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芥川賞発表の日に寄せて/森鴎外と松本清張の因縁

昭和の時代、九州小倉で今か、今かと受賞の知らせを待っていた人がありました。
直木賞候補となった松本清張氏でした。
氏は朝日新聞に勤務するかたわら、地方の文芸誌などに投稿を続けていました。
或る時、三田文学から執筆依頼が舞い込みました。
三田文学。中央の雄、東京の三田文学。
地方の文芸誌とは、いわゆる別格です。
しかし、その時の氏には、書く題材がない。
苦心のすえ、幼いころの体験を元とした作品を送りました。
また依頼が来ました。
それに応えた作品が、直木賞候補となったのです。

しかし、発表当日、新聞発表には別の作品名がありました。
今でこそ、世の中の華やかな脚光を浴びますが、当時は新聞の片隅に発表される程度だったそうです。
落胆する氏の目が、後日の新聞にくぎ付けになりました。
「芥川賞、受賞作 松本清張氏 『或る「小倉日記」伝』」

この原稿が、直木賞選考委員の手に渡されて一読した柴田錬三郎氏は
「これは、芥川賞だな」と、直木賞候補から外したのでした。
今は、芥川賞・直木賞、同日選考、発表。
当時は違いました。最初に直木賞が選考され発表、時を移して芥川賞発表となるのでした。
芥川賞選考委員は、みな面食らったでしょう。

明治時代、森鴎外は医学を学ぶためドイツに留学しました。帰国後、「舞姫」など発表、時代の寵児となりました。
しかし、同時代の漱石と異なり、二束のわらじで通しました。
ついには、軍医として頂点に上り詰めます。
その途上、どうしたことか、中央から九州小倉へと任を命じられたのです。
鴎外は日記を残していました。
松本清張氏は、その日記を題材として、小説を中央に発表したのです。
不思議な巡りあわせです。
中央から切り離され、一時文壇から遠ざかった森鴎外。そこから中央にのぼった松本清張。

ある新聞社に、くぐもった声で、問い合わせがありました。
「芥川賞を受賞したのは松本清張ですか」
「そうですよ」
自宅近所の公衆電話まで歩いてゆき、松本清張氏自身が、ライバル紙に受賞の真偽を確認したのでした。
朝日新聞の社旗を翻した黒塗りの車が、氏の自宅に到着したのは、その直後のことでした。

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(注)因縁(いんねん)
[仏語] 原義は「因縁果の道理」、略して「因果の道理」とも。
因果律とも言われる。
釈迦の7000巻余りの経典に通底する根幹の教え。
これを「内道」といい、これに反するものを「外道」と釈迦は教えた。

因縁果は、「因縁生起」とも表される。
因と縁が結び付き、結果が現れる(生起する)
「因縁生起」を略されたのが「縁起」
世間一般で言われる「縁起が悪い」「縁起がいい」などの考えは、仏教ではあり得ない誤用。

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(参考・謝意)
カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス
元文芸誌編集長、大村彦次郎氏の語り

<仏語の注は、カルチャーラジオ
NHKラジオアーカイブスとは関係ありません>
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