『それいけ! アンパンマン』~自己犠牲とは~

 1988年~放送(日本)

 監督、永丘昭典 原作、やなせたかし

 顔があんパンでできたヒーロー、アンパンマンが、悪いことをするバイキンマンをやっつけたり、困っている人を助ける。

  日本人なら誰もが知っているであろう、国民的アニメ。
 子どものころから大好きだったが、大人の観点から作品への思うことを述べたい。
 主題歌の「なんのために生まれて なにをして生きるのか」という、歌詞には、どことなく悲哀が漂っている。

 アンパンマンは、ジャムおじさんとバタ子さんが、実験と研究を重ね続けて生まれた「命を持ったパン」だ。二人は、生み出すことばかりを考えてはいたが、その後、生まれてきたアンパンマンをどうするかまでは考えていなかった。アンパンマンは、実験の成果として生まれてきた時点で生きる意味を失っていたのだ。

 アンパンマンはいつでも笑っている。笑って自分の身を削る。
 動物たちはアンパンマンにたよるだけだ。頼られるアンパンマンの痛みなど考えたこともない。誰に理解されることもなく、それでもアンパンマンは笑顔で人々を助ける。アンパンマンと動物たちは、頼るものと頼られるものでしかない。いつまでも友達とはなりえないのだ。愛と勇気しか友達がいないなんてとか、子供たちにまでバカにされたとしても、アンパンマンはただ一人、みんなの夢のために自分を犠牲にしていくのだ。

 アンパンマンの痛みを理解できる人間は、同職であるカレーパンマンやしょくぱんまんだけとなるが、この二人も少し勝手が違う。カレーは、アンパンマンほど忠実に誠実に人々を救おうとしているわけではない。しょくぱんまんは出生が違う。

 人を殴るのが楽しいわけがない。誰だって嫌われたくない。殴っているアンパンマンの拳も痛いのだ。アンパンマンは自分の痛みを隠しながら、みんなの幸せを守るために戦うのだ。本当はバイキンマンとも争いたくはないのだ。
 劇場版の、『いのちの星のドーリィ』では、ドーリィちゃんを守るために、アンパンマンは自分の体を盾にする。ドーリィちゃんがいくら止めてもどこうとしない。ただ、黙って立ち尽くす。たまらず、「やめて」と泣くドーリィに振り返る。なんとその顔は笑顔だった。苦しくないわけじゃない。それでも笑うのは、ドーリィちゃんを心配させないためだ。罪悪感を与えないためだ。口でいろいろと偽善を誘うようなことも言わない。黙して語らず。どうして、そんな顔をしていられるのか。
 そしてアンパンマンは、自分より弱い相手には決して暴力を振るわない。その証拠に、ドキンちゃんを殴ることはない。

 ばいきんまんもいい男だ。ドキンちゃんの頼みでいやいや悪事をしたときも、黙ってアンパンマンに殴られている。ドキンちゃんを売り渡したりしない。自分がすべての罪を背負い、憎まれ役を演じるのだ。

 人を疑わないのがこの世界のルール。だから、アンパンマンはばいきんまんに何度騙されても、疑うことをしないのだ。疑うことを覚えたら、アンパンマンワールドは滅びるのだ。

「ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、そしてそのためにかならず自分も深く傷つくものです」(やなせたかし)

 アンパンマンを見て育った子供は、アンパンマン世界の道徳を吸収する。
 けれど、大人になるにつれて、それを忘れてはいまいか?
 アンパンマンの気持ちを、今も大切にできているか?
 そんなことを考えながら、再び見てみてもいいかもしれない。

 また、アンパンマンは、動画のクオリティがやたらと高い。
 アンパンマンが国民的アニメとなったのは、深いテーマと、作り手のこだわりのなせる技だろう。

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