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『チベットの猿だってDJの身体を勝手には触らない』

先日相談事のため、世話になっているライブハウスを訪れた時のこと。その日は親子連れのお客さんの多い、賑やか&朗らかなイベントの日で、僕はライブスペースには入らず、受付スペースで担当者と日程がどうとか内容がどうとかミーティングをしていた。建設的な話を続けるうちに、しばらくして、とある顔見知りが家族づれでやって来たので僕は軽く挨拶がてら話をし、彼も彼の奥さんも、しばらくそのスペースで他の客と談笑などしていた。
そんな中、彼らの息子さんと娘さんは大人たちに囲まれ元気いっぱいだ。特に息子さん(7歳くらいかな)がハイパーで、周囲の大人にちょっかいをかけまくっていたので、「まあそういう年頃だよね」と僕も朗らか〜な気分だった。多少やかましくて会話しづらかったがそれくらいは全然いい。子供の人格が全否定されるようなこと、自尊心を損ねるようなことはあってはならない、と常々思っているし、この世に出てきたばかりだからこそ、迷惑を顧みず色々体験したり楽しんだりして欲しい。その結果賑やかになっても、迷惑だとか、うるさいな!とは思わない。なので引き続きミーティングを続けた。

とまあ、朗らかな空間だったのだが。

するとその息子くんが周囲の大人たち(男)の股間を「ちーん!」などと言って触り始めた。きゃっきゃとかけ回りながら「ちーん!」。僕は会話の最中だったのであえて意識外にしていたのだが、その子、テンションが上がってきて、ついに見ず知らずの僕の股間までも「ちーん!」してきたのである。
不意打ちだったので驚いたのもあるが、僕はついキレそうになり、条件反射的にその子の髪の毛を掴んで吊し上げそうになるのをぐっと堪え、なんとか「他人のチン◯を勝手に触るんじゃない!」と声を荒げるにとどめたが...その子は反省するでもなくキャッキャと駆け回り続けるばかり。親も見ていたのに何も言わない。

人間の局部は決して無断で触っていいものではない、という倫理観のはっきりした文化(アメリカ)で育ったからということもあって、僕は笑えなかった。ノーモアほがらか。





他の国の場合はよく知らないが、当時のアメリカでは小学校時点で”他人の局部(水着で隠している部分、などと教えられる)は絶対に本人の許可なく触ってはいけない”と教えられる。人によっては局部でなくとも決して触れられたくない可能性もあるわけで、股にせよ腹にせよ、相手の合意なく勝手に身体に触ったら男女問わず”人権侵害”で、犯罪行為にあたる可能性さえある、と。なので、もしふざけてクラスメートの局部を勝手に触りようものなら、学校中から人間以下の動物扱いをされ、ゴミカスのように軽蔑され、社会(学校)から存在を黙殺され、その後も引き続き絶賛軽蔑され続ける、という空気があったのを覚えている。大人だってセクシーな関係になるには、やはり合意あって初めて許されるというか、成立するわけで、だからこそ合意を得るためのいろんな技術や駆け引きがあるのだろう。人それぞれに固有に権利を有する、という前提あってのことだ。


ところが日本の小学校ではというと、少なくとも僕の世代では、そこらじゅうで「ともだチンコ!」「カンチョー!」などとやっていたわけである。「ともだチンコ」を全然知らなかったので僕にとっては尚更衝撃だったが、慣れて行かざるを得なかったし、同調せざるをえない局面もあった。言葉もままならない子供一人が”文化”に反旗を翻すのはなかなか大変なのである。当時はうまく言語化できなかった、というのもあるし。

流石に最近は、もう誰もお◯っちゃまくんを知らないかもしれないが、先の顔見知りの息子くんがやった「ちーん!」も、要はお◯っちゃまくんのノリと、それを許容していた昭和平成文化の延長上のこと、名残だろう。



ところで昔ネイチャー番組だかで観たのだが、チベットの山に生息しているチベット・モンキーという猿は、挨拶と友好の印としてお互いの性器やお互いの子供のペニスを触ったりなんなら吸ったりするらしい。一番無防備で大事な部分を共有しあうことで安全だ、友好的だと伝えている、だったかな? 人間から見れば一見滑稽だが、猿にとっては必要な、立派なコミュニケーションらしい。
日本の小学校のノリを思い出すとき、同時に僕はこの猿のことも考える。日本の小学生が大好きだった「ともだチンコ!」のノリも、おそらく根本はチベットの猿と似た理由から来ているのだろう、「なかよし!だから触って面白がろう!」と。その動機は罪ではないだろう。ともだちゆえのノリなんだし。
ただ、チベット・モンキー同士が身体を勝手に触ってコミュニケーションが成立するのは、そりゃ猿だからで、必要だからだ。こちとら人間である。もっと複雑なコミュニケーションでもって、互いの人権を尊重しあわざるをえない、複雑な社会で生きているんじゃないの?

チベット・モンキー

そんな風にチベットの猿のことを思い出してるうちに、なにやら最近日本でようやく「人権教育が不十分だ」などと言われるようになった。セクハラ、モラハラ、パワハラという言葉もしょっちゅう目にする。それは概ね、ひとまずいいことだと理解している。が、あまりに遅すぎないか。 少なくとも30年は遅い。条件の平等や成果の平等と、権利の平等とでは全く違うのに、いまだに混同している。だから運動会のかけっこでも同時にゴールさせたりする。戦後何十年もかけて、今だに、人権や”権利”の定義や理解する試みすら行われていない状態に見える。
人権の概念も、元々はアメリカから移植したものだろう。なんでもアメリカの思想に倣って身に付ければ良い、というものではないが、しかしこれだけアメリカのコスプレして、ギブミー・チョコレートやってきて、今更「人権教育がこれまでまともに無かった」じゃ、整合性が取れてないにも程があるだろう。これまで何十年もガワばかりアメリカぶってきたのに、肝心の部分は何も身についていなかった、特に考えたこともなかったのか?

最近”文化の盗用”と言う言葉も登場したが、今のところ経済力や発信力が強い西洋諸国による”東洋からの盗用”の方が議題に上がりやすいため、わかりにくい。が、どっこい昭和平成までの日本は特に自覚も思想もないまま”西洋の盗用”ばかりやってきたのが事実だ。デタラメな横文字ばっかり使うとこから始まってあらゆる分野で”盗用”してきただろう。
盗用されても西洋側は痛くも痒くもないので「頑張って真似してるなーウケるー」程度にしか思っていなかったし、客観性の欠如と閉鎖性ゆえそう思われている可能性にすら気づかなかったのが、これまでの日本だ。
その上、猿のコミュニケーション風習がいまだに残っている状態、と。



猿ならば「ともだチンコ」やってりゃ良いけど、人間なら、子供といえど猿のような振る舞いを許さないで人間の倫理を教えるべきだろう。


セクハラ、モラハラ、パワハラ、年齢マウンティングなども、個別の問題として扱う前に、そもそも日本の人間としてどういう倫理あるいは思想をベースにして向き合うべき扱うべきか、もう一度考えた方が良いのではないか。今のところ”アメリカ式の人権”がソリューションになるのだろうけど、その是非を含めて再度考えた方が良い。各ハラスメントを個別に批判するのは重要だが、それらの根幹から検証しないと、効率悪いだけでなく延々と本質を捉えられないままになりかねない。で、また「運動会で順位をつけるのやめるのが良い」などと言い出すのだ。

アメリカやらの西洋文化が常に先に進んでる、などと思っているわけでは全くないけれども、人の局部だったり、感情一つ、意志一つ、持ち物一つであっても、それは個人のものとして尊重されるべきで、それを無断で侵害/否定する権利は誰も有さない、というのが”人権”というアイデアの礎だとするなら、これを守れるに越したことないだろう。綺麗事/絵空事な思想だろうが、人がいっぱいいる地では綺麗事でもなんでも利用して互いの安全を確保しあうくらいしないと、そこいら争いだらけになるじゃないか。

仮にもし、”人権”とかではなく、日本固有の倫理やモラルがあって、それにもとづけば「ともだチンコ」ノリも正当化できると言うのなら誰かぜひ説明してほしいが、あれが人気あった1990年前後のはっちゃけ方などは価値基準も倫理基準もぶっ壊れた後で、それゆえの馬鹿騒ぎと軽薄、風刺と反動程度の幼稚なものでしかなかっただろうから、どだい無理だろうと踏んでいる。
百歩譲って、おぼっちゃ◯くんが漫画の中でやるのはまだ良いとしても、アレを現実にやってしまう分別のなさと、そういう子供の行動を許容してしまってた社会の無自覚さは、今となってはもはや有害だ。昭和平成の風潮が古いからダメなんじゃなくて、常にダメ、という認識でいっそ良い。




話変わって、韓国から来たDJ SODAさんという人が、日本のフェスで大勢に勝手に身体を”触られた”という件が問題になっている。大変ショックだった、と彼女自身が表明すると、SNSでもメディアでもセクハラだの痴漢だの日本のモラルの低下だの、いろんな観点から意見や批判が飛び、今も紛糾している状態だ。
いろんな観点切り口から考えられるが、僕はこれは、人権の概念をろくに扱ってこなかった結果だと単純に理解している。被害を受けた方は複雑だし辛いだろうが、すごくシンプルな話、モラルの低下も何もこの国にはまともなモラル基準がずっと無かった、この件はその表れってだけだと僕は理解している。ずっとあったのは年功序列と同調圧力くらいか。なのに建前上は人権がどうのと言い、それでいて教育サイドは本質をまともに扱ってこなかった。やってたのは受験教育と馬鹿げた校則の施行ばかりなので、社会全体が”人権リテラシー”低いままなのは当然だろう。それがわかりやすく可視化されているだけだ。だけ、と言っては被害受けた方が気の毒だが、本当にシンプルな話だと思う。

人権意識の無さ、欠落を自覚すらしてこなかった国のごっこ体質と、人々の視野狭窄を思えば何も想定外でも意外なことでもない。あの場でドサクサに紛れて触った人々の意識は、小学生がふざけて他人の局部を勝手に触って、ケラケラ笑うのを許容してきた文化の産物である。
あるいは、この国の中身のないハリボテスカスカなモラルと世間に抵抗した結果のバカな“はっちゃけ”だ、などと逆ギレでもするだろうか?  
言い分はわからんでもないが、 他人を侵害するのなら独りで破滅してくれた方がいい。
彼ら自身がこれまで人権という綺麗事に守られてきたくせに、その自覚もなく他者の人権を侵害したのだ。加えて性加害の罪状もある。もし特定されて、顔も素性もネットに晒されて、真っ当に生きる権利を奪われたとして、彼らにどんな文句が言えよう?

子供が「トモダちんこ」のノリのまま大人になっちゃったら、それはすでに害悪なのである。遅すぎるとはいえ、やっとそういう認識の世になりつつあるのだ。許されるのはチベットの猿だけでいい。

しかし厄介なのが、先の顔見知りの息子くんの親も、なんなら僕自身も、昭和平成文化の救い難い面をそこそこ体験してしまってる世代ということだ。好む好まざる関係なく、慣れちゃってる。でも本当は慣れちゃダメなのだ。せめてそのことを自覚して、子供世代には「女の子にも男の子にも絶対に勝手に身体触ったり大事なものを損ねてはいけないよ、ダメだよ」と教えないといけない。「それじゃ無知蒙昧&悪ノリでDJ SODAさんを人権侵害したアホな連中と同レベルになるよ」と。
じゃないと、子供達が大人になった時、あの連中と同程度のふるまいをしてしまいかねない。





…とまあこれくらいには思うが、こっちはミーティングで忙しいし、顔見知りですらないその子の母親まで詰めるのもアレだし、長くなるしで結局言わなかった。が、「このまま行くとお宅の子、他人の体の大事なところを疑問もなく触りまくる錯誤した大人になるよ。ちゃんと叱ったほうが良いよ。じゃなきゃチベットの猿の方がよほどマシだよ」くらいは言ってあげるべきだったかもしれない、と今更ながら考えている。もちろん、誠に良心からのことだ。それなりの侮蔑の感情も添えて。


追記

あの某巨大アイドル事務所、の社長たち。人権侵害だとわかってないわけがないし、ぐるみで性犯罪しまくってたのだから、論外だ。チベットの猿さえ、DJやアイドルの身体を勝手に侵害することはないだろう。あの社長(故人だけど)たちは引き回しの刑に遭うのでなければ、せめてチベットに行って隔絶されて、猿と暮らさせた方が世界にとってもよほど良い。



僕は、人権という綺麗事を絶対値、基準としてひとまずは尊重すべきだと考えている。人口が膨れ上がり、その上いまだに人種差別がどうのこうの問題になる世界では、今のところシンプルで合理的で、かつ耳障りよく、良くできた綺麗事だとは思うからだ。
その綺麗事のせいでアメリカに与することになろうが、今は人権の概念をうまく運用した方がいい。これは政策決定などの手前の、文化や理想や思想や倫理観の話で、人間の集団はそこそこ説得力ある綺麗事が無いと、長く保たない。
独自の歴史で練り上げたモラルなど存在しないこの国では、たとえシャクでもアメリカあたりにでも倣って、人権を絶対的なものだとした上で、検証し研究し、法を練ったり社会を研磨するべきだと今のところ思う。少なくとも「ともだちんこ」やる子がまだいるうちは。



終わり



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