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「解る」を我慢し、知的体力を養う

僕は創価学会に対して思いっ切り斜に構えていた時期が長かった。その歴史は思春期の真っ盛りから始まった。忘れもしない高校生二年の夏、たまたま本屋で見かけた週刊誌の表紙に「創価学会」と「池田大作」の文字がデカデカと載っていた。好奇心旺盛な高校生が手にしない訳が無い。そこに書かれていたのは口汚い批判、真偽の分からない記事のオンパレード。正邪の判断がつかない高校生の僕にとって、その言葉の刃はあまりに深く心を抉った。それまで全く疑う事がなかった前提が目の前で音を立てて崩れ去るのを感じた。以来10年間、この傷が心の中で疼き続けた。しかし不思議なもので、この時から始まった癖が今の確信に繋がってるから面白い。その癖とは、いちいち全ての前提を疑ってみるという事である。

囚われたバイアスを認知する

前提が崩れ去った僕は、そもそも自分の常識そのものを疑った。今まで正しいと思っていた価値観は酷く不安定なものだった事に気付いたからだ。何故こんなに不安定に感じるのか、そう、裏付けがないからだ。科学的法則は、必ず様々な事実に基づいて裏付けを積み上げ、正しいものとして証明される。週刊誌が正しいのか、今まで目の前で見てきた学会が本当の姿なのか、両側面から裏付けを積み上げるしか無い。これからは必ず両側面から見る様にしよう。そう思って、学会活動をやってみると同時に、敢えて週刊誌を読む様にもした。この両側面を捉える努力は思わぬ副産物を産んだ。それは人間が、先入観や、経験則というバイアスに囚われて生きてるという事に気付いた事だ。嫌いになった人は嫌な部分しか見えなくなるし、好きな人に対しては良いところしか見えない様に、学会を批判する側は、たとえプラスな現象だとしてもマイナスにしか見ない。このバイアスに気付くという事が様々な面において自分にプラスの効果を産んだ。人間関係も、仕事でのメンタルも、夫婦関係もこのバイアスの認知でどれほど助けられた事か。バイアスに囚われない思考回路は、僕の客観的視点を養った。多様性を認めるメンタルを育んでくれた。そして生涯必ず守って行こうと心に決めたある"固い決意"を形作った。

知らざるを知らずと為す是知るなり

これは論語の言葉だ。多面的に捉える努力が、僕に固く決意させたのはまさにこの言葉だと言っても良いと思う。要は「簡単に解ったつもりになるな」って事だ。

何年も週刊誌の記事を読んで行くと、ある二つの点に気付いた。
一つ目は、裏付け的なコメントをする人は常に同じメンバーだという事。つまり、「様々な角度から見ても間違い無い」とは全く言えない。ある特定の角度でしか検証されてないという事になる。沢山のパターンから見ても当て嵌まるからこそ客観的に正しい情報と言えるのだが、これらの記事は例えると、円柱を見て「この角度から見たら四角にしか見えない」と言って円柱を受け入れないぐらい偏った情報でしか無い。バイアス掛かりまくった陳腐な記事しか無いと言わざるを得ない。客観性はゼロに等しい。

二つ目、裏付け的なコメントに強烈な違和感を感じる事。これは僕が創価学会員だからそう思って当然とか思われるかも知れないが、僕が言う違和感とは、「知りもしないのに知ったかぶってる事」に対する強烈な違和感だ。よく陰口とかで耳にする「どうせあと人の事だから」と決めつけてかかっている言葉に違和感を覚えるのと同じだろう。事実かどうか疑わしい事を平然と勝手に断定して事実かの様に書き、全てを知っているかの様に語っている口ぶりがなんとも薄っぺらくて滑稽だ。その安っぽい知識でよく言論の世界を生きていられるなと変に感心してしまう。何故、もっと裏付けを取ろうと取材しないのか、全く理解に苦しむ。書かれてる事と実際の僕が見て来た学会の姿はあまりに乖離がありすぎて、最早異世界ファンタジーレベルだ。だからこそ、ジャーナリストや記者達が、「解ったつもりになって、実は解ろうともしてない」って事だけは確信を持って言えるようになった。

10年かかって見つけたそれぞれの発見は、僕の心にこびりついた不信を取り除き、先に述べた論語の言葉に帰結する。

「不知為不知、是知也

簡単に解ったつもりになるな」

である。

これは凡ゆる場面に当てはまる。学会を心底肯定できる様になった後、批判を目にした時も、学会嫌いな人に会った時も、活動をしたくない人に対してもこの言葉を常に自戒として心で言い聞かせている。人間は、広い社会性を身に付けなければ、目の前の事実だけで「解った」と思い結論を出してしまう。僕も根が理屈っぽいのでついつい表面だけを見て「解った」と勘違いし、薄っぺらいコメントをしてしまいがちだった。批判には批判する人の理由と立場がある。学会嫌いな人は嫌いになった原因がある。活動したくない人は何かやる気を失う様な事件があったのかも知れない。それらを解ろうともせず、安易に決めつけて接する事は、ジャーナリストぶって一方的な言葉の刃を振りかざす彼等と同じだという事を認識するべきだ。だから僕は彼等の事を理解する為に記事をちゃんと読んでいる。彼等の事が「解らない」からだ。

多様性に富んだ現代に生きる僕らは「解る」事を我慢せねばならない。「解らない」事がある限り、「解る」ではないからだ。僕が激推しのpod cast、コテンラジオが僕の考えを客観的に補強してくれていた。「情報が簡単に手に入る今、解らない事に耐えていく"知的体力"が必要だ」とラジオ内でパーソナリティでコテン代表の深井さんが言ってくれた。今はググってウィキればある程度の知識が手に入る。それだけで「解った」と思い、知る事を止めてしまうのだと。文脈や行間を読み取らないその知識には深さがなく、表面だけでグラデーションが理解できなくなってしまう。それが多様性を許容する心を阻害していると僕は思う。人と人の分断が問題視されてる昨今、その原因はこの"知的体力"の低下によるものではないかとさえ思う。対して苦労して得る知識というものは、或いは学校で学ぶ知識、先哲が遺した文献から学べる知識は、自分の中に取り込んだ時、血肉が染み込んで、厚みがあるグラデーションを湛えた、豊かな多様性を許容するものであり、知的体力を築くに最適な栄養分を多分に含んだものだと言える。そうやって培った知的体力は、「解る」心を我慢させ、忍耐強く「解らない」事を突き詰めていく行動を可能にする。真に一流の人々が謙虚でありつづけられるのは正にこれが理由だろう。自分が何を「解らない」のかよく知ってるからだ。

世界は「解らない」で溢れている。目の前に転がっている安易な情報に流されず、論語の

「不知為不知、是知也」
(知らざるを知らずと為す是を知るなり)

を心に刻んで、謙虚に全ての事象を学びのタネにする様に生きて行こうと思える様になった事こそが、批判に心を抉られても目を背けず受け止めてきた本当の意味だったのかも知れないと思うとやはり全ては善知識なのだなと改めて大聖人の
遺された言葉を噛み締める思いがした。

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