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守るものを背負うもの、有翼のキャプテン・アメリカ

映画史を何度も塗り替えてきたマーベル・シネマティック・ユニバースがディズニーの配信事業を支えるためにNetflixを離れディズニープラスでドラマ配信を始めました。アベンジャーズ・エンドゲームという10年の積み重ねを締めくくった超超大作を受けてのエピローグでもあり、次なるフェーズへのプロローグとなるドラマとしてワンダビジョンに続いて配信されたのが「ファルコン&ウィンター・ソルジャー」キャプテン・アメリカ=スティーブ・ロジャースの相棒であるファルコン=サム・ウィルソンとウィンター・ソルジャー=ジェームズ・ブキャナン・"バッキー"・バーンズがスティーブを失って二人が主役になるという全6話のドラマ。ようやく最終話を見て、5話までで下書きしていたこの記事を完成させる時が来た!

■MCUフェーズ4

MCUとしてはスパイダーマン:ファー・フロム・ホームでフェーズ3を締めくくって今はフェーズ4なんですね。本来はブラック・ウィドウがその始まりで次がこのファルコン&ウィンター・ソルジャー。そしてエターナルズ、シャン・チーと続いて次がワンダビジョンだったという。この公開順の変更は内容に関係ないのかな…。

ちなみに面白いのがワンダビジョンもファルコン&ウィンター・ソルジャーもエンドゲームのエピローグ的な部分もあって、それは不可抗力もあるとはいえアベンジャーズがやってしまったこと、それによって起きてしまったことが原因なんだけど、ワンダビジョンの方は謎が謎を呼ぶミステリーな展開なんだけど、ファルコン&ウィンター・ソルジャーの方は現実&現実で心臓がギュってなるお話。

■ドラマでありながらシリーズ4作目

あくまでもサイドキック=脇役である二人が主役になる。そして、サムが盾を手放したことによって、二人が諍い、どちらかが次のキャプテン・アメリカになるのだろうという形で始まりました。

キャプテン・アメリカシリーズ1作目でバッキーはスティーブを支える頼もしい相棒でありながら、途中で命を落とす。2作目となるウインターソルジャーでは、そのバッキーが実は生きていてヒドラの手先となりウインターソルジャーとしてスティーブを追い詰めるが、サムが新しい相棒となりキャップを助ける。3作目となるシビルウォーで二人はコンビを組むことになり、そのやりとりのユーモラスが大ウケしてタッキー&翼になぞらえてバッキー&翼の愛称で親しまれるほど。

そしてサノスとの戦いを経てスティーブは去り、盾を託された二人の物語が始まることに。きっとこれがキャプテン・アメリカ4ということなんだろうと思いましたが、なんか先日「キャプテン・アメリカ第4作の製作が決定!」とかネットでニュースになってたけど、あれ?って感じ。

■なんか思ってたんと違う

自分もそうだけどおそらく多くの人がエンドゲームのラストでスティーブからサムが盾を受け取るシーンで感動し、原作でもスティーブがいなくなった時に星条旗カラーの飛行スーツを着てキャプテン・アメリカとして活動したようにキャプテンを継承するんだ「よかったね」としか思わなかったでしょう。そして、来るフェーズ4では新しい翼を持ったキャプテン・アメリカが見られるんだろうなって。

だからこのドラマのタイトルが発表された時は(あ〜二人でわちゃわちゃしながら2代目キャプテンアメリカとしての成長物語でもやるんかな)くらいに思っていたらPVが出る頃にはジーモ出てくるしなんかすっごい雰囲気シリアスだな…って。

実際ドラマが始まってみると、サノスとの戦いに勝利し指パッチンで消えた人々が戻ってきた世界は5年間の間に荒廃している状態で、そこにアベンジャーズの指パッチンによって消えた人々が戻ったことで人口が倍増。居住地や食料を求める難民が発生することになり世情は混迷を極めている。難民と彼らを管理しようとする国際機構GRCがいがみ合う。そんな世界の希望として再び盾を手にした男ジョン・ウォーカーが2代目キャプテン・アメリカになる…。

は?

という感じで始まってしまった。あの誇らしげな顔で盾を受け取ったエンドゲームのラストはなんやったんやっていう視聴者もそして劇中のキャラクターたちも疑問とわだかまりを抱えたままどん底から始まる物語。

この物語はMCUという世界を土台にして現実のアメリカを、その歴史を、今抱える問題を、絡まり過ぎて解決不可能に思えるような積もり積もった恨み辛みを突きつけてくる容赦ないドラマだった。それだけに目を逸らしたくなるようなことも描かれるけど、ヒーローとアクションの魅力、音楽の素晴らしさ、ストーリーテリングと俳優たちの表情での演技、編集のテンポなどどれもが素晴らしくて目を離せなくなる。あ〜最高。

映像の迫力やアクションシーンがすごすぎて「映画館の大画面で見せてくれ〜」ってなるけどこれをドラマシリーズにしたのも肯けます。この内容を2時間に収めるのは不可能だし、じっくりとそして繰り返し見れるように作られてるなと。

同じMCUでも言ってみればジャンルが違うので比べるのは意味がないとはいえ、正直、俺の中ではこの作品はエンドゲームすら超えて、あらゆる実写アメコミヒーロー作品の中でも一番好きかもしれない。俺はアメリカという国が、その血に塗れた罪深い歴史や数々の過ちの上にかろうじて生き延びてきたことも含めて面白いと思い、好きになっているので、そういう暗の部分を汲みつつ未来に繋げるメッセージを込めたこの作品の意義は下手な社会派映画では太刀打ちできないと思う。

今までも人種差別や黒人がアメリカで自由を勝ち取るための歴史を描いた名作映画は沢山見てきたけど、基本的には実話をベースにしたものがほとんどというかほぼ全部じゃないだろうか。だってフィクションで描いても嘘臭くなるんだもん。

ところがエンドゲームがそうであったように10年続けたMCUは漫画を基にしたバリバリのフィクションでありながら、積み上げた作品の織りなす複雑な世界観とそれを見続けてきた側の時間感覚によってある種のリアリティのある神話性を持ち、「時間の重み」という説得力を持ってしまった。EGの時も思ったけど10年の積み上げがあるのはちょっとしたズルではあると思うけど、ファルコン&ウィンター・ソルジャーが伝えるメッセージを強くするためには不可欠だったろうなと。

その上、アンドロイドでも異星人でも魔法使いでもないキャラクターが実在するNYという都市にいれば、キャラクターたちがずっとそこにいたかのように身近になってしまう。架空の世界線のNYとはいえ、彼らの言葉は現実の我々に確実に突き刺さる。

そしてこれはアメリカが抱える問題を描いているとはいえ、我々日本人も抱える戦争の歴史や民族間のいざこざに重ねることができるから身に染みて共感できるんだと思う。

どこまで勉強したって俺はアメリカで生活してないしアメリカで生まれ育った白人でも黒人でもないので黒人のキャプテン・アメリカに対する彼らの受け入れ方は分からないけど(ちなみにロッテントマトの評価めっちゃ低いらしい)、そしてこれが比較対象として正しいのかどうかもわからないけど、例えば「次の仮面ライダーの主役は在日韓国人or在日朝鮮人です」ってなった場合、たぶん物凄い炎上すると思うんですよね。その内容がどんなものだとしても。とりあえずは石が投げつけられると思う。俺だって02年W杯を台無しにされたことで韓国が大嫌いになったこともあるんですが、でも韓国人の友人もいるし韓国でずっと働いて楽しんでる日本人の友達もいる。政治だって韓国がいつまで経っても歴史を蒸し返して金をせびってこようと、日本の政治だって十分腐敗している。だからそれが「レッテル」だったと気づいたし、考えてみれば日本人だろうが韓国人だろうが、結局その個人の在り様で評価しなければならない。マジな話、日本も仮面ライダーでもなんでもいいんだけど、いつかはこれに挑戦しなければならないと思う。

■社会派なキャプテン・アメリカシリーズ

思えばキャプテン・アメリカシリーズというのはマーベルのアメコミヒーローアクションという皮を被った社会派映画としてそびえ立ってきたんでした。少なくとも俺の中では。社会派と書いたけどその定義は何かなって考えるとおそらく「(実話ベースだとしても)フィクションである映画を通して今現在の社会に何らかの問題意識を定義し、その解答を問う、あるいは一つの解答を提示する」かなと。

1作目は押井守先生がバッサリ言ってるようにストーリーは割とありふれた形でキャプテン・アメリカのオリジンを描くという構成上そこまでややこしい話はしてないんですよね。ゴリゴリフィクションな戦争映画であり社会派映画っていうほどではないかな。

とはいえその後の物語を深く理解するためにはスティーブがどうして血清を打つかを決断し、血清を打ったことでどんな「本質」が浮き彫りにされ、それがどう世界に影響したかを知っておく必要があるんですよドン。あと大事なことは、1作目ではたしかにヒドラ側もオーテク兵器使ってるんだけどあくまで第1次世界大戦を割と真摯に描いていて戦い自体は古臭いんですよね。でも、そこで前線張ってた人がただの象徴ではなく実戦力として70年後にも必要とされてしまう人類の「業」というか「性」というか、そしてそれに翻弄され続ける実験体としてのスティーブの悲哀。EGまで見てようやく完結する彼の物語の開始点はシリーズを通してみると一層重くなってくるんですが、現実でも軍事研究や戦争によって精神面にも後遺症を持つ人は多いそうですし。
あとアースキン博士が亡命してアメリカのために技術を提供してるのはマンハッタン計画だな〜というのはありますね。アースキン博士はドイツでシュミットに未完成の血清を打ってレッドスカルを生み出していて亡命してキャプテン・アメリカを生み出すわけですがマンハッタン計画で原爆を作った博士たちも別に爆弾が作りたかったわけでも大量殺人をしたかったわけでもないし、それがその後の冷戦にも繋がるなんて思わなかったでしょう。
ちなみにこの映画の制作(2009)中〜公開(2011)まで、現実のアメリカは2001年の9.11をきっかけとした対テロ戦争(イラク、パキスタン、アフガニスタン、リビアなど)をずっとやってるわけですが当時世の中的にはテロ=絶対悪でオバマが大統領の時に「テロには屈しない」って言ってましたね。ドラマではGRCの人が同じ言葉言ってましたが。
ともあれファースト・アヴェンジャーに関してはそもそも制作サイドでもMCUの始まりとなるキャプテン・アメリカラインのスタート地点でありアベンジャーズのスタート地点であるアクション巨編って位置付けでしかなかったと思います。

ウインター・ソルジャーはもうドストレートに”異質”であり怪作。監督はルッソ兄弟に変わるんですが、彼らはそれ以前には3作くらいしか撮ってないしケビン・ファイギの功績なのかはわからないけどすごいもの出てきたって感じでした。アイアンマンのヒットとアベンジャーズの成功からそれ以降のMCU作品は大幅に予算も増えてスケールが増し、オリジンを描く必要がない分深みが与えられてると思いますが、それにしたってWSはなかなかエグい内容です。
キャプテン・アメリカって超人とはいえ筋力がすごいってのが前面に出てて後は思考速度とか回復力とかも4倍とからしいけど、装備は盾だけっていう、とにかく馴染みのない人には「地味」なんですよね。お腹の赤白は腹巻みたいだし。マーベル知らない人に推す時いっつも言われましたwまあ実写で映画作る側としても、だったら何を描くかって言ったら「信念」という彼の強化して浮き彫りにされた「本質」と世界が抱える現実的問題との衝突なんだろうなと。もちろんSHIELDに入って現代格闘術を習得したことでのアクションの変化も見どころではあるんですが。70年前に彼が自分の体を実験に差し出してでも守りたかったものが今だに守らなければならない状況にあるという。それは本来、当たり前に享受できるものでないといけないのですが。

ちなみにこれもよく言われるのが「地味なのになんで"アベンジャーズ"で偉そうなの?」と。アベンジャーズ1作目ではスティーブは目覚めたばかりなので彼の手にあるのは70年前の古いボクシングスタイルの格闘術くらいなのですが大事なのは1作目でダイジェストで描かれてた精鋭部隊ハウリング・コマンドーを指揮して各地を転戦していたことなんですね。最初のアベンジャーズのメンツの中で大部隊を相手にした市街戦で精鋭とはいえ少数の各人の特性を活かして陣頭指揮を取れる人ってスティーブ以外にいないんですよね。彼はヒーローとして「象徴」であると同時に叩き上げの指揮官であるということを描いたのも1作目の要点なので。
「世界のリーダー」というアメリカの「理想」像の擬人化みたいなキャラですね。

で、ウインター・ソルジャーでは彼の「信念」に基づく「正義」を為すために入ったはずのSHIELDがヒドラと表裏一体となっていることに気づき、SHIELDそのものを壊すという。それは国家、体制への不信を確固たるものにしたでしょう。強い肉体、強いリーダーシップと自分では理想を具現化できてるのに現実には抗えない。一貫して彼は政治家ではなく兵士なので起きるであろう問題ではなく起きた現実にしか対処できないのも悲哀があるなあと思います。

ウインター・ソルジャーはそのタイトルがベトナム帰還兵を指すことやトマス・ペインの著書にある「夏の兵士」の対義語であることからも、そして物語の筋が実際にあったウォーターゲート事件やスノーデン事件をなぞっていることで「ただのアクションヒーロー映画ではない」と公開時から絶賛されましたね。

3作目となる「シビル・ウォー」は「実質アベンジャーズじゃん」ってよく言われるけど、それ言ってる人はこのお話の本質を見過ごしてると思うけどそういう人の方が多いので言わないことにします。
日本の配給会社もメインタイトルとサブタイトルを入れ替えて「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ」とかしちゃってるしキャップ派かトニー派かって煽ったりしてたので仕方ないですが。アイアンマン好きな人の方が圧倒的に多いもんね。知らんけど。

この物語のメインヴィランはバロン・ジーモという何の特殊能力もない(特殊部隊員ではあるけど)おっさん(実は超金持ち)だったんだけどラスボスは完全にアイアンマンなんですよね。アイアンマン好きな人には受け入れがたい事実だろうけど。「理想」の権化である人の対峙するべき「避けようのない現実」としてずっと伏線は張られていたし。
バッキーによるハワードの殺害とスティーブがそれを隠していたことは「引き金」でしかない。キャラクターの性格とか状況とかで仕方ないこととはいえトニーは協定に関しても間違った選択をしたし、それを受け入れられない性格のスティーブは衝突を余儀なくされるし今後もそれは起きるだろうと。イデオロギーによって世界の盟主となったアメリカの象徴としてやっぱり最後はイデオロギーの対立になってしまうんだと。観る側にとっても思想や立場によってどっちが「正義」かわからなくなるだろうけど、そういう中でも血清によってその信念を裏切れないある種の呪いを受けてるスティーブは自分の「理想」にしか従えない。その「理想的な正しさ」が誰にとっても「正義」であるわけではなく犠牲になる人もいる。そういう怖さや悲しさが描かれてる映画だと思う。その面からしてもこの映画は「キャプテン・アメリカ3」でしかないのに「アベンジャーズ」って言ってる人には俺は何も言わないけどね。

そしてこのシビル・ウォーの要点こそが「ファルコン&ウィンター・ソルジャー」で改めて描かれることにもなる「社会派」的要素。
一つはアベンジャーズが分裂するきっかけになる「ソコヴィア協定」というもの。この協定に「一理ある」と思わせるのが狡いとこだとは思うけど、これってスティーブがキャプテン・アメリカになった原点である「信念」に反するものであって受け入れられるわけもないし受け入れるならヒーローなんて存在する意味がなくなるんですね。これはヒーローにつきまとう「正義の定義」であり我々が現実で目にする「権力の腐敗」に繋がる。
もう一つは「過去の罪」。トニーがラスボス化するのはバッキーがハワード・スタークを殺害していたこと&スティーブがそれを知りながら隠して庇っていたことが原因ではあるんだけど、じゃあ洗脳下にあったバッキーは贖罪のチャンスもなくトニーの復讐を受けるべきなのかということ。本人の意思に関係なく戦争犯罪を犯した過ちは取り返しがつかないものなのか。ウィンター・ソルジャーという物語は実は全然終わってなかったんですね。
そしてトニー自身がソコヴィア協定が危惧するところである「超技術の私的濫用」によって私怨のために殺人を犯そうとするという。
映画を通してスティーブの行動はバッキーを庇うという私的感情によるものに見えるのも巧妙だなと思うけど、実際には全て彼の私情とは無縁の「信念」に基づく行動でしかないのが実はトニーからバッキーを守る行動にも一貫してます。だってバッキーをトニーが殺したら、その後のトニーは犯罪者なんだから。私情とは無縁の信念って書いたけどそんなもの本来ならあり得ないんですよ。だけど、それこそが1作目で描かれる彼のオリジンなので。
スティーブが務めたキャプテン・アメリカというのは星条旗カラーを纏いながら国家権力に束縛されない正義の執行者であり、過去の精算よりも今を守り、未来に繋げることで「平和の象徴」だったんじゃないかなと。その有り様を描いているのがこの作品だったと思う。
だから、この映画はあくまで「キャプテン・アメリカ3」。キャプテン・アメリカを描くためにシビル・ウォーが使われてるんですよ。配給会社の人には分からなかったか〜。
結局トニーはバッキーに再会することもなく、EGでは成り行き上という感じでスティーブと和解したけどバッキーが残ってたらどうなってたんですかね…。
あとこのドラマで「バーンズ軍曹」って呼ばれてたけど軍役を退いてるとはいえ、第1次大戦で一応戦死扱いだったんだし2階級特進とかなかったんかな。

■キャプテン・アメリカ=スティーブの本質とは

超人血清は肉体を強化するわけだけど当然肉体には脳も含まれていてその結果、知能や感情も強化される(知能の強化は理系分野には当てはまらなかったぽいけど…。ゼロに4かけてもゼロってことだとしたら酷過ぎませんか)。よって、実験を終えたスティーブはその心根にあった「信念」が痛いほど強化されてしまっているんですね。

「ファルコン&ウィンター・ソルジャー」でも血清は「変わるんじゃなくて本質が出るんだろ」と実はバトルスター()ことレマーが核心を突いてきてビックリしましたが。

じゃあスティーブの「信念」とはなんぞやというと、彼が血清を打った時の状況と心情ですよね。そしてアースキン博士がなぜスティーブを選んだか。

「血清は打たれた者の内面を増幅する。良い部分は最高になり、悪い部分は最悪になる。君を選んだのはこのためだ。生まれてからずっと強い男は、力に敬意を払わない。だが、弱い者は力の価値を知っている。それに、憐れみも」

第一次世界大戦の中、虚弱体質で兵士になれないでいたスティーブはアメリカという国のために戦いたかったのではなくアメリカの「理念」のために戦いたかったんだと思います。それは自由の女神の正式名称である「Liberty Enlightening the World」にも現れている「自由」と「民主主義」。つまり彼は根っからの「理想主義者」なんですね。だって現実のアメリカでは悲しいほど実現されてないんだから。アースキン博士は気づかなかったのかアメリカもまた「生まれてからずっと強い男」なので。

とはいえ戦況は劣勢であり、ナチスは自由と民主主義の真逆にある「悪」と見るスティーブは自分自身を生贄に捧げてしまう。その時点でも狂信的理想主義者だと思うけど、それを血清で強化されたわけだから、これ以降の彼は自由と民主主義絶対守るマンオブスティールとなってしまうわけです。そして守るために戦うから盾を武器に選んじゃうというw

つまりスティーブはキャプテン・アメリカと呼ばれようが何の象徴に祭り上げられようが常に「力なき者の自由と平等」を守るために戦ってるだけであってアメリカとかヒーローとかどうでもいいんですよ。結果としてそうなってるだけで。結果として打算的な現実主義とは対立するだけで。(ちなみにここで俺が書いてる理想主義・現実主義はいわゆる国際関係論的な意味ではなくもっと軽い方のやつですが、アベンジャーズのメンツってソーですら楽観的なだけで現実的だし理想主義的な人は他にいないんじゃなかろうか)

「正義」って定義が難しい言葉で、その言葉を使う人の立ち位置で違う形になるんだけどスティーブを通して描かれる「正義」は言い換えるなら「権力者あるいは強者が力を持つことは支配にしかならない」ということかと(これはウィンターソルジャーでの出来事を経て至るものではあるだろうけど)。支配の下には必ず格差が生まれ争いに繋がる。国と法がある世界では本来その権力者が下にいる弱者を守るはずなのに、そうじゃない場合、弱者を救うにはどうすればいいのか。その答えがシビルウォーにつながったと思う。こう書くと国際関係論の理想・現実とは逆な感じするなw

ところが我々の現実世界以上にMCUの世界では「キャプテン・アメリカ」という存在を「星条旗のために戦う英雄」として祭り上げてしまう。その齟齬と埋め合わせの物語が「ファルコン&ウィンター・ソルジャー」になっていくんですね。

シリーズの後継作としてMCU世界の混迷と今の現実世界の混迷を巧みにリンクさせて社会に問題提起する重い重い物語なのは必然だったのね、という。アメリカが理想とした自由と民主主義は何だったの?勝手に戦って世界めちゃくちゃにした後始末どうつけるの?こんな学者が本にしそうなテーマでアメコミヒーロー描くの野心的すぎませんかね。

ところで「ファルコン&ウィンター・ソルジャー」を見るとエンドゲームでの戦いすら「後のことも考えずに世界荒廃した状態で勝手に消えた人たちを戻して世界中に難民生み出した」っていうソコヴィアやラゴスでやったことと変わらないマッチポンプ現象になってるような気がしないでもないでもない。そもそもアベンジャーズって理系の博士と陰謀屋はいるけどあとは脳筋ばっかりで政治的な国際協調に通じた人がいなかったのが問題だったんじゃなかろうか。

■サム・ウィルソンという男

まさか政治面の調停力を持っているのがサムだったというのは意外でした。ただ、彼は初出の頃からハリウッドがステレオ化してきた「お茶目で陽気でよく喋る黒人」ではなかったんですよね。演じてるアンソニー・マッキーはすげぇ陽気な人だけどサムという人間はスティーブという等身大の人間に初めから向き合いながら、キャプテン・アメリカという英雄を支えることに身を捧げていたのでなんか違うぞという感はありました。

これTwitterとふせったーに書いたことまとめてnoteに書いたと思ったけど書いてなかったから、いい機会なのでここに再び書こう。

いっときある芸人さんが「ファルコンはアベンジャーズのメンバーと実力差がありすぎるから可哀想だし脱退させよう」みたいな企画をして炎上したって事件があったんですが、石投げつけて炎上させた人たちのファルコン擁護の意見も「普通の人間にしては」って感じだったんで俺はどっちにもキレちらかしてたのです。

「ウィンター・ソルジャー」という作品でサムは出てきたんですが劇中でははっきり描写されてないけど、彼は元アメリカ空軍のパラレスキュー部隊に所属していたという設定です。同僚を亡くしたことがきっかけで退役し、その後は戦争後遺症に悩む退役軍人のためのカウンセラーとして活動していてあの映画に至るって感じ。

「落下傘兵」と書いてあるようなサイトもあるんだけど正確には「パラレスキュー」です。ちなみにパラシュート部隊の時点で軍隊の中ではエリートです。パラレスキューは何が違うかというと、前線で負傷した兵(なんなら敵陣後方に降下した落下傘兵)を"救出する"部隊です。つまりエリートの更に上のエリートだそうです。求められるのは敵陣に降下できる落下傘兵と同等の空挺、水中ダイビング、戦闘、サバイバル、工兵としての技術と負傷兵をその場で手術できるレベルの医療技術、そして負傷兵を自陣まで運ぶ力です。誰よりも強く、早く、長く活動しなければなりません。

それプラス、彼はスタークインダストリーズが開発したものの他の誰も使えなくてお蔵になってしまったウイングユニット「EXO-7ファルコン」のテストパイロットでもあります。通常、現実の世界でもテストパイロットっていうのは軍事機密を扱うことになるのでその辺の信用とかも求められますし、めちゃくちゃ厳しい選抜を受けたトップパイロットがなるものです。サムはそのテストパイロットに選ばれ、作中で描かれるように唯一あのウイングユニットを使いこなし、常人離れした戦闘力を発揮します。

余裕で「超人」ですよ?

これは野球に詳しい人に叩き込まれた知識ですが、我々がテレビでみる甲子園球児。彼らも超人レベルです。野球漬けのエリートです。そんな中でも一握りの人間がなれるのがプロ野球選手です。その中でも一握りの選手が記録や記憶に残るんです。超人の基準をどこに置くかですけど常人の上っていうなら現実にも超人っているんですよ。ごろごろいるとは言いませんけど。

サムは設定上は現実にも存在する「超人」のレベルをもうちょっと超えたとこにいるってことですね。だからそれを「普通の人」っていうのは3千時間ほどの説教が必要じゃないでしょうか。嘘です。今計算したら125日もあるわw

まあ、そのパラレスキューなんですけど基本的には志願して厳しいテストを経てなるものです。めっちゃエリートが更にふるいにかけられるそうです。

5秒で逃げ出す自信あります。泣きながら。

それでも彼らは志願して厳しい訓練に耐えてパラレスキュー部隊に入ろうとするわけです。ただの戦闘エリートではなく、味方を助けるための兵士として。

そう、もうひとつサム・ウィルソンの設定として大事なのは「助ける」という目的を持って戦闘に参加する人だったということです。そして彼自身も忌まわしい体験をしながら、その体験で兵役を離れた後でも他のPTSDを患った退役軍人を「助ける」活動を続けていたと。そして国家に追われることになった「助けるために戦う男」の象徴を「助ける」ために再び戦場に戻る。あの世界で第一次大戦での自己犠牲によって仲間や世界を助け守った星条旗タイツマンの伝説にどれだけ憧れていたかは想像に難くないと思う。70年ぶりに蘇って再び今度は宇宙人から地球を守ったまじもんのスーパーヒーローを助けるためにエリート街道を逸れることになった過去を振り切って再び翼をまとうという。

ここまでくるとアメリカの理想を「助ける」ために血清を打った人に似た狂気じみたものを感じますわ。6話でのカーリとの戦闘でのやり返さないっぷりも納得です。

それだけにシビルウォーでローディが落下した時にサムがいち早く医療措置に取り組めないあの描写はちょっと残念だなと思いました。

EGラストで盾を手渡されたサムは「I'll do my best」と答える。これ意味合いとしては自信がない時に使われるってどっかの英会話サイトに書いてあったんだけどスティーブは「それが君を選んだ理由だ」って返すんですね。スティーブもキャプテン・アメリカとして敵がアンドロイドであろうと異星人であろうと圧倒的多数の軍勢であろうと盾を構えて最善を尽くそうとしてきた人であり、ウィンター・ソルジャー以降、サムもずっとスティーブの隣でそれを為してきたわけで。超人性ではなくその人間性をもって選んだんだろうなってシーンでした。

■正義の定義は人の数だけ存在する

本編と切り離されてしまったドラマだけど「エージェント・オブ・シールド」と同じように映画で描かれていないけどその世界に存在している人々や物語が描かれ補足されていくのもいいですね。バッキーの洗脳解除のとことか、スティーブとキスしたあの子結局どうなったのとか。

これ普通の作品ならウォーカーとフラッグスマッシャーズがいれば成り立つんだろうけど、そこにジーモとイザイアそしてGRCという組織を混ぜ込むだけでこんなにカオスな深みとコクを生むなんて。会話や編集のテンポがいいだけにぼけっとしてると置いてけぼりになる。あとシリーズのシーンのオマージュも沢山。最終話のサムとヘリの空中戦やその後の車の救助の部分、アイアンマンへのオマージュを感じて涙出ました。一般市民に呼びかけ励まし、助けるだけじゃなくて協力して難局を乗り切るとかアイアンマン3で大好きな救出シーンを思い出したし。

そして沢山クセのあるキャラクターが描かれるけど、なぜか敵も含めて嫌いになれない。それぞれが掲げる微妙にすれ違う「正義」のどれもが納得できてしまうのもある。この辺、ものすごく慎重に描写してるなと思う。

まずバロン・ジーモ。伯爵のくせに元ソコヴィアの特殊部隊隊長だった人ですがAoUでは頭の切れるオッサンって感じだったのに急に本領発揮しだして人間的魅力まで出しちゃって人気爆発。ちなみにバロンの語源は古フランク語で「自由民」を意味するbaroだとか。元々は復讐心からアベンジャーズ=自警団を壊滅させようとし、やがて反至上主義に至った模様。アベンジャーズもウルトロンもそしてナチスも根っこの思想が選ばれた者による支配、選民思想であると断定しカーリたちフラッグスマッシャーズも同じものとしてその壊滅という目的が一致するからサムたちに協力するという。これは妄執なんだけど一見正義に見えちゃうから怖い。やってること自体はアベンジャーズがやってきたことと変わらないから一緒に行動するわけだし。でも目的に反するものは冷酷に切り捨てるところが実は自分こそ至上主義になってることに気づいてないのか気づけないのか気づいてて止まれないのか。

メインヴィランとして描かれるフラッグスマッシャーズとそれを率いるカーリ・モーゲンソウ。サノスの指パッチンで人口が半減した世界でアメリカは復興のための労働力生産力として移民を受け入れたものの5年後に消えた人たちが戻ったことで逆に難民となってしまい、それらの問題を整理するための世界再定住評議会(GRC)という組織が生まれる。だがGRCは「難民を救済するのではなく弾圧している」としてカーリたちはテロを起こす。生活を守るために。GRCは世界の秩序を守るために。カーリたちは超人血清という武力を、GRCは権力を使う。この部分は今まさに現実世界が直面している問題でもある。これを解決しようとする答えを提示できたら偉業だと思うと5話を見た時点で書いてたんだけど、6話のサムがGRCの評議員たちに語る言葉はもう映像史に残すべき名シーンだし、社会の授業であの部分流せばいいと思う。

実はアメリカが産んだ超人兵士はキャプテン・アメリカだけではなかったと明かされるイザイア・ブラッドレー。コミックにも登場しているキャラだけど、彼のバックボーンはかなり現実の歴史が反映されてて重いものがあります。まず5話で明かされた「破傷風の予防接種」と偽った血清の投与は現実の「タスキギー梅毒実験」。そしてイザイアが所属した部隊レッドテイルズは同じくタスキギーを舞台にしたジョージルーカスの映画「レッドテイルズ」が元ネタっぽいですが、この映画自体が実在の黒人パイロット部隊の話を元にしている。どちらもアメリカが抱え続ける「黒人差別」、そして現実にもイザイアのようにアメリカへの不信を抱き続ける黒人は多いんでしょう。超人血清のお話ではあるものの実際に今でも目に見える形で存在している生々しい問題がキャプテン・アメリカ=アメリカの象徴にもつきまとうなんて日本人の俺には想像がつかなかった。ドラマの中でバッキーと一緒にいるサムにだけ職質する警察官とかエグいもの見せられたら何にも言えないですわ。サムはイザイアを説得しようとするけど、彼が盾を政府に寄贈したのは実は彼の中にもそういう意識があったからなんだという。エンドゲームのラストシーンで単純に感動していた自分が盲目だったのか。スティーブとバッキーも「そのこと」が見えていなかったというけども。
「奴らは絶対に黒人をキャプテンアメリカにはしない」という言葉はショッキングだけど「自尊心がある黒人なら引き受けない」という言葉は逆にサムへの指針となったのでは。差別を受けアメリカを憎んでしまう黒人はいるけどそれが全てではないんだから。そして今アメリカにいる黒人たちが持っている権利や生活はそういった人たちの犠牲の上に成り立っていて、その歴史を背負って進んでいくんだから。
5話の修行シーンめっちゃ熱いんだけど、甥っ子が盾の星を指でなぞるとき、星の上の部分でAを描いてるんですね。甥っ子ももちろん「ブラック」だけど彼らは「A」への憧れを持ってるという。ちなみに甥っ子が出てきたのは「アンクル・サム」と呼びかけさせるためじゃないかと思うんですが、有名な募兵ポスターの指さしてるおっさんの名前が「アンクル・サム」で言うなればアメリカの擬人化されたキャラでもあるんです。つまりサムおじさんはその時点でアメリカなんですよw
ちなみに日本人にとっても日本には嫌いな部分と好きな部分があるし、アメリカもそういうのは変わらないと思うんですよね。
「ここは流血の上に築かれた国です。それを守るなとは誰にも言わせない」
6話でイザイアが引き合いにだしたマルコムXやキング牧師の言葉に匹敵する言葉になったんじゃないですかねこれ。

ジョン・ウォーカーはうざい陽キャっぽく登場しましたが彼の苦悩とプレッシャーに押し潰される姿に共感しちゃう人も多いんでしょうね。そして彼もまた「ウインターソルジャー」であるという。
5話冒頭での盾の取り合いを見てると別にあれはムジョルニアみたいな持てば勝てる!みたいな特殊な武器でもないんだから呪いのアイテムにしか見えない。星条旗と栄誉に呪われた狂気をいかんなく表現するワイアット・ラッセルの演技力がエグい。
そしてここでも権力は悪に通じるというのが描かれていて、白人であっても政府は容赦無く切り捨てるし、切り捨てられた側が反抗すればそれは犯罪にしかならないのはあまりにも悲しい。
5話のラストを経ての6話ではサムたちと敵対して3すくみになるのかなと思ったら普通に共闘してるしなんかバッキーともいい感じでほっとしました。彼の信念の立ち位置はパニッシャーと同じアンチヒーローであること考えたら今回はそうなったってだけなんだろうけど。でも盾を捨てて車を支えたのは感動した。盾は象徴である栄誉とか星条旗に仕えることを意味して、それらへの異常な執着を投げ捨てて己の信念に生きることを決断するってシーンなんだろうけど、根っこにはヒーローの部分がやっぱりあるんだなと。USエージェントになって「復活だ!」ってはしゃいでるのとか可愛い陽キャ版パニッシャーって感じだからフランクとはソリが合いそうで合わないバキ翼第2章にピッタリなんじゃないですかね。バーンサルが戻ってくる可能性あるそうだし楽しみすぎる。
ところでジョニーウォーカーというウイスキーは飲まない人でも名前くらいは知ってると思いますが、Wikipediaに書いてある2006年の広告の話とか関係ないと思うけどこの作品と絡めて読むと面白いですよ。

ワカンダの女性特殊部隊ドーラ・ミラージュのアヨの登場もうわってなりました。このお話にワカンダを絡ませたのは絶妙というかそのためにもジーモが出てきたのかどっちが先かわかりませんが。
ブラックパンサーの映画化とその大ヒットは黒人ヒーローを主役にした初めての大作映画としてもニュースで取り上げられてましたが(あれ?ブレイドは?)まあブラックカルチャーを前面に押し出すことで社会現象化させたんだろうけど、個人的には(言うてもティ・チャラってアメリカからしたら外国人じゃん)という思いでした。要は差別として問題になるのは「白人社会で抑圧される黒人」だと思うんです。南アフリカにもアパルトヘイトというものがありましたが、少なくとも日本人の俺から見て「アフリカの王様ヒーローの映画がアメリカの黒人を熱狂させる」というのはちょっと文脈が軽くないですか?とずっと思ってました。アメリカで生まれ育った日系人がアメリカで活躍するのを「日本人が大活躍!」ってやるみたいな?逆かな。日本生まれの日本人がアメリカで活躍してもアメリカで生まれ育った日系人にはちょっと離れた存在に見えるんじゃないかなっていう?
現実世界で見ればチャドウィック・ボーズマンというアフリカ系アメリカ人がマーベルの超大作を超ヒットさせたという黒人にとっての偉業ではあるんですが。とはいえ、そこには「迫害されてきた歴史」を背負ってる感じはなかったと思います。だって超大作の主演を張る黒人俳優は他にもいっぱいいるし。
だからファルコンは「アメリカで迫害された黒人の歴史を星条旗と一緒に背負う初めてのヒーロー」になるんじゃないかと。そして、そこに間接的とはいえワカンダを絡ませることでブラックパンサーの歴史も背負わせる。文字通り新キャプテン・アメリカとしてのスーツが黒人国家ワカンダ製という。バッキーがワカンダに身を寄せていた流れで自然になってるけど、このことまで見越してたらすごすぎる。

そしてシャロン・カーター。主要人物の中では唯一浮世離れしてる気がしますが、なんというかエグい。気の毒。かつてキャプテン・アメリカの恋人であった人が闇落ちしてるなんて。なんならこの作品で彼女とバトロックだけが純粋に悪党なんじゃなかろうか。それも世界への恨みが基になってるのが悲しい。彼女にとっては「世界への復讐」が正義なんだから。
シビル・ウォーのあとどうしてたのかと思ったら劇中でも完全に放置されてたってのもひどい。生きるために仕方なかったのかなとは思うけど、6話で頼れる味方のように出てきたのにいきなり化学兵器で毒殺するとか(え?それは悪人の所業では?)と思ったらもしかしてとはちょっと思ってたけどマジでパワーブローカーだった。いやなんかパワーブローカーはそのうち出てくるんだろうけど、ヴァルっていうキャラを出しといて更に新しい人は出さないだろうなとは思ったんですが。超人血清を打ってないのに超人血清に呪われた人生過ぎて。しかし続編がなかったら、また放置されそう。

■ブルース・ソウルが使われる意味

このドラマ、ちょいちょいいい感じのブルースやソウル、いわゆるブラックミュージックが差し込まれてるんですが5話の終盤で流れるブルースは割と新しいんですね。

このPVや歌詞の通り、この曲ってコロナでロックダウンしてる人たちを励ます曲なんでしょうかね。なんでサムライなのかは知らないけどwでもこの人、事故で腕が動かせなくなったりして一時音楽から離れたりしたけど、そこから立ち直って自分のやりたい音楽を見つけてグラミー賞取るくらいになってるんですね。「腕」を怪我し、過去にも色々あったことで挫折したところから立ち直ってグラミー賞取って音楽界のヒーローになった人の曲があそこで使われているという。

Fantastic negritoはXavier Dphrepaulezzのアーティスト名でもあるんですが音楽プロジェクトとしての名前でもあり、そのプロジェクトの目的は「あらゆる人種、人々にブラックミュージックを表現する」ことらしくてブルースの中に色んな音楽を取り入れててライブの映像とか見てるとメタリカの名前を口にしたりもしてます。そういうアーティストの曲を使うあたりにもこの作品のメッセージを感じたり。

そしてブルースというジャンルは言うまでもなくブラック・カルチャーが起源です。奴隷として働く黒人たちの孤独、悲哀の色がBLUEに例えられるからブルースと呼ばれたという。なので今でこそ白人や日本人ですらブルースを演奏しますが、白人たちがブルースを演奏し出した時は色々あったようで。

今だったら「文化盗用」とか騒がれそうですが。じゃあなぜ今、白人が当たり前のようにブルースを演奏し、ブルースがロックに多大な影響を及ぼしたのか。

それこそが忌まわしい奴隷制度の果てにあった「相互理解」の歴史であり、それによりアメリカが大きな文化を育て上げた実績であり、分かり合えることの証左じゃないですかね。
「ウィンター・ソルジャー」でサムはスティーブにマーヴィン・ゲイのトラブルマンのサントラにスティーブが眠ってる間のことが全部詰まってるって言ってたし。まああれはブルースじゃなくてソウルなんですがルーツはブルースなので。そういやあの時もサムは目覚めたばかりのスティーブが現代に戸惑ってることへの理解を即座に見せてるんですよね。

6話のラストで流れるのもソウルミュージックですが、それをBGMに白人と黒人が笑顔で交流し、バッキーはウィンター・ソルジャーになる前のあのプレイボーイ感のある雰囲気に戻ってましたね。ソウルミュージックというのが生まれた時代は1950年代辺りで、サムが言うようにちょうどスティーブが氷づけになってバッキーがヒドラに洗脳されてた頃。なんというか失われた時間をようやく取り戻したという感じがします。

■羽ばたくキャプテン・アメリカ

ツイッターでね、6話ラストで「ファルコン&ウィンター・ソルジャー」というタイトルが「キャプテン・アメリカ&ウィンター・ソルジャー」になり、この作品が真にキャプテン・アメリカシリーズ4作目とされる部分について「そこはホワイトウルフだろw」って書いてるのを見たんですが、まあウィンター・ソルジャーという単語を3千回ググってこいって感じです。

あの物語の中でヒドラがなぜ「ウィンター・ソルジャー」という名称を使ったのかは知らんけども制作陣のインタビューとかでもMCUにおける「ウィンター・ソルジャー」という言葉のメタ的な意味づけは前述したように戦争後遺症に苛まれるベトナム帰還兵やトマスペインのいう「夏の兵士」に対義する言葉として用いられています。であればバッキーは洗脳が解けた今でもウィンター・ソルジャーなんです。そしてもう一人、戦争後遺症に苛まれながら己の正義をなしヒーローたろうとするキャプテン・アメリカになれなかった男がいます。ジョン・ウォーカー。最終決戦で新しいキャプテン・アメリカを支えたのは二人のウィンター・ソルジャーだったという話。6話でキャプテン・アメリカとして飛来したサムを見た二人は、その後分かれ道で別行動になり、ウォーカーを心配するサムにバッキーが「任せろ」って感じで跡を追う。そしてそれまでは超人同士のどつき合いに終始していた二人はフラッグスマッシャーズの支持者から受け取ったスマホのアプリを使ってまんまと敵を包囲し無血で捕縛する。カーリが「幻想(偽善)」と言ったサムのスタンスを支持したわけですよ。茨の道を歩むことを決意した新しいキャプテン・アメリカを支える戦士はまさに「困難な時こそ真の愛国精神を示す冬の兵士」という意味でのウィンター・ソルジャーと言えますから。

ところで全然一般的じゃない単語なんですが「調相」という言葉があります。どっかの呪いの漫画に出てくるお兄ちゃんの話ではありません。電気関係の方でもなくて、映像業界で使われた言葉なんですが多分もう今の時代は死語になりつつあるのかな。これはビデオテープを使った編集で使われる言葉で素材となるマスターテープと編集先となるスレーブテープが走行速度や位置を編集点までの間に微調整して位置合わせをすることを意味します。シンクロです。ほんとに全く関係ない話に見えますが、俺はこの「ファルコン&ウィンター・ソルジャー」こと「キャプテン・アメリカ&ウィンター・ソルジャー」という作品は「調相」の物語だったなと思ったんですよ!

元々ソリが合わなかったサムとバッキーは盾の寄贈によって完全に決別。サムは実家の漁船のことで姉とモメている。バッキーは洗脳が解けても過去の罪の重さに苦しんでいる。新しいキャプテン・アメリカ、信頼を失った元アベンジャーズ、目的のためにジーモに頼らざるを得ない。カーリたちを止めないと誰かが死ぬけど、彼女たちを止めればGRCによって難民の命が脅かされる。そして星条旗の盾を黒人であるサムが持っていいのか。今までの物語がそうであったようにほとんどの登場人物はこれらのこんがらがった問題を一方的な指向性の様々な力によって解決しようとする。サムだけはかつて戦争後遺症に苦しむ人たちをカウンセリングで助けていたように理解と対話で解決しようとする。持っている武装は相手の力を止めるために使う。彼はバッキーが呆れるほどの理想主義者だったんですね。

はい、私、そのこと書きましたね。バッキーが呆れるレベルの理想主義者もう一人いましたね。スティーブ・ロジャース君ですね。スティーブはサムが消えていた時、サムがやっていたようにカウンセリングセミナーをやってたなんてこともありました。

6話でGRCの評議員たちと対話するサムは相手の言い分を無碍に否定することはせず「あんたの言い分もわかる、だけどあんたはあっちの言い分はわかってるのか?」というような言葉を返す。これはね、毎日毎日ツイッターで意味もないのに否定的で暴力的な言葉を書いてる人たちの脳みそにねじ込んですり込みたい考え方なんですよ。「相手の立場に立って考える。自分の意見とすり合わせる」っていう。そう、「調相」です。やっとたどり着いた!別に結果として相手の意見を否定することになってもいいんだけど、まず相手の立場も理解しようよ。話し合いというのは相互理解の上にしか本来成立しないんですよ。そうじゃない場合は、武力を使わなくたって、相手には暴力になりうるんですね。

そしてサムが胸を張ってあの星条旗カラーのスーツを着てキャプテン・アメリカを名乗って「相互理解」について語る中で彼が発する自信、実感、思い入れは、バッキー、姉、ウォーカー、カーリ、イザイア、そしてキャプテン・アメリカという彼が対峙し対立してきた人や問題を乗り越えるために調相してきた経緯を5話までに描いたからめちゃくちゃ響くんですね。

シビル・ウォーのアメリカでのキャッチコピーは「United we stand divided we fall」という欧米ではなじみ深い格言でした(日本版のキャッチコピー?なにそれ?)が、近頃の世界はとにかく「分断」を煽る傾向が強い。己が掲げる「正義」という棒で一方的にタコ殴りにする人も多い。で、それは「平和」に繋がって平穏に収まるんですか?

力で押し付けても問題の解決には繋がらない。新しい問題が増えるだけ。だからサムは「力」を使ってその衝突の間に割って入って止める。まず止めて、傷つく人を守るために力を使う。ヒーローが、象徴が立つべきポジションは国家の旗の下じゃなくて人々の先頭に立った「自分の掲げる旗」の下であるというのもこの物語のテーマのひとつだったんでしょう。

もちろん現実の我々の世界にはそんなヒーローは存在しないんだけど、とはいえ「分断」に加担してる人多くないですかね。毎日毎日、政治家はポンコツだなぁって思ってしまうニュースばっかりだけど、ちゃんとそのニュースの裏まで読んでますか?マスゴミマスゴミっていう割にそのゴミを真に受けて言葉の暴力だけ放ってストレス発散してるの実はストレスになってないですか?ちゃんと脳のカロリーを消費して「理解」しようとして(まあ合ってるのかはわかんないけど)なんらかの理解にたどり着いた方が建設的な言葉になるし、気も晴れると思うんですけどね。実はこの作品、そういったミクロレベルの「無理解」へのメッセージ性もあるんですね知らんけど。

GRCになりますか?カーリになりますか?それとも、ヒーローになりたいですか?
「よく考えるべきですね、力をどう使うか」

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