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#007 『こころ』/夏目漱石〜きっと,心の「穴」はずっと大きく空いたままなんだろうな



我々は群集の中にいた。群集はいずれも嬉しそうな顔をしていた。そこを通り抜けて、花も人も見えない森の中へ来るまでは、同じ問題を口にする機会がなかった。

「恋は罪悪ですか」と私がその時突然聞いた。
「罪悪です。たしかに」と答えた時の先生の語気は前と同じように強かった。
「なぜですか」
「なぜだか今に解ります。今にじゃない、もう解っているはずです。あなたの心はとっくの昔からすでに恋で動いているじゃありませんか」
私は一応自分の胸の中を調べて見た。けれどもそこは案外に空虚であった。思いあたるようなものは何にもなかった。
「私の胸の中にこれという目的物は一つもありません。私は先生に何も隠してはいないつもりです」
「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだろうと思って動きたくなるのです」
「今それほど動いちゃいません」
「あなたは物足りない結果私の所に動いて来たじゃありませんか」
「それはそうかも知れません。しかしそれは恋とは違います」
「恋に上る楷段なんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」

『こころ』夏目漱石 より

高校生の時に初めて『こころ』を読んだ.

教科書に掲載されていたのは「先生と遺書」の章だけだと知って,学校の帰りにまっすぐ書店に行って新潮文庫を買った.

そうして小説の冒頭から改めて『こころ』を読むことになる.


「私はその人を常に先生と呼んでいた」

この冒頭に立ち戻って読む瞬間こそ,『こころ』の価値を感じさせる時だ.
多分,小説を読むことの魅力に触れた初めての経験になったんだと思う.

大人になった今,なお一層鋭敏に感じるものがある.

その感動,感覚を言葉にすることは簡単ではない.
正直言って,少し震えるくらいだ.
懐かしい香りを思いがけず嗅いだ時の,何かが溢れてめまいがするような気持ち.

作品自体が一個の生命で,心を持っているとする.
その心を僕は知っていると思う.
その心と確かに繋がっていると思う.
それと同時に,永遠に遠く隔てられているという強い感覚に包まれる.

「淋しい」という気持ちに心臓をつかまれるような感じがする.

作品の中から「先生」の声が聞こえてくる.
「先生」は読者である僕に話しかける.

「あなたは物足りない結果私の所に動いて来たじゃありませんか」


そうだな,と思う.

長く生きているとよく分かる.

「恋」も「淋しさ」も同じだ.
何か心の欠損を埋めたいと願って,ウロウロして生きている.

仕事をして,恋愛をして,家族を作って.
趣味に没入して,人と話して,何かを探している.

でもきっと,心の「穴」はずっと大きく空いたままなんだろうなと,どこかで知っている.生きている限り,ずっと空いたままなんだろうなあ.












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