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感動の仕組み

90年代初頭に、私は感動の仕組みを探ろうと、数年間調査研究したことがあります。映像が人間に与える影響なども含めて、寝る間も惜しんで取り組んでいました。懐かしい思い出です。

それは仕事でも何でもなく、とにかく今後、自分の芸術をどういう方向へ向かわせるか、その判断をするためでした。
まぁ要するに方向性で、いろいろと悩んでいたわけです。

主な研究手段は、絵画と写真、そして90年代に一気に花開いた3DCGの3つを使って、それぞれの作品を徹底的に比較することでした。
各作品から、どのような感動を得られるのか、どのような差異があるのかを調べる必要があったのです。
ソースの異なるものから得られる「感動」を調べれば、ある程度、感動の正体を掴めると考えたわけです。

3DCGは仮想立体空間を作り、最終出力となる2次元画像の1点の色情報や輝度情報を、コンピューターによって光の経路を計算し、最終的に求めた点の集合です。
3DCGに人間の手が加えられるのは主に最初の部分、すなわち仮想立体空間の構築の部分です。
その後はコンピューターが担当して、最終的に2次元画像の作品を作り上げることになります。
もちろん最終出力に画像処理を加えることがありますが、3DCGは基本的に仮想空間を作り上げるという造形芸術であると考えています。

写真は、感動した風景に対してカメラを向け、その風景を撮影者のイメージ通りに写し撮る芸術です。
現代においてはほぼ全域に渡ってデジタル化が進み、最終出力の一歩手前の段階では2DCGとしての画像処理が施されます。
この画像処理は、いわゆるPCによる現像処理のことです。
忠実なナチュラル現像であれ、豪快な加工現像であれ、またはモノクロ現像であれ、2DCGとしての画像処理であることに変わりはありません。

絵画は写真と同じく、感動の風景をまず見つけます。
写真と異なるのは、出来上がるのはあくまで1シーンですが、実際には過去から現在へと続く脳内記憶の合成を絵として表すものです。
つまり時間的な圧縮が行われた結果の、脳内画像です。
絵画は風景の一瞬を切り取るものではありません。
目の前の風景に対してそれを描くには時間がかかります。最終出力を見ると一瞬の風景を描いているようですが、実はそうではありません。
最近良く目にする「写真をまず撮って、その写真を模写する」という手法の絵画は、見る者が見れば従来の絵画とは全く異なることがすぐにわかります。
これは絵を描く際に時間的圧縮や脳内記憶の合成がほとんど行われないため、写真と同じく瞬間的な映像を描き出しているためです。
もちろん写真も厳密には時間を圧縮する作品ですが、絵画と比較すると「瞬間」と言っても良いでしょう。

さて、3DCG、写真、絵画の3つの作品を比較すると、どうでしょう。
いずれも最終出力は1枚の絵です。
しかしその工程を考えると、全く別物の作品であると言えるでしょう。
90年代初頭の私の予測では、これら3つはデジタル化の推進によっていずれ境界が無くなり、ほぼ完全に融合されるというものでした。
予想は間違ってはいなかったと思いますが、そこに至るにはまだ少しばかり時間がかかりそうです。
ここで重要なのは、3つの芸術は工程が全く違う別物の作品であるにも関わらず、3つとも最終出力からは似たような「感動」が得られるということです。
例えば「海の3DCG」「海の写真」「海の絵画」からは、海を見た時の感動が伝わってくるということです。
一見当たり前のことのよう思えますよね。
でも決してそんなに単純なものではありません。

ここで絵画に焦点を当ててみましょう。
海の絵が目の前にあったとします。
では鑑賞者は、何故これを海であると認識するのでしょうか。
それは鑑賞者が「同様の海を見たことがあるかどうか」で決まってきます。

例えば「リンゴの絵」があったとしても、リンゴを知らない未開部族の人は、それがリンゴであるかどうかは分かりません。
ただし、その未開にリンゴとよく似た木の実があれば、「ひょっとして木の実ではないだろうか?」と、近いところまでは推測できるでしょう。

では、皿の上に何だかよくわからない「赤い丸い物」が置いてある絵はどうでしょう。
「絵」は、写真や3DCGと異なり、制作者の自由度が高く正確性はかなり低くなります。制作者が何を描いたのかを、鑑賞者は正確に認識できるでしょうか。

その赤い丸い物が何であるか、鑑賞者は決して断定することはできません。
このようなケースでは、鑑賞者自身が過去に見たことのある「赤い丸い物」によく似たものを、そこに当てはめるという推測が行われます。
そして「食卓の上にある」とか「皿にのっている」などの状況から、「トマトかリンゴかなぁ?」という推測がなされるでしょう。
このことから、芸術の制作者が作り出した作品は、必ずしも鑑賞者に正確に理解されているわけではない、ということがわかります。

最初の海の絵の話に戻ると、海を見たことが無い人は、それが海の絵であると判断できません。
もちろん何らかの情報を事前に得ていれば「これは海かも知れない」というあたりまでは辿り着きますが、いずれにしても正確な判断を下すことはできないでしょう。


制作者の目になりきって鑑賞者に作品を見てもらうということは、実は不可能に近く至難の業である、ということがわかります。

では作品を鑑賞した時の感動は、いったいどこから来ているのでしょうか。

芸術作品を見るとき、私たち鑑賞者は、まるで制作者の感じた感動をそのまま受け取って感動しているかのように思い込んでいます。
しかし、先ほど述べたように完全に制作者の目になりきることは、ほとんど不可能に近いわけです。
制作者と全く同じ経験と、全く同じ風景を見た者でない限り、鑑賞者が制作者の目になることはできないのです。
当然、制作者の感じた感動と鑑賞者の感じた感動は、永久に一致しないのです。

少し話を変えて、夕日の話をしましょう。
わかりやすくするために単純化した話をします。
夕日を見た時の感動はいくつかに分かれます。

夕日を見た時に起こり得る感動は、見たことのないものを初めて「見た」という感動、または過去に見たことのあるものを「再び見た」という感動の2つにわかれます。

最初の感動は、見たことのない場所で見たことのない夕日を体験した時に起こる感動です。
2つ目の感動こそが私たち芸術家が追い求めている感動で、再び同じような夕日を見たときに起こる「特殊な」感動です。
もちろんこの2つの感動は完全には分離せず、しばしば混ざり合って発生するものです。

前者の感動は、好奇心という人間の本能が深く関わる種類の感動です。
人間は進化の過程で必然的に好奇心を発達させてきた生き物であり、それゆえの本能に起因する感動は重要です。
しかし前述したように、私たちが求めている夕日を見たときの「感動」は、主に後者の「再び見た」という感動です。

夕日を見たとき、脳内では過去の記憶の中から、目の前の夕日によく似たものがリストアップされます。
そのリストアップの中から最適と思われる複数の情報を統合して、私たちはそれが「夕日である」と認識します。
重要なのは、この脳内の「夕日」という映像検索が行われリストアップされるときに、その個々の過去の記憶に紐付けされた「感情」が無意識に呼び出されるということです。

これが重要なのです。
「紐付けされた感情が呼び出される。」

例えば過去に夕日を見た時。その時「悲しい」思いがあったなら、次に再び夕日を見た時も「悲しい」感情が沸き起こります。
しかし、人間はそんなに単純ではありません。
夕日を見た時が、いつもいつも悲しいときばかりではないでしょう。
夕日を見たときに「楽しい」「寂しい」「不安」「期待」などなど、いろんな感情の経験を積み重ねて、私たちは生きています。

そのため脳内の「夕日」映像検索によってリストができたとき、これらの映像に紐付けされた感情は全て引っ張り出されることになるのです。
過去の記憶の多種多様な感情が、全部ごちゃまぜに引っ張り出されるわけです。
その結果、極めて複雑で説明しがたい感情の渦が、脳内に湧き起こります。
脳は混乱し、脳内には混沌の渦が沸き起こるのです。
楽しくて悲しくて寂しくて嬉しくてという、この形容しがたい混沌の渦、これこそが「感動」の正体なのです。
誰にも説明できない複雑な気持ち、それが感動なのです。

ここで分かることが、ひとつあります。
鑑賞者が、制作者が感じた感動をより正確により多く感じようとするのであれば、鑑賞者の「経験の多さと感動の体験の多さ」が重要な要素になるということです。
制作者と全く同じ体験ではなくても、極めて近い過去の体験を鑑賞者が持っていれば、かなり制作者に近いレベルの感動を得られるだろうということです。
つまり、ありとあらゆる多くの経験を積んだ者であれば、より多くの様々な「感動の経験」によって、より多くの制作者の感動をより多く理解できるだろうということです。
感動の内容を完全に一致させることはやはり不可能ですが、極めて近いものは得られる可能性があるわけです。

広義において、制作者の感じた感動に、鑑賞者の感動を重ね合わせるという作業、それが「芸術」なのです。

そして今「鑑賞者の経験の多さが制作者の感動を知る重要な要素になる」と述べましたが、逆の場合も同じことが言えるのです。
例えば「風景」を写し撮るという写真芸術であれば、制作者が膨大な量の風景を見つめ、膨大な量の経験と感動を体験することによって、より多くの人に大きな感動を知ってもらえる作品ができる可能性が高い、ということです。

そして、私はひたすら旅を続けて、ひたすら風景を見つめることにしました。
限界を超えた時、何が見えてくるのか、そこが気になっていました。

あれから随分月日が経ちました。
私が感じた日本の風景に、感動して頂けているでしょうか。
私の作品は、誰かの感動を引き出せているでしょうか。

あの時目指した限界は、まだまだ遠いようです。

私は「みちのそら(みちのそらじ)」という言葉が好きです。これは「道半ば」という意味をもつ言葉です。源氏物語でも使用されています。
同時に、私が大好きな「道」と「空」が含まれている言葉で、平安時代の人たちはこんな美しい言葉を使っていたのだなぁと、感動します。
私の旅は続きます。

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