に手紙を出したのかが疑問だが、結婚当時は大井村で養豚業をしていた近次郎はる夫婦が、その後に四谷に転居したことを知らなかったのだろう。郵便が転居先に転送されたとすると当時の郵便制度はかなり充実していたと思える。

この養豚業について母から以前に話を聞いたことがあった。
「小学校のころ馬込に写生に行き、養豚場を描いて帰って、おばあさんに見せたら、『ここで豚屋をやっていたんだよ』と笑っていた」
結婚して暫くは大井村大仏で養豚業を営んでいたことが、祖母の生活感のある言葉から窺われる。


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