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今の私の目標

数年前、うつ病やら統合失調症やらを患い、そのことにも気付かずに、全てを外側のせいにしていたあの頃。

子供は学校へ行かなくなり、世間から見ればひきこもりで落ちこぼれ。

確かにそうかもしれないけれど、あのどん底の日々が、今の私を作ってくれた。

世界は広く、自由で、私の中にはいつでも無限の可能性が眠っていること。

もちろん、血を分けた我が子にもそれは備わっている。

生まれてきた人間には、誰にでも始めからあったもの。

しつけとして、教育と称して、大人たちが植え付けていくものは全て、その無限の可能性を狭くし、穢れとなっていく。

目覚めた時に、私にはなんの意味も持たない、1円にもならない目標が出来た。

それは、目覚めたばかりの頃は、「生きること」だった。

当時は、ただ「生きること」だけが目標だった。

この時の感覚は、体験した人しかわからないから、まわりの誰もが私を責め、慰め、引き出そうとし、励まし、明るく振る舞うことを望んでいたが、そんな力もなかった私は、「生きること」を積み重ねていくことが限界だった。

「あなたのため」といった大義名分で集まる人たちも、ありがたさは感じていたとしても、その行為すらも私には迷惑だった。

けど、そのプロセスを踏んだからこそ、私は他人へ介入すること、強要することをしなくなったし、助けることもなくなった。

「生きること」を続けているうちに、自然に「生きていていいんだ」という感覚が得られた。

そこからは、次々と新しい目標が見えた。

生きていることを許可された私は、次は「楽しく過ごす(生きる)こと」が目標となった。

この時に、自然に削ぎ落とされたものは、「正しさ」だった。

昔、江戸川乱歩の書籍で、「正義とは危険なものだ」という言葉を思い出し、その真意が腑に落ちて心から理解できた。

もちろん私も、大多数の大人たちと同じように、子供に「勉強しなさい」「学校へ行きなさい」「もっと頑張りなさい」「きちんと片付けなさい」などと言っていた。

それは確かに正しいことかもしれない。

「私は間違っていない」と思い、言い続けたいのであればそのまま進めばいい。

かつての私がそうだったように、それが当たり前のことと思ってやってみたらいい。

いつかどこかで、それが自分を苦しめていることに必ず気付くことになる。

私が気付きを得てからは、そんなことはどうでもよくなった。

私が本当に願ったこと、大切にしたかったことが目標となり、それは「楽しく過ごす」だったからだ。

「正しさ」というのは、教えを乞う者に対して与えた時にだけ有効なものとなり、まだ何も決まっていない、わかりもしない未来に対して振りかざしたところで、何も楽しくもなければ、間違っていたことの責任も負わなければいけない。

そこから、私は「正しさの主張」を捨てた。

何かを決める時には、「正しさ」よりも「楽しさ」で選ぶようになった。

このタイミングで、自然と世間で言われる人生を楽しむ思想を自分の経験から手に入れていた。

誰かに教わったものではなく、本当にそう思えるようになったことで、生き方が完全に変わった。

この世に生きながらにして、二度目の私の誕生だった。

これが、本当の「私の人生」の始まりとも言える。

それと同時に起きたことは、他者にもそれを望むことで、互いに自由になることを手に入れた。

子供や同僚や部下など、関わる人の全てに、ヒントは与えても、全てを自分で決めるべきと思えたからこそ、全てを手放すことが出来た。

全てを手放すことが出来ると、私はさらに自由になり、無限を感じた。

こここら、さらに私の目標は大きく広がった。

楽しく過ごして、楽しく生きていきたいからこそ、意味などどうでもよく、理由なんて関係なく、やりたいことをやると決めた。

決めたどころか、もう勝手に体が動くようにもなっていた。

宇宙の力を感じ、宇宙と一体化しているワンネスの感覚とはこのことだなと、全てが一致した。

三次元は全て、遊びの空間なんだから、やりたいことをやっていれば何の問題もない。

お金なんかに支配されたくないし、他人にも振り回されない。

全て、自分で決めて、自分で歩き、自分で達成していく。

だったら、この世界で何を目標にして、達成して遊んでいくのかと考えた時に、引きこもりの時期に黙々とやっていたガーデニングがあった。

始めた頃は、ただ癒される時間として、毎日狂ったように土や草花と戯れていた。

気がつけば数年が経過して、随分と知識と経験が蓄積された。

心と体の健康を取り戻し、自分の中に無限の可能性を感じ始めた私は、このガーデニングスキルを使って、私の住む町を花でいっぱいにしたいなと考えるようになってきた。

理由なんて、それはただ「楽しいから」であって、そこにさらに人々の喜びが加われば、私の喜びも倍増する。

「どうすればそれが成し遂げられる?」というものは、まだ私には降りてきてはいないけど、そこに辿り着くための今目の前にある目標は、まずは「庭を花でいっぱいにする」ことだなと思った。

ガーデニングを長年やってきて、向き合いかた、在り方が変わってきたなと思った。

今までに、色んなことがあったけど、それはいつか私が何かを成すために必要なプロセスのはず。

もちろん、これからも色んなことがあって、それらの点と点が、一本の線で結ばれていくことになる。

その時が来るまで、とにかく今は、私の庭を愛し、ひとつひとつの草花を愛で、今を楽しんでいくことだけ。

この道が、いつか私をどこかへ連れていってくれるのだろう。

長い人生を思えば、今の段階も、単なる途中経過に過ぎないかもしれないけど、今の私の目標は「庭を花でいっぱいにする」、そして、この先に待っている次の目標は「町を花でいっぱいにする」ということ。

宣言することで、私はまだまだ進んでいける気がする。

誰にも応援されていなくても、私だけは私の強力な応援者となって、私が私をサポートしていく。

あとは信じて進むだけ。

いつか必ず、この町を花でいっぱいにしてみようと思う。

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