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「こくご」の授業がつまんなかったわけ


子供の頃から「国語」があまり好きではありませんでした。
漢字ドリルは勿論のこと、授業自体が嫌いでした。
だから、成績もイマイチ。


でも、本を読んだり、夏休みの宿題だった作文や読書感想文などは、とっても大好きでした。書く題材にも困ったことなかったかな。


それでもやっぱり国語が嫌いでした。


大人になった今では、日本語の美しさをよく実感できて、外国人の友人に日本語のネイティブスピーカーであることを自慢してしています。そうなんです、日本語は好きなのです。


なぜ、国語が嫌いだったのだろうか。
今まで何度も考えました。


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今日も暇な休日を楽しむ為に、近所のコーヒーショップにお出かけして、ノマド風の時間を満喫していました。すると僕の隣には外国人の若い男性が一生懸命に「日本語」を勉強している。


この人はどうして日本語を勉強しているのだろうか。日本語の美しさに触れて、少しでも興味を持ったのだろうか。それとも、家族で日本に移住して来たのだろうか。そんな思いを巡らしていました。


外国人のテーブルの前には綺麗な日本人が座っている。優しそうな女性だ。
こっそり会話を盗み聞きすると、どうやら彼の日本語の先生のようです。
日本語のレッスン中。


どんな授業をしているのだろうか。
テキストは先生が用意したものだろうか、何やら印刷された絵が描かれている。穴埋め形式で言葉を埋めていくタイプのようです。これは楽しそう。


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学生時代の国語の授業。あれは酷かったなぁ、つまらな過ぎて退屈でした。今でもあんな授業ばかりしているのだろうか。だとしたら、国語の授業が始まった途端、眠気に襲われる生徒がいたり、窓の外の鳩を眺めてる生徒もいるだろう。


僕がどうしても好きになれなかったのには、それなりの理由がありました。
授業の進め方です。


先ず、教科書の文章を生徒に音読させる。そして、あらすじをまとめて要点を絞り、その文章について重要な部分や感じ取れることなど、皆の意見を引き出して考える。この作業自体が嫌でした。


そして最終的に結論を出して無理やり理解させる。
言い換えれば、文部科学省(当時は文部省)が推薦する教科書と言う名作の鑑賞会に参加しているだけ。


そんな名作の詰まった教科書を、皆で称賛して褒め称える。生徒にこれらを読解させて、意図に沿っていると「素晴らしい」と褒め称える。僕が受けた国語の授業は、まさにこんな印象でした。


稀に心を打つ表現があり、そこからどのような感動を受けるのか、言わば「感動のマニュアル」を一方的に生徒に押し付けるなど、教師の自己陶酔の世界がありました。生徒はただ観客として、漫然とこれを聞いているだけ。


つまらない。
今考えても実につまらない。


国語の授業は品行方正、清廉潔白でお行儀良くしなければならない。そんな堅苦しいイメージが定着しているので、きっと生徒たちは退屈さを感じてしまい、僕のように校庭の鳩が気になってしまうのでしょう。


数学や物理、社会や英語だってそうですが、少なくとも自分で考えたり、飽くなき探究心が芽生える瞬間がある。でも、残念ながら「国語」にはなかった。


これは教師が悪いのではない。
慣習が悪いのです。


国語の授業ってどこかの国の反日教育と似ている。
国が進める物語を皆で朗読しながら固定観念を植え付ける。


そこには客観性がないのです。
他人を説得する客観性がないのです。


日本はなぜ左側通行なんだろう、金融の仕組みってどうなっているんだろう。利益を生む経済の仕組みって楽しそう。世の中には沢山の「なんで」で溢れているのに。


先ずは自分の意見を述べ、そして予想される反論を検討する。その反論を否定したり肯定したりしながら、自分の理論の正当性を証明する為の準備をする。客観的な立ち位置で、抽象的だったり、一般論的になり過ぎないように、自身の経験と照らし合わせて意見を言う。そんな授業であれば楽しかった。


考える力を育みたかった。


この外国人の男性は楽しそうに授業を受けている。
そこには漢字ドリルも名作である国語の教科書もない。少なくとも自分で考える「日本語(こくご)」と言う新鮮な言語が目の前にあるだけ。
そんな「こくご」だったら楽しかったのにな。


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最後まで読み進めて頂きありがとうございました。
素敵な夏を満喫してください。🌱


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