キリスト教の理想と森田療法の「あるがまま」
森田療法の森田正馬は、どちらかと言うと、キリスト教に批判的だった。それはもしかすると、キリスト教の求めてくる「理想」が高すぎて、人間を苦しめると思ったのかもしれない。
でも私は、人間を苦しめるのは「理想」ではないと思うようになった。絶対に届かないからこそ、「理想」だからだ。
それは、「努力すればなんとか到達できる」ということではなく、いくら探しても、自分の中に「理想のカケラもない」ということだ。だからこそ私は、弱さを繕うことをやめた。弱いままで神の前に座る。それが私の「あるがまま」だ。
★追記★
森田療法の専門家の方に読んでいただき、「森田先生は、そこまでキリスト教に批判的ではなかったと思う」という指摘をいただきました。確かにそのように思える文章がいくつかあったことを思い出しました。
森田先生が、対人恐怖でクリスチャンだった学生の患者を治療した時のやりとりが残っています。その中で、印象に残った言葉を一つ抜粋します。
(この患者は、進路のことで父親と対立していました。父親に感謝する心と反発する心の葛藤、対立していながら父親に養ってもらっていることの罪悪感などを抱え、
「私は、物質では貧民でもよいが、頭では富豪になりたい」と書いたことへのコメントとして↓)
「頭の…心の貧しきものは幸いなり」
「心の貧しい者は幸いです」(マタイの福音書5章3節)は、有名なキリストの言葉です。
前に読んだ説教によると、心の貧しい者=心の乞食というようなニュアンスだそうです。自分の心の貧しさを認めて、乞食のように神の前に座る者は、神と共にいることになるので、幸いだということです。
森田先生がこの聖句をどのように解釈してこの患者に応答したのかは断定できませんが、もしかすると、自分の心の貧しさを認めることが「あるがまま」なんだと伝えたかったのかもしれません。
参考文献:「対人恐怖の治し方」森田正馬 白揚社
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