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#3 ささくれた話

京都でカメムシが大量発生している。最寄りの駅のホームで踏み潰されたカメムシが、ピスタチオに見えるという話をすごく中途半端な笑顔と共に言ってしまったので相手を戸惑わせてしまった。また別の日、自転車に乗るときに、股関節が変なところにハマってしまい、変なくねっとした不必要な動きを直前に入れてから乗ってしまった。

そういう小さな、誰かに言うほどでもない、悩みの種というには大袈裟な、ささいな「ちょっと変だった自分」が積み重なって、じわじわと私を落ち込ませる。

もっと面白い話を爽やかな笑顔で言えたら、スマートに自転車に乗れたら。そんなことを思ってしまうが、これも含めて自分である、多分。
きっと、大勢の前で爆笑をとったり美しいスマートな動きで日々が構成されたとして、もはやそれは私とは呼べないのかもしれない。綺麗なジャイアンは結局ジャイアン失格だったように、ワタシ失格である。

ダメだと思っている部分を何でもかんでも「これが私だから、許してね♡」と肯定してしまって、人の善意にあぐらをかくのは全然違う気がするが、だからといって「こんな私で、ごめんなさい」と必要以上に否定するのもまた違う気がする。

ならば私にできることは、ピスタチオの話をしてしまったことで誰かが傷ついていないかすばやく振り返って、誰も傷ついていなければ引きずらずにさっさと忘れてしまうことだ。覚えておくことで自分を傷つけてしまってはなんのための話だったのか本当にわからない。

あるいは、誰かに「ささいなささくれの話」として聞いてもらうのもいいかもしれない。話しているうちに、あまりのしょうもない内容にどうでも良くなってくるはずだ。私も今書いていてなんてくだらないんだと思ってピスタチオも股関節もどうでも良くなってきている。2週間に一度くらい、「ささくれ会」と題して心許した仲間とささいな「ちょっと変だった自分」を披露する会を設けてもいいかもしれない。その際、話していてどうでも良くなってきて「あ〜、どうでもいいねこれ!」と途中で話をやめてしまってもいいし、最後まで話して「とってもいいささくれだったね」などとみんなで締めてもいい。ともかく、前向きとまではいかなくても、短いスパンで消化していくと健康的なのではないだろうか。

繰り返しになってしまうが、他人は、案外私が「負」だと思っている要素で、私を私と認識しているのかもしれない。だから、そういう「負」をしらみつぶしに潰していくことは自分自身の存在を潰してしまっていることに近いのかも。ホームのカメムシみたいに粉々になってしまわないように、節度を持って反省と忘却を繰り返していきたい。

2023.10.20

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