AKB48とももクロについて再考してみた「AKB48白熱論争」@幻冬舎新書を読む
私がももいろクローバーZの論考を書くきっかけになった書籍。AKB48全盛期と言っても過言ではない2012年の出版。最近家にある書籍の不要なものを古書店に売却処分するなど整理している中で本棚の奥からこの著作を発見。思わず懐かしくなって読み返してみたのだが、AKBがその当時と比べると凋落していると言わざる得ない現在読んでみると忘れていたいろんなことを思い出して懐かしい気持ちになった。
逆に現在の冷静な目から俯瞰してみると日本の言論界においてそれなりの地位にあった(あるいはあろうしていた)4人の論客がAKBのことを真剣に論じていたという状況が幾分滑稽にも感じられたりするし、アイドルを論じているのにその内容がほとんど社会学的な見地からAKBのシステムを論じるような内容だけに偏していて、アイドルとしての本分であるライブや本来AKBの一丁目一番地であるはずの劇場公演でのそれぞれのメンバーのことなどにほとんど触れられていないことに驚くしかないけれど、こうした風潮並びに本書におけるももクロへの論難(と私が感じたこと)にはカチンと来ていた部分もあり、それに対する反論として私がアイドル同人誌「アイドル感染拡大」に書いた論考*1、*2が本書とは対極的なパフォーマンス論に徹したものになったのはなぜかということも再確認させられることになった。
この本はAKB48についての本ではあるが全体の構成を見てみると全四章のうち第一章、第二章のほとんどがシングル選抜総選挙を巡るあれこれという内容になっている。ももクロについては私の論考以外にもいろんな本が書かれているが、本書の著者らと同じような批評系の著者によって書かれた著述であってもそのほとんどがそのライブパフォーマンス(全力パフォーマンスなど)についての言及であり、論者の立地点がまったく異なる。
本書を読み直してみると同じアイドルといってもももクロとAKB48が、あるいは両者のファンが全く異なる視点でそれぞれを推しているのだということが浮かび上がってくる。それが興味深かった。
特に「それはおかしいんじゃないか」と引っかかったのは宇野常博、濱野智史の次のような発言。
特に私が腹に据えかねたのは「たしかにパフォーマンスはすごいから最初は魅了されるけれど、3回目ぐらいからは飽きる」との発言で、そんなことを言い出せばシステム的な仕掛けがなければ「3回目ぐらいからは飽きる」というのならば「ビートルズにも同じようなことが言えるのか、馬鹿らしい」とすぐにでも反論したくて仕方がなかったのである。
AKB48の凋落がどこから始まったのかを考えた時に坂道グループの台頭というのは大きな要因してあったとしても、握手会と選抜総選挙というサイクルが握手会現場で起こった事件によって揺らぎだして、そこに2年にわたるコロナ禍による接触イベントからの完全撤退が最終的にとどめを刺した形になったのは間違いないのではないかと思う。
選抜総選挙がなぜなくなったのかということはさまざまな分析がAKBファンによってもなされていると思うが、決定的なのがテレビ局の離脱やコロナ禍だったとしても、初期メンバーである神セブンらがほぼ卒業した後に結局のところファン以上の広がりで外部の人間を惹きつけ続けるような物語を描き続けることが困難であったからではないか。本書ではシステムが強調されるが結局とのところ人気はシステムだけでは持続はできず、AKBとは前田敦子、大島優子という個人により描き出されてきた物語だったのではないか。(そういう意味では私の目にはAKBとは前田敦子の個性を核とした物語であり、ももクロは百田夏菜子の個性を核に綴られた物語なのだと思っている)
最近のAKB48の活動について言えば「根も葉もRumor」に代表されるような集団での激しいダンスパフォーマンスを伴った楽曲がきっかけになってパフォーマンス重視への回帰があるかもしれないと考えている。そういうことがきっかけになってももクロの佐々木彩夏(あーりん)が単身乗り込んでいって@JAMの特別プログラムとして「根も葉もRumor」コラボを行うなどパフォーマンスを通じてももクロとの交流も活発になりつつ。これもアイドルの活動におけるライブの重要性という価値観がももクロ、AKB両者に共有されるようになってきた現状が反映された結果だと思う。
佐々木彩夏は自らが主催するアイドルフェスAYAKARNIVALにSKE、HKT、STUなど48グループの選抜メンバー(ユニット)を招聘したりして同グループとの距離感を縮めてきたこともあり、今年はいよいよ本丸であるAKB48を同フェスに招くための外堀は埋められたかなと思った。
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