心の病

  心の病
 
 私と、十三年前に逝った父には心の病がある。
 
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 私と父の実家は呉服商で、祖母がどんどん商いを大きくしていった。中学生の時に、祖母が中心になり八階建てのビルを建てた。
 父は一九二八年、高松市花園町に四人きょうだいの長男として生まれた。高松中学校(現高松高等学校)に進学したが、団体行動や人付き合いがうまくいかず孤独だったと聞いている。高校中学の同級生の話によると、二十歳頃から言動が変わり始め、他人の視線を避けるようになった。
 祖母の勧めもあり一九四七年、父は卒業後、自宅で働き始めた。働き始めてから何年もたち仕事に慣れてきた頃、集金した売掛金を落とすなどのミスが続き、気持ちを塞ぐ日が多くなったとのことだ。その頃から父は岡山市にある神道系新興宗教の黒住(くろずみ)教を信仰するようになった。
 母は一九三三年、塩江村(現高松市塩江町)内場池のほとりで林業を営む資産家の家に生まれた。七人きょうだいの次女である。家は母の父が、町長を務めたほどの名家で、母も高松高等学校を優秀な成績で卒業している。
 父が二十九歳、母が二十四歳のとき見合い結婚をした。皇族も宿泊する設備を整えた高松国際ホテルの大きな一室で、披露宴前に両家の大勢の親戚が並んで向かい合って座っている写真が残っている。
 貝原益軒の『女大学』で『三年子なきは去る』というのがある。結婚届を出すと戸籍に傷がつくからかもしれない。父母も結婚式を挙げた後、妊娠が分かってから婚姻届を出している。このとき生まれたのが私である。一九五九年二月二七日の夜だった。
 翌年の十月に弟が生まれた。この弟が物心つくころには、父の病状はかなり悪くなっていたようだ。
 以前、叔母が小声で私に教えてくれたことがある。
「あんたのお母ちゃんは『お父さんが一時的に悪くなっても、そのうちに良くなるだろう』と思っていたようよ」
 しかし、それは母の見込み違いだった。
 一九六七年、父は叔父や精神科病院から来た男たちに囲まれて、嫌がるのを無理に病院の閉鎖病棟に連れていかれた。統合失調症と診断された。三十九歳だった。

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 精神障害のため日常生活や社会生活にハンディキャップを持つ者に、精神障害者保健福祉手帳というものが交付される。3級が一番軽く、1級が一番重いものだ。父は統合失調症患者として1級の手帳を持っていた。私は現在、双極性障害患者で、2級の手帳を持っている。   
 父母のどちらかが重い精神病の場合、子どもが何らかの精神病を発症する率が高いことは、一九二〇年ごろ、ドイツのクレペリンが指摘している。
 重い精神病は、神経をすり減らす芸術家がかかる率が高いとか、遺伝性のものとか、人によって違う。なお、うつ病は心の風邪といわれるが、比較的軽い適応障害をうつ病と診断している場合が多いようだ。重い場合は、心の骨折というべきだと書かれている本もある。
 精神科病院に入院して良くなり、祖母の意向もあって自宅で療養した。当時の薬は、だるさや体の震えなど、副作用が大きかったせいもあり、父は家では薬を全く飲まなかった。叔父も、
「心の病は薬では治らんわ。気合いで治すんや」と言っていた。
 入院しているとタバコの本数や喫煙場所を制限されるが、家では入院前同様、スパスパ吸い、落とした灰で畳を焦がすことがあった。黒住教の教祖の和歌をつぶやきながら大学ノートに書いていた。独り言を繰り返し、何でもないことで怒鳴った。
 父は入退院を繰り返しながら、通算三十年ほど閉鎖病棟で暮らすことになる。
 父母の寝室は、一晩中明かりがつきタバコの煙でもうもうとなる。母が、逃げて別室で寝ていると、祖母が来て、
「夫婦やのに一緒に寝まい」と怒り、何度も念を押した。
「主人の病気については誰にも言わないように」
 母は親戚にも相談できず、大変なストレスだったようだ。うっぷん晴らしのため、時々平手で私のお尻をたたいた。服の着替えなどが人より早くできても、当たり前のこととして無視された。他の人と何か違うことをすると叱られた。母は子供を傷付け支配する人だった。
 小学校一年の時、祖母からピアノを習うように言われ、習いに通った。なかなかうまくならず、行くのは嫌だった。一年ほど経ち、会館の小ホールで発表会があり、子犬のマーチを弾いた。祖母もほどほどのできだと納得したのか、ピアノを習うのを止めさせてくれ、本当にほっとした。
 中学校では数学は成績も良く、同じクラスの女子から感心されたりしたが、英語は嫌いだった。母はキーキー声で何度も、
「数学はせんと英語をしまい」と叱る。
 不得意な英語を勉強したかいがあり、成績が上がって先生からは、良くやったね、とほめられた。しかし、母にテスト結果を見せても、
「もっと、もっと成績を上げまい」と言うばかりだった。
 追いつめられて何度も言った。
「成績が上がったからほめてくれ」
 そのたびに、母は怒った。
「あんたにはお金を出して家庭教師を付けとるし、家事の手伝いもさせてない。勉強ができるいい環境にしとるのに、もっといい成績を取ろうという欲がない」
 何もなくても、ヒステリックな金切り声を張り上げた。
「もっと勉強せんと!」こればかりだった。
 私が学校でいじめられていることを、弟やいとこなどが母に言った。母は、その人らに、
「教えてくれてありがとね」と言ったが、私には小声で、
「いじめられるくらい大したことでない。いじめた相手は勉強ができなくて、ねたんでいるんだから、勉強して見返してやれ」
 母は陰湿で、周りから怒鳴られるばかりだったので嫌気がさし、私の成績は、それ以上、上がらなかった。あの時母が何も言わなければ、いい高校や大学に進んで、私の人生は今以上に明るいものになっていたかもしれない。

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 京都大学大学院医学研究科の岡田尊司(たかし)著『マインド・コントロール』に以下のように書かれている。

   幼い子どもは、親にしがみつき、親に
  愛されようとすることでしか、生きてい
  くことができない。いつ、親の機嫌が変
  わって、攻撃されたり、突き放されたり
  するかわからないという中で育つことは
  余計に親に見捨てられまいとする傾向を
  強めてしまう。親の気分がいつも最優先
  であれば、子どもは自分で判断するより
  も、親の顔色をうかがって、そこから判
  断するようになる。

 母が怒るので自分だけが悪いのかと思っていた。周りの人たちに愛され、かまってほしかったのだが仕方ない。
 ふっくらした母より、やせた父に、私の顔つきや体形が似ており、母が私をいじめたのはそのせいもあるのかもしれない。
 私の気持ちを分かろうとしない母親に、仕方ないと、あきらめて顔をそむけて黙っていると、急に優しく「どうしたの?」と話しかけてくることもあった。
 しかし、気を許して話しだすと、しばらくして、邪険にされた。このように叱られたり、優しくされたりが繰り返された。母に振り回され続けた私は、どういうふうに考え、誰を信じていいか、誰を頼ったらいいのか、分からなくなった。自分で主体的に決めることができず、人から強く言われると恐怖を感じる受け身になった。母の決めることに頼る気持ちを植え付けられた。人より速く行動すると良くないのかと思い違いをして、行動を遅くすると、周りからは余計にいじめられた。
 これらがトラウマとなり、人と話すときおどおどし、自分が悪くなくても、自分に落ち度があるように思ってしまう。現実から逃避し、私が市長になり活躍するとが、還暦を過ぎても白日夢を見ることがある。私は、周りの人々とどう接していいか悩み続けている。
 自宅は祖母と、父の家族が四人、叔父の家族の六人を含め十一人が同居していた。私は内孫では一番年上だった。弟は私の有様を見て、周囲の人々の顔色をうかがいながら、こうかつに動いた。しかし、長男の私には、手本にする兄や姉がおらず、上手く立ち回れなかった。祖母や学友も、面倒なことに立ち入ろうとはしなかった。
 金縛りになることが、たまにある。寝ていると縛られている夢をみて苦しくなり、ワーッと声が出て目覚めることがある。これは実際に受けたいじめから来るものだが、虐待の恐怖として夢に現れてきている気がする。自分は双極性障害者であると公然と言って、そのことを文章にすると、悪夢にうなされるのは少なくなった。

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 一般的に虐待は、加害者が相手を殴ったりなじったりする。そして、少しの期間は何もしない。時がたつと一転して加害者は優しくなり、自分自身がふるった暴力について謝罪し悔い改める姿勢を見せるようになるが、やがて再び暴力をふるうようになる。長期にわたり、これを繰り返す。
 DVでは、加害者が謝罪する優しい態度によって、被害者は加害者に同情し暴力を正当化することすらあり、被害者は断続的に暴力をふるわれながらも自ら好ましくない関係に留まろうとすることが多い。被害者をコントロールする一つのやり方だ。
 外部からの情報を遮断し画一的な情報しか受けとれないようにする。その上で極限の恐怖を与える、そして開放する、を繰り返す。洗脳が完了すると、洗脳を仕掛ける側は歓喜して、抱き合うなどしてコントロールされた側に満足感を与える。
 同じように、母も私を他の人と一緒になっていじめ、離れようとするとわざと優しくして引き止めた。この繰り返しだった。大学受験のため、勉強が優先という名目で離れの家に押し込めた。部屋には何も無く寒いのにストーブは置かさなかった。テレビやラジオもなく、外部からの情報があまり入らないようにした。母は子供を傷付け支配する人だった。
 私も、父が心の病だと知っていたので、若いころから心が病まないかと気にしていた。しかし、親戚の間では、精神病が遺伝するものかどうかも含め、心の病を話題にするのを嫌った。
 私が三十三歳で発症してから、心の病にかかっているということが知れわたると、親戚中と付き合いがなくなった。親戚の身近な人が入院しても知らせてくれなかったり、母方の近しい人が亡くなっても電話をしてくれなかったりしたことがあった。弟は私に何も知らせず、なじる電話をすることがあった。
 発症してから二十年ほどの間に、心の病に対する治療法は飛躍的に進み、発病初期や発病前に検査・治療を受けられるようになった。世間の偏見も小さくなり、障害者仲間の交流や交友、結婚も増えた。
 私は躁うつの波が大きかったが、この振幅を薬で小さくしている。以前は、朝起きると躁状態に変わることがあった。昼間にハイになり、他人といさかいを起こしたり、車を急発進させたこともあった。
 亡くなった母が残した写真や私が趣味で集めたビデオの整理をするなど、やりたいことが多数わいてくるのに、頭の中でぐるぐると考えがまわり、少しも進まなかった。還暦を過ぎても白日夢を見ることがある。人の言ったことやそぶりにずっととらわれていた。銀行の定期預金のことで、客に対して立場が弱い外交員に文句を言い、嫌われた。
 うつ状態のときは落ち込んで布団の中にずっといて、最低限のことしかできなかった。風呂に長い間入らなかったり、食事はスーパーでまとめて買って来て部屋で食べたりした。弟とも相続についても随分もめた。

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 躁うつ病の治療には二つの考え方がある。昔からあるのは、躁状態の時に暴れて周りに迷惑をかけるといけないので、薬の種類を多くし、身体的・精神的な活動を抑えるというものだ。仕方がないことだが、そうなると普段はうつ気味で元気が出なくなる。
 もう一つの新しい方法では、薬の種類を少なくし、一種類あたりの薬の量を増やし、躁うつの波を小さくする。普段は健常者に近い行動ができるように調整するものだ。
 五十六歳(二0一五年)の時にメンタルクリニックを変えたところ、医師の薬の処方が良かった。薬が体に合うようになり、大分よくなった。
 合う前は、薬は七種類で、朝と夕方飲んでいたので昼間に眠気がさすことがあった。今は四種類で夕方だけ飲むように減らしたおかげで、昼間も活動的に過ごせる日が多くなった。今は感情がハイになることが少なくなり、躁状態もなだらかである。うつでもあまり落ち込まなくなった。
 飲み忘れると少し躁状態になるなど気分が不安定になり寝られなくなるが、処方通りに飲んでいると、普通に過ごすことができる。
 きちんと飲んでいても、なかなか寝付けず睡眠導入剤を飲んだり、深夜に目が覚めたりすることがある。若い時にいじめられたことを思い出し、苦しくなり、クワッと目が覚めたりすることもある。夜中に尿が近くなると、苦しみにもだえることがある。回数が少なくなるよう、就寝前の三時間は飲食はしないようにしている。
 四、五カ月ごとに血液検査をして、医師が説明してくれるので安心だ。病気に関係のあるサポーターや病人とも、病気について話し合うことがある。更に、食生活や運動量の問題などについても意見を出し合ったりもする。公務員の仕事の一環で、親切に電話で様子を確認してくれることがある。
 還暦を過ぎ処世術が身についてきて、人前では感情をあまり出さないようにしている。今は、他人とのいさかいは少なくなった。薬の副作用で指先の震えがある。スマートフォンで写真を撮るときには、ぶれを止める事は難しい。周囲の人たちは加齢によるものだろうと思うぐらいで、障害に気付くことはほとんどない。六十二歳になり、体調がすぐれなくなったので、運動と食事療法を始めた。三カ月でウエストが六センチ減った。体が大事だ。駐車場を経営しており時間の余裕がある。日頃の雑務ぐらいは、病気を抱えていても何とかやっていける。
 今でも、子供のころの苦しい思い出がわいてくる。母は私が失敗すると気分がよさそうだった。母の友人や、おばたちも同調していた。それをエッセイや小説に書き誰かに見てもらうと、苦しみが軽くなる。薬の副作用である手の震えも少しはマシになる。ただ、表現が暗いので、読まれる方からは、気が滅入る、と言われたりする。
 吃音についての短編私小説「吃音を乗り越えて」を書き始めて二年以上になり、原稿用紙七十枚ほどで一応完結させた。文章教室に通い合評してもらっているので読みやすくはなっているが、まだまだだ。心の病にめげず、読者が病気を理解し納得できるものに推敲をしていきたい。

            2021/6/11


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