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「水が重要なんだ!ビッグバンを起こしたいんだ!」と建築家は言った。からの「ただの水をエビアンに変える」へ

「ビッグバンを起こしたいんだ」と建築家は言った

この言葉を聞いたのは、初めてお会いした建築家の方と食事をしていた時のこと。
 
突き詰めると、僕がやりたいのは建築ではなく、庭じゃないかと思う」とも言っていた。
 
紹介してくれた人いわく、世界的な賞を数多く獲得している方らしい。
 
僕は建築のことをよく知らないのだけど、そんなことよりも、唐突にすごいことを言う人だなと思った。まわりにいた5、6人もぽかんとした顔をしていた。

そりゃあそうだろう。彼がいう「ビッグバンを起こす」ことが何を意味しているのかわからない。

だけど僕は「見たことありますよ」と話に乗ってしまった。酒に酔っていたせいもあると思う。


田中泯のオドリにビックバンを見た

もう随分前だけど、PlanBという中野にある小さな劇場で、田中泯さんの舞踊を見たときのことだ。当時、泯さんの舞踊にハマっていて、いろいろなところで見ていた。

https://www.youtube.com/watch?v=M058SEWFRzg

その日、泯さんは裸に近い状態でいつものように舞っていた。もちろん道具なんかは持たない。時おり静止したかと思えば、一気に動き出す。

途端、泯さんはぐるぐる回りだした

それはもう鬼気迫る勢いで、僕らは室内にいながら台風の中にいるような異様さを感じた。

そのときだった。

ドカン!と音がした。

いや、実際には鳴っていなかったのかもしれない。でも、あれはビッグバンというほかない現象だった

一緒に見ていた友達の三枝さんと二人で、感動のあまり動けず、鳥肌どころの騒ぎではなかった。いまでもあの時の感動を三枝さんとよく話す。


「名付けようもないダンスそのものでありたい」

田中泯さんは「オドリは個人に所属できません。私は名付けようもないダンスそのものでありたいのです。」と言っている。

身体気象研究所を立ち上げたのは1978年のこと。最初に泯さんのオドリを見たのは編集工学研究所にいた時のことで、どこだか忘れたけど、その場の空気が一気に変わってしまい驚いたのを覚えている。
 
 
ビッグバンを起こしたいという言葉を聞いて、久しぶりにそんなことを思い出した。そして、建築家の方を面白い人だなと思った。


水なんだ。水が重要なんだ

それからその人は、水なんだ。水が重要なんだと言っていた。

方丈記の水の描写や無常観に、感覚的に親近感を抱くのだという。

水が大好きというか、水の様相の変化を体感すると、身体と一体化するような。そこからアイデアを得ることが多いです。海外の人たちは、その無常観の詩情性を評価してくれるような気がする」と、ビッグバンの次は水のことをからりとした顔で話し出した。
 
 
渋谷のKOEのラウンジで話していたのだけど、23時で店は終了だと伝えられて、僕らは外に出た。昼間は晴れていたのに、外は雨が降っていた。なんとなく、三々五々お開きとなった。


水は祈りの対象であり、異界につながる道でもある

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家に帰ってからなんだか水のことが気になって、本棚を漁ってみたら、サントリー美術館でやっていた『水 — 神秘のかたち』という展覧会の図録が出てきた。こんな章立てになっている。


第一章 水の力
第二章 水の神仏
第三章 水に祈りて
第四章 水の理想郷
第五章 水と吉祥
第六章 水の聖地


生命の源である水は、数々の恵みをもたらす偉大な力を持つ存在として、早くから祈りの対象となってきた。なので、銅鐸に流水紋が刻まれたり、海を漂い流れてきた霊木で仏像をつくったり、水の化身ともいえる弁財天が誕生したりした。
 
 
薫玉堂」のお香のネーミングにもなっている音羽の滝は、京都の清水寺の信仰の対象になっているように、水の、あらゆるものを洗い流し、浄め、また潤いを与える力に、人々が霊威を感じてきたのだという。

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水の清浄さが本尊の霊力を高める意味合いが見て取れる一方で、水辺が境界であると同時に、たとえば盆送りのように、異界につながる道として機能する点も見逃せないだろう。

水はたしかに凄そうだ。日本には龍脈があるなんて話もあるし、今度は水についてその建築家の方と話してみたい。


水はコモディティ・カテゴリー?それともブランド?

ところで、話はズキュンとブランディングになるのだが、『ブランディング22の法則』アル・ライズ/ローラ・ライズ著(東急エージェンシー)の帯にはこう書かれている。

「ただの水をエビアンに変える」
「あなたを第二のビル・ゲイツにする」
-これがブランディングの力である。


仮に、水に不変のコモディティ・カテゴリー(差異のない均一化されたカテゴリー)があるとするならば、それはH2O、別名「水」である。

アメリカではほとんどすべての人が水道蛇口から上質できれいな水を確保できるので、食品店でただの水を買う必要がない。それにもかかわらず、実際には大勢の人が水を買っている事実をどう説明したらいいのだろうか。

 
 
ここで言う「ただの水」という意味は、コモディティ・カテゴリーを意味している。

エビアンはとても強力なブランドで、私たちは先日1.5リットル買って1ドル69セント支払った。日によっては、エビアンはリットル当たりバドワイザーより20%、ボーデンの牛乳より40%、コカコーラより80%高い値段で販売されていることがあるのだ。これがブランディングの力である。


昔、タレントのきたろうが「ついにペットボトルのお茶を買ってしまったよ」と斉木しげると話していたが、今では当たり前になったペットボトルのお茶だって、わざわざ買うようなものではなかった。

ましてや水なんて。日本でもアメリカと同様の状況が起きている。


コモディティ化した市場にも、差別化のチャンスはある

コモディティ化することと、差別化できなくなることとは違う。

水が当たり前にどこにでもあるからといって、すべてが同じではないのだ。

エビアンはフランスのアルプスの奥底から汲まれたものであり、音羽の滝は清水寺の信仰の対象である。

家の水道蛇口から出てくる水だって、どこの水系からひかれてるかで違うわけだし、差別化はできる。

そう考えると、水に限らずコモディティ化したと言われている市場のブランドにも、差別化できるチャンスはあるかもしれない。建築家の話から随分と飛んでしまったが、水について考えていたらそんなことを思いついたのでした。

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