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僕が遭遇したサイクリングでのトラブルの話 (昔話です): その1

 サイクルスポーツをはじめると,最初は分からないことだらけですから,サイクリング中には様々なトラブルに遭遇するものです.そして少しずつ経験を積んで,それらをクリアする術を学び,対処ができるようになってきます.私ももちろんそうでした.
 このnoteでは,もう30年以上前の昔話になりますが,私が自転車をはじめたばかりの頃(中学・高校時代)に遭遇した,サイクリング中のトラブルの数々を紹介したいと思います.
 いまではあり得ないようなトラブルばかりですが (笑),興味のある方はご覧ください.

1.高尾山でハンガーノックになった話

 僕が自転車をはじめたキッカケと初めてサイクリングをした日のことは,以前下記のnoteに書いた.


 その後,しばらく湘南・江ノ島など,近場のサイクリングを楽しんだ.
そして,初めての遠出として東京の高尾山(599m)に行ってみようと思った.
 1986年の夏,13才のときの話である.
 当時はアメリカから日本にMTB文化が紹介され,BridgestoneやARAYAが最初のMTBの発売を開始したばかりの頃であった.
 僕はロードレーサーに憧れるロードマン乗りであったが,登山を含むようなサイクリングやシクロクロス的な走りにも興味があった.
 昔から,ランドナーを担いで富士山に登るのは,山岳系サイクリストの憧れであり,ひとつの目標となっていた (注:今はもちろん出来ない).

ランドナーを担いでの富士登山(サイクルスポーツ誌 1976年10月号より)


 小学生のときに父に連れられて,高尾山から城山,相模湖へとハイキングに行ったことがあった.富士山は絶対に無理だけれども,高尾山くらいなら自分でも登れるんじゃないかと思ったのだ

 それまでの近場のサイクリングでは水の入ったボトルを持っていくだけで,お金を持って行ったことがなかった.
 今回は初めての遠出なのでおこずかいを持っていくことにした.
 しかし,いくらぐらい持って行ったらよいのか,見当がつかない.
とりあえず500円あればジュースを2回飲んで,菓子パンを3個買えるだろうと思って,500円を小銭入れにいれて行くことにした

 僕が計画した高尾山コースのルートは上の通り.
 往復約100kmのコースである.
    乗るのは4月に買ったばかりのブリジストンのロードマンだ.

 行きは宮ヶ瀬経由で行った.清川村の宮ヶ瀬集落(今はダムの宮ヶ瀬湖に沈んでいる)は集団移転が済んだばかりの頃で静かなゴーストタウンのような感じだったが,電気はまだ通っていて,宮ヶ瀬小学校前の落合商店の自動販売機が稼働していた.

宮ヶ瀬ダムができる前の宮ヶ瀬小学校前交差点の様子
宮ヶ瀬湖「水とエネルギー館」の写真から
https://www.miyagase.or.jp/publics/index/51/

 上の写真のコカコーラの自販機で250mlのポカリスェットを100円で買って飲んだことを覚えている.残りは400円だ.
 ちなみに,湖畔の新しい道はまだできていなかったので,宮ヶ瀬集落が集団移転後も数年ほどの間はそのまま旧集落の道を走ることができた.
 このときは上の写真の交差点を右折して高尾山に向かったが,直進すれば裏ヤビツである(まだ未舗装の時代). ここの道路情報の電光掲示板は,いつ行ってもこの先が「悪路」であることを警告していて,魔界への入口であるかのような雰囲気を醸し出していた.

 昼前に相模湖に到着した.
 お腹が空いたので相模湖駅前の商店でパンを買うことした.
 商店の前で自転車に鍵をかけていると,店主と思われるオジサンが出てきて,突然叱られてしまった.店の前に勝手に駐輪して電車に乗る人が多いらしく,「また来た」と思われたようだった.
 僕は自分が客であることを告げると,オジサンはバツが悪そうに店に戻って行った.
 なんだか気分が悪くなったが,他に店もないので,ここで菓子パンを2個買って食べた.200円で済ませる予定であったが,意外と高くて250円も掛かってしまった.これでお金は残り150円となった.
 このとき,宮ヶ瀬で何も考えずに自販機でポカリを買ってしまったことを後悔した.飲み物ならボトルの水を飲めばよかったのだ.

 ここからは甲州街道(国道20号線)を東に向かった.大垂水峠である.
 自分にとっては,最初に走った半原越え以来の本格的な峠道であった.
ここまで40kmほど走ってきた疲労もあり,坂道に入った途端に一番軽いギヤでも登れなくなってしまい.押して歩くことにした.
 当時の大垂水峠はオートバイのローリング族の聖地になっており,バイクが高速で駆け抜けていくその横を,僕はとぼとぼとロードマンを押して歩いた.

緑色が登った登山道,距離は約2km

 大垂水峠を少し越えたところから登山道に入った.
 いよいよここからが本格的な山道なのだ.
 しかし,僕はすでに疲れ果ててしまっていて,出発前のような高揚感はなかった.ここから先は押して歩くこともできず,14kgあるロードマンを担いだ.
 もはや,それはサイクリングでもなんでもない.ただ,自転車という重い荷物を背負って山道を登っているだけであった.
 でも,引き返そうとは思わなかった.
 絶対に高尾山の山頂まで登りたいと思った.

 登山道ですれ違う人たちは,僕が自転車を担いでいるのを見て驚いた様子であった.そして,多くの人が僕に「頑張って!」と声をかけてくれた.
(注: いまの高尾山は自転車では登れません)
 しかしこのころ,相模湖で食べたパンのエネルギーはすでに消え,途中で急にお腹が空いてきた.
そして,突然力が出なくなって,頭もクラクラしてきたのだ.
いまなら知っている「ハンガーノック」の症状だ.
でも,当時はそんなことは知る由もなかった.

フラフラになってきたが,今更引き返すわけにもいかない.
それに,仮に山から降りたところで,所持金はあと150円しかない.
今現在も苦しい状態なのだが,帰り道のことも心配だった.

何かを食べたいが,何もない.
山ぶどうでも野いちごでも山菜でも,なんでもいいから,とにかく何かを食べたい.周囲を見回しながら登ったが,食べられそうなものは見つからなかった.

 なんとか耐えながら休み休み登り,山頂まであともう少しというところまで来た時,すれ違った家族連れから「頑張って」と声をかけられた.
そして突然「おにぎり,食べませんか?」と差し出された.

多分,僕がフラフラになっているのが分かったのだろう.
こうなったのは自分の責任だ.
申し訳なさすぎて「いや,大丈夫です.どうもありがとうございます」と返した.しかし,向こうはどうしても食べて欲しいという.
相手:「食べてください」
僕:「いや本当に大丈夫ですから (本当はものすごく食べたい)」
こんなやりとりを何度かしたのち,
相手:「いや,うちも作りすぎて,食べ残ってしまって困っているのです.このまま持ち帰っても仕方がないし,貰っていただけるとありがたいのですが...」
僕:「そうですか,それなら頂きます.本当にありがとうございます!」

 僕はおにぎりを3つ貰って,山頂に到着し,それを食べた.
 やっと山頂に着いたことよりも,おにぎりを食べられたことの方が何倍も嬉しかった.
 山頂からは高尾方面に降りたが,担ぐような場所は少なく,比較的簡単に下山することができた.その後は国道16号線を経由して自宅まで帰った.
 僕はこのときのサイクリングで,

  •  お金は500円では全然足りないこと

  •  山には食べ物を持っていくこと

を学んだのであった.

 僕のこれまでの人生の中で最もおいしかったものは,いまでも,あのとき頂いた「高尾山で食べたおにぎり」なのです.


2.相模原で遭難したときの話

 僕は地図を見るのが好きだ.
 地図はパソコン上のデジタルマップよりも印刷されたものの方が大縮尺のときの情報量が多くて便利だ.今でも,GoogleMapよりも昭文社のMappleを眺めながらサイクリングのコースを検討することが多い.
 昔はGoogleストリートビューがなかったから,地図を眺めながら,
「どんなところなんだろう? どんな景色なんだろう?」
と想像を掻き立てられることが多く,それもまた楽しかった.

1987年14才のころ,以前から地図上で気になっていた場所に行ってみることにした.神奈川県愛川町と津久井町の境界にある「三増峠」である.

人文社 神奈川県広域道路地図 1983年 改訂4版より

 地図で見ると,三増峠を越える道にはバツ印がついている.
 地図記号的には「車輌通行困難部」だ.
 通行困難とはどういうことなのか?
 ここが一体どうなっているのか? を知りたかった.
 道はあるけれども,何かの障害物があって車は通れない
でも人や自転車くらいなら通れる...とか,そんなイメージをしていた.

 この頃,行く前に地図を何度も見るものだから,曲がり角やルートの特徴をそのうち自然に覚えてしまい,はじめての場所でも地図は持たずに,地図で見た自分の記憶だけを頼りにして走りに行くことが多くなっていた.
この三増峠の時もそうだった.

 地図上で道が点線となる場所まで来ると,そこは単に行き止まりになっているだけで,自分の想像とはだいぶ違っていた
(ちなみに,ここには現在,三増トンネルができている)
 脇から登山道があり,「三増峠」という矢印があったので,自転車を担いで登ってみることにした.峠には10分かそこらですぐにつくことができた.

 峠に着くと,そこには未舗装の林道があった.おそらくこれは地図で見た小倉山林道のはずで,これをまっすぐ走ればそのまま相模川の右岸に出るはずだと思い,林道を東に走ることにした.
 途中から林道が工事中で,通行禁止のような雰囲気であったが,構わず進んだ.工事のオジサンたちからは何も注意されなかった.

 工事区間が終わると,今度は森林の伐採作業をしている場所に出て,道がなくなってしまった.自分の記憶では林道が相模川の右岸までつながっているハズなのだが...
 林道は見つからないが,伐採のための作業道が山の中に続いていたので.こっちに違いないと思い,そのまま自転車を押して進んだ.
 伐採作業の人たちがたくさんいた.こんなところを中学生が自転車を押して歩くなんて明らかにオカシイのだが,作業中の人たちは僕の存在には気がつかない様子で,やはり誰からも何も注意はされなかった.
 
 しばらくすると簡易的な作業道も無くなって.ただの山の中になってしまった.いまさら来た道を戻るのも面倒だ.
 地図が無いから今の自分の位置はわからないが,地形的には目の前の斜面を下りればそのうち沢になり,いずれは相模川までたどり着くはずだ.
そのときには,必ず川沿いの県道に出ることになる.
つまりこのまま谷を降りていけばいいだけなのだ.
楽勝じゃん...俺って頭いい (笑)
   ( …とこのときは思っていた)

 山の斜面を下っていくと,岩と礫がゴロゴロしている水の流れる沢に出た.そこを自転車を担いで歩いた.
 だんだん,ヤバそうな雰囲気になってきていることを感じていた.
 自分の身ひとつなら簡単に歩ける様な岩の上でも,自転車があるせいで,とても時間がかかるのである.
それでも自転車をここに置いていく訳にはいかない.

 はじめは水に濡れない様に注意していたが,そんなことは言っていられなくなり,すぐに沢の中をジャブジャブと歩くようになっていた.
 いつまでたっても相模川に辿り着かず,それどころか,沢はますますその様相が激しくなっていった.
 小さな滝が何回もあり,自転車だけ先にそっとおろして,そのあと,自分が降りるようなことを繰り返した.
 沢に下りてから,すでに1時間以上が経過していた.
 このとき,僕は生まれて初めて,自分の死を意識した.
 そして,絶対に生きて帰りたいと思った.
 もちろん,自転車と共にだ
 客観的に見たら,これは要するに遭難である.
 僕の家族は,まさか僕がこんなところでこんな事態になっているとは思いもしないだろう(そもそも,もうこの頃は家族には行き先を告げずにサイクリングに行っていることの方が多かった).

 渓流釣りに来る人がいるらしく,焚き火の跡が見つかった.人が来ている痕跡が見つかって,ほんの少しだけホッとしたが,それは今の自分にとっては何の解決にもならなかった.

 自転車を担ぎながら休み休み,少しずつ沢をくだった.
 しばらくすると落差5mくらいの大きな堰堤が現れた.ここは脇にある急傾斜の藪をまいて降りるしかなかった.右手で自転車を抱えて,左手で斜面の木の枝を掴みながら慎重に下りた.自転車は薮や枝に引っかかるし,何度も滑り落ちそうになるしで,とても怖かった.
 このとき,持ってきていたウォークマンのヘッドフォンがどこかに引っかかったようで,無くしてしまった.しかし,そんなことはもうどうでもよかった.とにかく生きて帰りたかった.
 同じようなコンクリートの堰堤を3カ所くらいまいて,しばらくたつと,沢はゆるやかになって地形もひらけてきた.
 そして道路の橋の下にたどり着くことができた.
 ここから道路に上がって住宅地を少し走り,ほぼ想像していた通りの相模川右岸の県道に出ることができた.

 このとき僕は思った
 「オレ… 生きてる!!

(実は弱虫ペダルの真波山岳は,高校の一人自転車部時代から箱根の国道1号をホームとし,2009年からカンパ仕様の白いLOOK595に乗る,僕がモデルなのだ...冗談です(笑) 
でも,このときは 本当に "生きてる" ことを実感したのであった)

 とにかく,自分は助かったんだと,とてもホッとした
 恐怖感と安心感がごちゃ混ぜになり,県道を厚木方面に向かって走りながら僕はいつまでも胸のドキドキが止まらなかった.


1/25000,上溝,昭和59年

 帰宅してから地図を見ると,どうやら僕は,相模野ゴルフ場の北側の小倉山林道のどこかから谷に迷い込み,そのまま下倉川を下った様であった.
 僕はこのときのサイクリングで,

  •  山で迷ったら谷を降りてはいけない

  •  引き返す勇気も必要

ということを学んだのであった.


 ちなみに,僕が下倉川でプチ遭難をした数年後(つまりバブル期),下倉川の谷は不法投棄された大量の産廃残土により埋め立てられてしまい,行政もそれを放置するという大問題の場所となった.
 現在その埋立地はメガソーラーの太陽光発電所となっており,その下には圏央道の小倉山トンネルが通っている.
 僕は今でも,自動車で帰省をして圏央道の小倉山トンネルを通るたびに,14才のときに格闘したあの沢のことと「オレ… 生きてる!!」と感じたあの瞬間を鮮明に思い出すのです.

現在の下倉川の様子(GoogleMapより)



手短にまとめるつもりが,2件の話だけで意外と長くなってしまった (笑).
トラブルの話はまだたくさんあるので,続きはまた後で書こうと思う.


「その2」に続きます


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