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死んだ母と妻と三人で食事を

私は今、妻と二人、横浜で幸せに暮らしています。
住み慣れた近隣の街から横浜に引越してきたのはちょうど12年前のことです。
それは、3.11、東日本大震災の年でした。
2月25日、午前7時6分、看護師さんが、「今のが最後の一息ですよ」と言いました。
母が亡くなりました。
私は、そのときの記憶をどこかにとどめたくて、
腕時計を外し、左の腕から右腕に付け替えました。

「余命はあと1か月」と医師から告げられたのは、12月のことでした。
毎日病床に通いました。何としても母に伝えたいことがありました。
哲学に魅せられていた私は、「歎異抄」しかそれがかなえられないと思っていました。
「歎異抄」の世界が、母の耳から「往生ハッキリ」と心底を貫き、口に念仏となって流れ出る。
そう願って、毎日「歎異抄」を読み聞かせました。

母の命を縮めていたのは胆管がんでした。    
手術をしてから1年ほど過ぎていました。
術後の生活で、一番の楽しみは食事のようでした。買い物は私が一緒についてゆき、帰りにはカフェでコーヒーやケーキを楽しみました。
やがて買い物も辛くなったようで、私ひとりですませるようになりました。
キッチンの椅子に腰かけた母が作り方を教え、私がフライパンを振るようになりました。
思えば、母の料理を食べ続けて半世紀になっていました。
母が定年退職したあとは、朝のテレビ番組でやっていた料理のレシピが、夕食には出てくる。
母が離婚したあとは、勤め先から帰ってくるとすぐに料理にとりかかる。
そういう母を中学3年の秋からずっと見てきました。

40歳を過ぎたころ、妹の結婚が決まり両家の家族の会話の中に、私は最後に招き入れられました。
30歳を過ぎたころ、浴室で母が私の足を洗ってくれました。
20歳過ぎたころ、母に連れられて東京の心療内科に行きました。
高校生の夏、水泳がとても苦手だった私は、体育の授業のある日は、休むようになりました。
どんな時でも、毎日母と会話をしながら、3食美味しく食事をしていました。

看護師さんが「お風呂に入れてあげましょう」といいました。
私は、母の足を初めて洗いました。
母は、自分の命と引きかえに私を自立の道へと押し出してくれたのだと思います。
そんな母に、最初で最後の親孝行をさせてくれた「歎異抄」
母が私をこの世に生んでくれなかったら「歎異抄」の世界を知ることはなかったでしょう。
「歎異抄」の世界を知ることがなかったら、母に最高の恩返しをすることはなかったでしょう。
遠い未来でもよいから、今度は三人で食事を楽しみたい。
今は妻に朝と晩、「歎異抄」を読み聞かせています。

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