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#4 好きなタイプって

好きなタイプは?この質問に最近違和感を覚えるようになった。とてもめんどくさい心である。頭はよくないので以下、あまり深くツッコまずに読んで欲しい。

好きなタイプ。ここでいう「好きなタイプは?」の質問の意は、はどんなかんじの人が好きかということを聞きたいのだと思う。

そこで私は考える。パッと言葉では出てこないので、まずは好きな人を思い浮かべてみる。今をときめく講談師(日本の伝統芸能、落語とは違うけど近いところにあるのが講談、気になる人はぜひ調べてみてね)神田伯山(かんだはくざん)がでてきた。和服が似合う、たまに口が達者すぎて炎上してしまうかっこいい男である。逆算すると、私は神田伯山みたいな人が好きなタイプ、ということになるのだろうか。でも、これはちょっと違う気がするのだ。私が好きなのは神田伯山であって、神田伯山「みたいな」人は別に好きじゃないのだ。好きってすごくピンポイントなのだ。みたいな、で許せるほど、言い表せるほど、好きって甘いものじゃないだろう。しかし、「タイプ」という言葉(概念?)自体がそもそもピンポイントじゃない、非常に的の絞れていないぼけぼけの言葉なのではないか。

もう少し考えてみよう。神田伯山が好きということは、ある意味、神田伯山を構成する要素が好きとも言える、ということなんじゃないか。

いいたいことを言える、喋りが上手い、くだらなくておもしろい、ばか、意外と気をつかう人、顔もまあまあ好き、講談というジャンルを再び盛り上げた努力の人、、etc.

仮に、伯山が持っているこれらの要素をできるだけたくさん持った、「伯山みたいな人」がいるとしよう。伯山を構成する要素をたくさんもった、できるだけ伯山に近い人も好き、と言えたなら、「好きなタイプ」という概念も成立するんじゃないか。

しかし。

そういう人がいたとして。

いいたいことを言える、喋りが上手い、くだらなくておもしろい、ばか、意外と気をつかう人、講談というジャンルを再び盛り上げた努力の人、という要素にできるだけ多く当てはまる伯山タイプの人がいたとして。

多分、いや絶対好きにはならない。

なんて、好きな「タイプ」ってあてにならないだろうと思い知る。私が好きなのは神田伯山なのだ。むしろ本人ではないけど似てる人間は1番受け付けられないかもしれない。じゃあ、好きなタイプは?って聞かれて、「神田伯山です」と答えればいいじゃないかとも思ったが、そもそも質問からして相手はタイプを聞いているので、この答え方をしたとしても文脈的に「神田伯山みたいな人」も含まれてしまうだろう。そもそも質問がおかしいのだ。

好きなタイプは〜です、というのは恐ろしい言いかただなと思う。そもそもタイプってなんだ。好きなものをタイプで表しちゃダメだろ、というか表せないだろ。「好き」と「タイプ」は並列できない、と私は思う。「嫌いじゃない」と「タイプ」はそのぼやっとさ、許容の範囲の広さを考えると並列できるかもしれないけれど。好きなアーティストのタイプは女王蜂みたいなアーティストですとか言うのか、言わないだろ。あれ、場合によっては言うか?でもタイプで言う時点でそんなにそれ、好きじゃないんじゃない?そういう人に限って、ああじゃあこれも好き?って同じタイプのもの言ったらああそれはあんまり、なんか違うんだよっていうんじゃない?あれ、タイプってなんだっけ。

こうしてタイプのループにハマったわけだが、こんなことを思っていても、現実、好きなタイプは?と聞かれたら、「タイプとかじゃないでしょ、好きにタイプはねえよ」「嫌いじゃないタイプは?ならわかるけど好きなタイプは?ってよくわかんない」なんてめんどくさいことをぬかすめんどくさい人間になる道は選べず、「好きなタイプかあ、うーん、松田龍平みたいなダラダラして色気のあるタイプがすきかな!」とちょっと会話を楽しみながら答えてしまうんだろう。

2023.10.25

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