『ドライブ・マイ・カー』は、とても福祉的な映画だと思う。(ネタバレあり)
わたしは、家から1時間かけて、とあるミニシアターへ車を走らせている。
上映終了だと思っていた『偶然と想像』がまだ観られると分かってから迷いはなかった。
昨日、同じ監督の作品を観たばかりだった。
外は気持ちよく晴れていて、車内ではお気に入りの曲が流れている。
窓を閉め切って大声で歌う。
渋滞を抜けて視界が一気に広がる。
そこでわたしは思い切りアクセルを踏む。
"ドライブがセラピーになっている"と感じた。
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昨日、『ドライブ・マイ・カー』を観た。
予期せずに、とても福祉的な映画だと感じたので、そのことについて書いてみたいと思う。
・ドライブによるセラピー効果
演出家の主人公は、車の中でカセットテープに録音された音声を再生して、台詞を覚える。
つまり、言葉を肉体化する。
その時間は、自分じゃない誰かになり、それが自分自身になり、経験が他人のものとなり、また自分のものとして返ってくる。
作業の繰り返しが精神的な深みを増していくことは揺るぎない事実である。
そこにみさき(ドライバー)の存在が加わることで、その行為にやっと名前がついたのだとも思う。
そして、瀬戸内の風景から、最後には北海道の雪山まで、あの赤い車が走る、その世界観こそが観客にまでセラピー効果をもたらしてくれる。
・演劇からも生まれるセラピー効果
家福(主人公)の演出には、多言語が使われる。
日本語、韓国語、さらには手話まで、それぞれの肉体化された言語が絡み合っていく。
はじめはぎこちなく、感情もないコミュニケーションなのに、そこからいつしか恐らく言葉に頼らずに交わって"奇跡"が生まれる。
わたしは、仕事柄、非言語コミュニケーションによって通じ合うことも、それがかなりの時間をかけて関係性を作らなければなし得ないものであることもよく知っている。
だから、偶然集まった他人同士が、一つの作品を通して、パッと奇跡が起こることにまず感動した。それを"観客に伝えて共有するんだ"という境地には、畏敬の念すら抱いたほどだった。
心理学的にも演劇セラピーは有名だけれど、そういう専門的な理屈を並べるつもりはない。
演劇が人の関わりから生まれる奇跡を表現できること、素敵なことであり、大切な気づきであったこと、それに尽きる。
・感性が豊かな人たち
この作品には、音(主人公の妻で脚本家)や高槻(俳優)など表現者らしく感性豊かな人たちが多い。
感性の豊かさは、ある面で"衝動性の強さ"となり、"自制心の弱さ"や"半道徳的"ということにもなり得る。
実際、物語の中では、彼らが不倫や殺傷に関わることになって、それは家福の周りで起こるので、その事実と彼がどう向き合っていくのかが、この作品のテーマでもあり、最もセラピー性を感じる点でもある。
家福は、北海道の雪山で、みさきの前で泣く。
妻の性に対する弱さが許せなかったこと、許せない自分を認められずに気持ちを表現できず伝えられなかったことに対して、感情的に泣く。
村上春樹によって描かれた家福にはそれなりの精神力を求めてしまっていたのか、わたしは少し残念に思った。
感性の豊かさゆえの不具合を"障害“と名づけて支援する仕事をしているせいもあって、愛を持ってすべてを認めて受け入れることには慣れているし、魅力も十分に感じてしまっているのである。
でも、だからこそ、ラストの演劇シーンでは、彼は感情的であることを超えて、自分の気持ちを素直かつ穏やかに表現することをしていたと思う。
それこそがきっと素晴らしいことだと思う。
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ここまで書いて、福祉的と言うと、社会的困難や病に対する支援かなにかを連想させると気づく。
わたしが、この映画を福祉的だと表現したかった理由はもう少し違うところにある。
これからの時代が物質的豊かさから精神的豊かさへと進んでいるのであれば、日常には乗り越えるべき悲しみや苦しみが増えていくはずである。
言葉を字面通りに解釈していたのでは肉体が耐えられないような、認識を深めていかなければ乗り越えられないような、そんな社会を生きていく。
だから、ケアやセラピーはもはや身近なものであるべきという感覚のもとで、わたしは『ドライブ・マイ・カー』という作品が福祉的だと言いたかった。
ぜひ、みなさんの感想も聞かせてほしいです。
【追記】
noteから嬉しいお知らせが届きました。
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