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もし「最終講義」をする機会をもらったら何を話しますか?

2021年3月27日(土)

私にしては珍しく、土曜午前中からPCを立ち上げて画面を凝視していました。本日は大学院時代にゼミでお世話になった恩師二人が、東大教授の任を終える門出の日だったからです。

大学1年目を終えた春。キャンパスのあちこちで「〇〇教授最終講義」と書かれた立て看板を初めて見て以来、最終講義という言葉の持つ魔力に魅了されていました。そして、自分も恩師と言える教授の最終講義を受けてみたい、またチャンスがあれば自分も最終講義をやってみたいという二つの気持ちを抱いていました。

今日は、最初の希望がようやく叶う日でした。(昨今の情勢を鑑み、残念ながらキャンパスに赴くことは叶いませんでしたが…)

(上記リンクが今年度の最終講義一覧です。私は法学政治学研究科の両教授のゼミ生であったため、午前と午後に一講義ずつ受講しました。)

ここからは、待ちに待った最終講義を二つも受講した上での雑感です。講義の中身は密度が濃く(また、私のメモが追い付いていないため)、印象に残ったことを中心に書いていきます。

1. 「実務と理論」-小原雅博教授

ゼミ1期生として参加、その後TA(Teaching Assistant)を務め、大学院修了後も勉強会にお邪魔したり、新著を読んだりと継続的な付き合いのあるのが小原教授です。キャリア外交官として上海総領事まで務められた後、東大法学政治学研究科に来られた経歴もあってか、これまでの外交実務の経験を学術面でどのように一般化/概念化していくか、ということが一貫した研究テーマでした。

最終講義は、トルストイ(『戦争と平和』)やカール・マルクス、クラウゼヴィッツ(『戦争論』)やキッシンジャー(『外交』、リップマン(『世論』)やニコルソン(『外交』)等、様々な著述家・研究者の発言を引き合いに教授自身のテーマである理論と実務のあるべき関係を探っていく軌跡をたどる構成となっていました。

一般に私たちは「理論と実践」あるいは「理論と実務」といった順序、すなわち然るべき筋道/方法があり、その上で行動に移すという流れで両者を捉えているように思います。

しかし、最終講義のタイトルは「実務と理論」と逆向きです。これは教授自身の軌跡が、外交実務を経て理論的な整理・分析を試みているということや、実務家教授であるがゆえに国際情勢・国際秩序研究から出せる示唆があるという矜持のようにも見えました。(実際、教授にメールで確認したところ、そのような狙いがあってこのタイトルとしたようです)

研究者と実務家の最大の違いは何か。それは時間的な制約の有無であると。すなわち、実務家は限られた時間の中でBetterな解に辿り着くことが期待される一方、研究者は許す限り時間を使いCriticalに不断に検証することができ、また期待されています。

両者は異なる困難さに直面しているとも言えます。つまり、結果を出すことが何より大切であるのが実務家である一方、研究者はあるべき姿や普遍的に通用する教訓を導出しなければなりません。

卒業生の大半は、ビジネスか政策立案実務(霞が関)を当面の生業としますが、事業の成り行き、あるいは政策の効果には、偶然の産物によってもたらされる幸不幸がつきものです。そのような現実を前に、私たちはつい、原因の究明を疎かにしがちです。

小原教授の最終講義は、自身のキャリアの歩みに重ねながら、実践と検証の不断のループを回し続けることを、卒業生に対して提案していたように思います。ただ、ここが不思議なもので締めの言葉は「人間万事塞翁が馬」。巡り合わせによって左右される面も少なからず人生にはあるのだと、含みを持たせていました。教授自身もまだ実務と理論のいい塩梅を模索している途上ということなのでしょう。

※今の日本が置かれている歴史的・地政学的な立ち位置を国益(National Interest)をキーワードに紐解いている著作です。博士論文の内容を咀嚼し、一般大衆向けに平易に記述しており、読み応えは十分でした。

2. 「共和党の過去と現在を考える」―久保文明教授

午後はアメリカ政治学者の久保文明教授。慶應・東大の両大学で教鞭をとっており、ゼミ卒業生はかなり多く、かつ慶應卒側は経歴も華やかです。(東大側は、官僚か弁護士か大企業が大半で面白くないと、教授自らよく毒を吐いていました)

久保教授は、いつもと変わらぬ調子で5分に1回はブラックジョークや皮肉を挟みながら、講義をされていました。講義内容の大半は、近著であるこちらをベースに組み立てられているようです。

私を含む日本人の多くは、世俗的でリベラルな民主党(Democratic Party)に政策の基本スタンスや標榜している価値観の共感しがちです。そして、共和党(Republican Party)がなぜ米国で二大政党の一翼を担い、支持を集めているのか理解に苦しむのだと思います。

しかし、歴史を振り返ると現在の共和党に至るまでには、かなりの紆余曲折がみられます。一例を挙げるとゲティスバーグ演説を行い奴隷解放を謳ったリンカーン大統領は共和党出身の大統領です。その当時、民主党は奴隷制維持を党是としており、現在と真逆の印象を受けます。

また、私たち日本人の多くが接するアメリカ人は、東海岸や西海岸出身のリベラルな人々で占められている一方、アメリカ全土に目を向けると、その人口の半数近くは高卒以下であったり一次・二次産業の労働者階級であったりします。

2016年の大統領選挙でトランプ氏は、グローバル化・デジタル化の中で取り残された(Left Behind)と感じている人々の心を掴んだことは記憶に新しいでしょう。本来、リベラルを標榜する民主党こそが、社会的弱者に寄り添うものという印象を受けますが、そんなに簡単な構図では語れないところに、アメリカ国内政治の意外さと面白さがあります。

(アメリカ政治の定番書。読み物としてかなり面白いですが、どう面白いかというと、自分がアメリカについて知らなかったということを再認識させられるからです)

久保教授は、毎授業の冒頭や上にあげた本の巻頭(はじめに)で「アメリカという国は、分かっているようでわかっていない」と問題提起をします。確かに、日本でもアメリカ発で定着したものに溢れ(マクドナルドやスターバックス、コカ・コーラやディズニーetc...)、日米同盟は戦後日本を形作るかけがえのないピースであり続け、授業で習う英語はアメリカアクセントを基本としています。

地理的には離れているものの、非常に身近な国であるように感じるアメリカも、考察対象としてみるとむしろかなり偏ったサンプル情報しか日本国内には届いていないということです。

久保教授の最終講義は、敢えて馴染みの薄い共和党の過去と現在を振り返ることを通して、アメリカ合衆国という国を「知ったつもりでいる」ことを改めて戒めていたように思いました。

皮肉屋でありながら、語り口は柔らかで紳士的。キャラクターも含めて魅力に溢れた教授であることを再確認させられた最終講義でした。

3. あなたは「最終講義」の機会をもらえたら何を話したいですか?

現時点で答えを持っていなくて当然だと思います。今回二人の恩師の門出を見守る中で、自分も何かライフワークとして取り組む課題を持たねばと思った次第です。

もっとも、両教授とも初めから最終講義で念頭に置いていた問題意識を抱いていたわけではないと思います。長年の思索、あるいは実務経験の蓄積が、自然と二人を各々のライフワークへと導いていったのでしょう。

いきなり降ってくるかもしれないし、熟慮に熟慮を重ねた末に、ようやく捻りだせるものなのかもしれない。いずれにしても、現状に満足し、留まっていては何も始まらないし変わらないのだろう、という思いを新たにしたところでした。

年度末の慌ただしい時期ではありますが、立ち止まって何かを考えるいい機会を貰えた気がします。そんな人生最初の最終講義受講体験でした。

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