大河

謎多き知将、明智光秀を再考する -2020年大河ドラマ「麒麟がくる」に向けてー

最近、何かと芸能ニュースで話題になってしまっている大河ドラマ。
今年は不運な撮り直しがあり、二週間遅れでの開始となっています。ただ私個人としては、今年の大河ドラマは、かなり面白くなるのではないかと期待しています。

なぜなら、あの明智光秀が主人公だからです。
言わずもがな、本能寺の変で天下統一を目前に控えた主君織田信長を暗殺し、多くの歴史の教科書で謀反人として紹介されている、あの織田家の家臣です。

時間があった年末年始。私は光秀に興味を持ち、専門書コーナーから良さそうな本を数冊立ち読みの上で購入し、情報をアップデートしました。この記事では、インプット情報を基に「このような観点で大河ドラマを見たら、面白くなるに違いない」という視点を提供する形で、明智光秀について紹介したいと思います。あまりに細かい人間関係やいわゆる派閥争いの様相については、分かり易さを重視して割愛することにしました。詳しくは、最後に紹介する良書をご参照下さい。
※なお、明智光秀の年齢は諸説あります。本記事では、1528年生まれ説を採用して年齢を記載することにしています。

画像1

【視点1】明智光秀は中途入社の鑑?-いかにして信長家臣団の中で出世を遂げたか?

 大河ドラマ前半は、社会人生活を始めて数年経った若者にとって、参考になるような予感がしています。なぜなら、明智光秀が歴史の表舞台に登場するのは41歳。
(信長が、室町幕府最後の将軍となった足利義昭の上洛を支援した際に、幕府側の仲介役として両者のパイプ役を果たします)
 人間50年と言われた当時のことを思えば、大器晩成型の部類に入ります。

 ちなみに光秀のそれまでの半生は、謎に包まれており、実父すら確定していません。史料を紐解くと、美濃の斎藤道三の下で下積み生活をしていたと伝えられています。(今回の大河ドラマでも、おそらくそのように描かれるようです)

画像2

 しばらくの間は、足利義昭と織田信長の両方から扶持(≒給料)を受ける状況が続きます。そしてどこかのタイミングで義昭を見限り、信長の下で働く覚悟を決めて家臣団の出世競争に参画することになるのです。織田家の中では、秀吉の出世が目立つ印象を受けますが、スピードという意味で光秀は他の武将に類を見ない速さで出世を遂げます。具体的には、44歳で近江志賀群を与えられ、坂本城の築城に着手し始めます。

(少し補足すると、主君から城を与えられることと、一国一城の主となることは若干異なるようです。前者の場合、城主ではあるものの、領国経営には別の担当者が付くことが一般的なようです。一国一城の主は、主君に忠誠を誓い、領土拡大に向けた軍事力の提供に加えて、領国経営でその手腕を発揮しなければなりません。そのため、信長に知り合ってから僅か3年で、領地を与えられ、また自城を持つに至った光秀は、能力もあり、また信頼も篤かったとみて間違いないでしょう)

 また、本能寺の変のイメージが強く、光秀に対してはネガティブな印象を抱く人が多いとは思いますが、人間光秀は妻子へのきめ細やかな気遣いがあり、家臣団に対しても優しく、領民に対して一部税免除をする等、思い遣りに溢れた人物であったようです。

 加えて、和歌や茶の湯など当時の文化人が持つべき教養を備えており、朝廷側の窓口役を担うのにも適任でもありました。築城の技術も高く、いわば知将としての類を見ない秀才ぶりを発揮していたことが史料から窺い知ることができます。

画像3

 現代の私たちに置き換えると、明智光秀は、当時の武将が持っておくべきベースのスキルがあり(領国経営や築城、家臣団の統制や戦略立案等)、加えて他の武将と差別化できるセールスポイントとして、室町幕府や朝廷との折衝を有利に進めるためのソフトスキル(文化的な教養や、連歌会等のサロンで築いた公家や文化人との人脈等)を備えていました。光秀はそれらのスキルを、天下統一事業に邁進する織田信長の下で余すところなく発揮していくことになるのです。

 信長家臣団の中で、光秀がどのように出世をしていくのか?それをどのように大河ドラマが描くのか?この視点で見ると、前半はかなり面白いのではないかと睨んでいます。まだ私に転職経験はありませんが、光秀の華麗なる出世は「中途入社の希望の星」といえるのかもしれません。

【視点2】部下から見たワンマン上司の実像とは?-文武両道、知略に長けた明智光秀から見た織田信長はどのように描かれるか?

 ルイス・フロイスの『日本史』によれば、織田信長はこのように評されています。

非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。彼はわずかしか、またはほとんどまったく家臣の忠言には従わず、一同からきわめて畏敬されていた

 また、同じくフロイスの『日本史』では、信長が自らを神格化していることに対して辛辣な眼差しを向けています。

彼はもはや、自らを日本の絶対君主と称し、諸国でそのように処遇されることだけに満足せず、(中略)、自らが単に地上の死すべき人間としてでなく、あたかも神的生命を有し、不滅の主であるかのように、万人から礼拝されることを希望した。そしてこの冒涜的な欲望を実現すべく、自邸に近く城から離れた円い山の上に一寺を建立することを命じ、(以下略)

画像4

ルイス・フロイス像

 他にも数々の史料が、信長の気性の激しさや徹底した能力主義ゆえの厳しさを語っており、それらが歴代の大河ドラマやその他の歴史物で描かれる信長像に重なります。信長は、意図を汲み取ることが難しく、また失敗が許容されない点で、部下としては上司にしたくない人間と言えるでしょう。

 ただ、先ほど視点1でも言及したように、光秀はそんな扱いにくい信長に才覚を認められ出世します。

 では、どこまで光秀は信長の天下統一事業に共感し、手足となって奔走したのでしょうか。この点は研究者により見解が異なりますが、本能寺の変関連の研究をリードしてきた藤田達夫氏によると、光秀は信長の意図を理解し、忠実に任務を遂行したのではないかと見ています。

 藤田氏は、信長の施策に見られる特徴を、預治思想という言葉で説明しています。大河ドラマでは描かれないとは思うものの、信長の一連の動きを理解する上で非常に重要な点なので、まとめておきます。

〇預治(よち)思想とは?
【背景】
 中世社会においては、将軍や守護・戦国大名とその土地の国人・土豪との間には、所領安堵と軍役奉仕いわゆる「御恩と奉公」と呼ばれる双務的な契約が結ばれていた。これにより、日本全土の土地の多くが、国人・土豪の私有地として認められ続けていた。この慣行は、彼らにとって友好的であった一方、それが原因で境界紛争が頻発することにもなる。包囲網を形成した足利義昭との戦争を通じて、信長はそのように悟るに至った。
【内容】
 将軍に成り代わるだけでは、伝統的な統治構造は打破できない。そこで、統治権を「天」から預けられたものだと主張する。この思想の下、戦国大名・守護大名を、先祖伝来の本領を一所懸命に守る在地領主から、公領を預かる官僚的領主へと質的に強制転換できるような制度の構築を目指した。
【後世への影響】
 太閤検地による近世知行制度の成立に繋がり、さらに江戸幕府の幕藩体制に通ずる思想的なバックグラウンドとなった。

 既得権益を恐れず、戦争のない新たな秩序を作りたい。そんなビジョナリーな主君を、光秀は、自分の管轄地域である畿内を足掛かりに、支えていくのです。

 志の高い信長に対する憧れと畏れ。光秀は相反する感情を胸の内に共存させながら、時代の歯車を徐々に本能寺の変へと向けていきます。ある意味、光秀は信長の下で、天下統一事業の酸いも甘いも嚙み分けたと言えるでしょう。彼の視点から描かれる信長像は、その善し悪しどちらの面においても、格別の説得力を持つのではと思わざるを得ません。

画像5

【視点3】本能寺の変に至る明智光秀の逡巡とは?-主君殺しを果たすまでの光秀の心理描写は一体どのように描かれるのか?

 戦国ドラマで幾度となく描写され、また歴史雑誌で「日本史最大のミステリー」とも評される本能寺の変。光秀の謀反に至る動機は、いまだ謎に包まれており『別冊歴史読本』完全検証信長襲殺では、50説に分類されています(もう少し、絞れるような気がしますが…)

 分類の詳細は、同書に譲りますが、大別すると3つに分かれるようです。

 1.光秀単独犯説
 2.主犯存在説・黒幕存在説
 3.その他関連諸説

 単独犯説の中には、光秀の心情や思想に関する様々な説が連なります。(野望説、怨恨説、不安説といった光秀の心情に着目するもの。あるいは、暴君討伐説や源平交替説といった光秀の出自や置かれた立場から抱きそうな思想に着目するもの等)

 人間は、様々な感情を同時に抱きます。また、論理を超えた感情で動くこともあるため、50ある説を複合的に組み合わせたうちのどれかが、光秀の実際の心情であったものと思われます。近年、学際的な研究も盛んにおこなわれているようで、医師・医学士が唱える光秀ノイローゼ説もなかなか興味深いです。ある研究では、光秀を「抑うつ型精神病質人」的な性格の人物だと捉えて、本能寺に至る光秀の心理描写をこのようにまとめています。

※注:信長から毛利攻めをしている秀吉の応援に行くよう命ぜられたことを受けて
「日夜懊悩し、心が乱れてくると、このような命令を出した信長さえも恨めしくなってくる。いろいろと過去のことが思い出されて今までの信長の仕打ちが胸にせまってくる。戦国武将としての天下取りの野望も頭をもちあげてくる。いろいろな妄想が走馬灯のように光秀の頭をかすめて行く。このような心境は、性格の弱い、抑鬱性のものが大きな精神的ショックを受けた時経験するものであって、正常人が単なる空想や想像では推量し得ぬ複雑なものがあったと想像される。」

 また、最近の流行りは、信長の対四国政策(長曾我部氏)が急変したことを受けて、光秀の織田家における立場が危うくなったことに理由を求める説が説得力を持って語られ始めています。

 経緯は長くなるため割愛しますが、それまでいわゆる外交的なアプローチをとっていた対四国政策が、強硬策へ転換されることで、光秀は長曾我部氏敗北のシナリオを危惧するようになります。(光秀は長曾我部氏との関係構築を粛々と進めていました)
 そのシナリオにおいて光秀の念頭にあったのは、大規模な国替えです。中国・四国地方の戦闘が落ち着いた後に予期される大規模な国替によって、光秀は、縁もゆかりもない土地への国替えを命ぜられる可能性が高かったようです。そうなると出世競争からは完全に脱落することになります。

 少し極端な言い方をすれば、信長の場当たり的な領土拡大政策によって、光秀は梯子を外されてしまったのです。もっと言えば、信長によって裏切られたのです。

 大河ドラマのクライマックスに相当する本能寺の変。そこに至るまでに、光秀に去来するものは一体何なのか?これまでの大河とは比べ物にならないほど社会的・精神的に追い込まれていく主人公光秀。彼の描かれ方には、ぜひ注目していきたいと思っています。

画像6

昨年夏に訪れた本能寺跡。現在の寺町通は秀吉を中心にして再建されたもので、事件の跡地はもう少し南西の方角にあります。

4.最後に

 明智光秀に関する書籍を読む中で、改めて歴史も学び直しを何度かしなければならないと思いました。結局、学校教育で学ぶ歴史には限界があります。多様な資料・史料を用いた多面的な解釈を知る機会は、自ら作り出すしかないのでしょう。その点で、本能寺の変は論者の数だけ犯行の動機の解釈があり、その根底には論者毎の人間観や社会観、ないしは世界観が垣間見れます。

 また、本能寺の変に限って言えば、私たちは学校教育では基本的に勝者の歴史を学んでいるのだとも思い知らされました。いわゆる逆臣光秀像は、明治時代以降の軍国主義の最中で確立されたものだ、という見解がありました。その見解によれば、アジア諸国への侵略戦争が続き、軍部が権勢をふるった戦前において、ヨーロッパの最新兵器・鉄砲を用いて天下統一を目指した織田信長は、時代を象徴する英雄として認識されるようになり、彼を謀殺した光秀は逆賊の汚名を冠することになったのだとか。

 では、現代を生きる私たちは、今の価値観で光秀を見直した場合に、一体どのような光秀像が浮かび上がらせることができるのだろうか?そんな答えのない問いを立てて、あれこれと考えるきっかけを提供できたのであれば、この記事も少しは意味があったのではないかと思っています。

参考文献
『明智光秀・秀満 ときハ今あめが下しる五月哉』(小和田哲男著)
『明智光秀伝 本能寺の変に至る派閥力学』(藤田達夫著)
『証言本能寺の変』(藤田達夫著)
「本能寺の変学説&推理提唱検索」(『別冊歴史読本』54完全検証信長襲殺)

大学院での一番の学びは「立ち止まる勇気」。変化の多い世の中だからこそ、変わらぬものを見通せる透徹さを身に着けたいものです。気付きの多い記事が書けるよう頑張ります。