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12分の1

 今日は1月30日、一年の12分の1が経過しようとしています。
 当たり前ですが、年が変わったからといって、自分や自分を取り巻く周囲において、何か画期的な変化がもたらされたわけではありません。毎週、毎日のタスクをこなしつつ、目の前の課題への対応はできており、自分に課せられた役目については、ある程度、果たしている自覚はあります。
 一方で、課題の解決に、日々の心身のスタミナと時間の多くが天引きされている状況にあり、自由に使える時間は少なく、悩みごとは真面目に動けば動くほど増えていき、問題解決が、更なる悩みの扉を開けてしまうこともあります。一番きついのは、良かれと思って動いたのに、そのことが評価されないどころか、批判の種となってしまうことですね。
 人生は楽ではなく、人と思いがすれ違うゆえの苦が多いと感じますし、自分がこの人生という短い間で何をなすべきかと探究すると、知的レベルの高い人ほど、意義を見出すことに必死になり、人生の意義を探究する泥沼に誘われ、理性を剥がされて、得たものを多く手放してしまう、そうして、探究の泥沼の世界に棲息するしかなくなり、幸せのふりをするいつわりの生き方をせざるを得なくなっています。 ただ、探究の泥沼での幸せの思いを、共有することで、ある種の選民思想の理論において、選ばれし側に立つことができますし、そうした立場がさらに、いつわりの生き方を広める役回りを、最上のものと信じるよすがとなり、そうしたインナーサークルの中で棲息する限り、人生を満足に生きることができたと、自らに言い聞かせることが可能になります。
 外から見れば、それは可哀想な生き方と思いますが、この月曜日の憂鬱な心理状態を究極の落ち込みまで至る前に、自制により回避できる効能はあるように思います。個人の究極の不幸の思い込みを救うには、自分が生き続ける勇気を与える信仰を心に抱くしかありません。これは諸刃の剣であり、不都合な真実ですが、一見、荒唐無稽と思われる信仰も、排除することが困難なのは、まさにこの、個人の救済は心の求めるところに寄るしかなく、効果的な対処方針がないという現実があるからだと思います。

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