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映画「パワー・オブ・ザ・ドッグ」自分なりの解釈で〜辛い人生の幕開け

2021年

不思議な映画でした。
そして、とても美しい。


Netflixで観ましたが
映画館の大画面で観たかったです。

ニュージーランド出身の
ジェーン・カンピオン監督作品。

とても好きな、そして人生を変えてくれた
監督さんです。

1991年
「エンジェル・アット・マイ・テーブル」
1993年
「ピアノレッスン」
どちらも映画館で観ましたが

人間の深い欲や業のようなものを、
ニュージーランドの
荒々しい自然の美しさで表現する、
アートで文学な映画でした。 

そのことがきっかけで
ニュージーランドに惹かれて
旅しました。

今回見た「パワー・オブ・ザ・ドッグ」も
情景だけで何かを感じさせたり、
考えさせたり、
多くを語らない分
光や影で伝える

独特の感性を感じました。

・・・・・・・・・・・

舞台は1920年代 アメリカ西部の牧場。


ともすれば、従来通りの西部劇にしか
なり得ないような舞台設定なのに

ものすごく複雑な人間心理。
心の奥底に潜む
自分でさえ気づかないほどの
邪悪と罪悪と自己愛。

そんなことがテーマになっているのでしょうか。

見終わった後

えーーーっと、、
終わっちゃったの?
どう処理したらいいの?

という感覚になりました。

わからないです。

でもわからないからこそ

考えなきゃいけないことが
押し寄せてきて

思考が回転する映画です。

・・・・・・・・・
私なりに解釈するなら

フィル、ローズとその息子ピーターは
無意識下の殺人者です。

無邪気に他人の自我を破壊する人たち。

きれいな顔の奥深くに
悪魔を隠している人たち。

だからといって
その人たちを非難しているわけではないです。

彼らもまた
自我を殺されてきたから。


世界にはそんなことがうじゃうじゃあるし

自我を殺されていく人たちは

すでに
自分で自分の自我を殺して生きている人たち。


カンバーバッチ演じる
カーボーイ フィル

彼は
死ぬ間際に、
秘密を共有できる人に出会い
自我を見つめ
幸せの絶頂で息絶えたのではないでしょうか。

それくらい、彼の秘密、自我は
誰にも共有できないほど重いものであり、

重荷を下ろすこと=生きる意味=死ぬ意味

自覚できないほどの
強い自己嫌悪と罪悪感。

ローズがフィルを恐れ毛嫌いしたのは、
フィルが、ローズとピーターを侮蔑したからではなく、

ローズにもピーターにも
抱えきれないほどの重荷があったから。

それは深層の罪の意識、
悪魔の意識。

ローズは息子に過保護になることで
罪の意識の共有をはかっていたのかも
しれない。

そういったことは
しばしば世間一般にあると思います。

親が抱えきれない
罪悪感と自己嫌悪を抱えている限り、

子離れできない、したくない深層心理。

ローズは、息子とフィルが
共に行動する姿を見て
自分の罪が表に出るような気がして
怖くなり、
酒に溺れずにはいられなくなった。

もちろん、ローズにはその理由はわからなかっただろうけど。

フィルの死によって
ローズとピーターは
一時、平穏無事になったのかもしれないが

それは続かないかもしれない。

自分の罪の意識を
自分の目で直視しなければ
一時的に平穏になったとしても、
一生、"罪"に恐れおののき続けるのかもしれない。

犬は忠誠心、信頼のメタファーだとすると
フィルは、ピーターとの間の信頼関係を
得て死んでいったのだと思った。

だから、死を覚悟してロープを編んだのかも
しれない。

ロープは絆の象徴。
自我との絆。
自分自身への信頼。

ピーターは
最後にロープをそっとベッドの下に隠した。

それは、フィル同様、秘密を持ったまま
成長する暗示かも。

秘密=実父との間の罪、フィルとの間の罪、
そして封印した自我。

辛い人生の幕開けかもしれない。

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