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主語と動詞

誰かや何かを批判したり、自分を責め続けたり、目の前にある状態、起きた現象に対して受け身でいるうちは、その人は行動できていないのだと思います。目標を持つ事は大事だけど、動き出さない内は、妄想にすぎない。

コロナになって、仕事を失って、病気になって、今まで出来ていた事が出来なくなった状態は、私の身に起きている事ではありますが、私だけの特別な事情ではありません。大なり小なり誰もが同じような状況にあります。

何があっても、何もなくても、動き続けることが、存在の証明になる、と私は信じて生きてきました。行動しない人間は、そこに存在していないのと同じだ、と。極端に信じすぎてワーカーホリックだった時期もあります。

存在しない、つまり『無』を恐れて、泳がないと呼吸できないマグロのように、停止恐怖症で、多動症で、ドラマチック依存症でした。何も起きないと、わざわざ自分でドラマを作り上げて、自らを揺さぶったりしがちでした。癌になり、本物のドラマが目の前に始まって心底ビビりましたが、それでも頭のどこかで、不謹慎にも最高の学びのチャンスだとも思っていました。


主語(私、あなた、あの人)と
動詞(動く、座る、走る)が、
その人自身の存在を証明する。


形容詞(辛い、羨ましい、可愛い)は、
行動への感想、状態の味付けにすぎません。
形容動詞(綺麗になる、強くある)などは、
『なる』『ある』が真髄です。

『誰かが、私に〜した』は受動態。
『された』と言っているうちは、受け身で、何も行動できていない事の証明。

コロナのせいで、私は無職だ!と叫ぶ事で、それがどうしようもない現状を笑い飛ばす元気になるなら、それはそれで良いと思います。私も散々やりました。でもストレスを発散した後、どう行動するかの方が大切です。


『誰かに何かされて、私は辛い』は、
受け身で、しかも、状態への感想だけ述べて終わっている。行動する気のない事の証明になります。

『私は、窓や鏡を拭き掃除する。私は不用品を整理する。私は自分に出来ることをする。私は強くある。私は綺麗になる。私は学び前進する』これが、存在している事の証明です。

主語と動詞をハッキリさせ、実行する事で、自らの存在を証明すれば、誰かが必ずそれを見つけて応援し、サポートしてくれます。動物は動くものに反応するように、本能に刷り込まれていて、人間も同じです。

私は、ずっと(特に2011年に名古屋から東京に出てきてからは、いや、やっぱり自我の芽生えからずっと)無闇やたら、がむしゃらに、行動し続けてきました。信条は『Don't think , just feel !and , move !!』おかげさまで、失敗しまくり。ですが、失敗しなくては何も学べません。学びこそ財産、生きる醍醐味、だと思っています。

ただ、行動しすぎて、身体をないがしろにし続けたため、病気になりました。でも、そのおかげで、さらに深く学び続けられたと思っています。幸運にも、回復もできた今となっては、ただただ病とそれに伴う様々な経験に感謝しかありません。

主語と動詞をハッキリと明確に認識し、また存在できる事に感謝して、これからも行動し続けて参りたいと思っております。やり過ぎに気をつけながら。


『私』は絵を『描き』『続けます』


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『渦中』
『私』の周りに起きる現象をきっかけに生まれる、感情、葛藤、闘い、受容を『描き』ました。


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