#014 『今を生きるための現代詩』/渡邊十絲子 読書ノート〜やばいくらい…「詩」は面白い.
『今を生きるための現代詩』(渡邊十絲子 著)を読んだのは,ふと「詩」について知りたいと思ったからです.
きっかけは,Lectioの純文学読書会で三島由紀夫を扱っていて「詩を書く少年」という短編を課題作品として読むことになったからです.
昔,三島由紀夫の文学についてイメージしていた時には全く考えもしなかった点について,今ひっかりを見出すようになっている.その一点として「詩」ということがあります.
三島由紀夫の文学表現,創作活動にとって「詩」という要素が決定的に大事な部分なんじゃ無いかと思われてきました.それはまだハッキリとは言語化できないのだけれど,それについて考えてみたくて本書を手に取ったわけです.
『今を生きるための現代詩』では,詩人でもある著者の渡邊さんが,おそらく沢山の「詩って難しくてわからない」と感じる人々のために,丁寧に色々なタイプの詩を紹介してくれています.
例えば,第1章では13歳の小学生が,教科書で谷川俊太郎の「生きる」という詩に出会ったときに感じた「疎外感」から始まります.この小学生は普段から詩が好きでいたにも関わらず,この「生きる」に関して「こころがふるえない自分が不可解だった」という.
どういう訳でそうなってしまったのだろう?
興味を持って読み進めていくと,著者の言わんとすることが理解できてなるほどと思いました.
いろんな考え方があると思いますけど,著者の説明を読むと,詩にも大きく二つのタイプに分けられるようです.
1つ目:書き手の体験,「生の実感」を再現する詩
2つ目:「生の実感」の再現ではない詩
谷川俊太郎さんの「生きる」については典型的に,1つ目の「生の実感」を再現するタイプの詩だという訳です.その詩を一部引用するとこんな感じなのです.
13歳だとヨハン=シュトラウスも,ピカソも,ふとした時にそれらと出会った記憶や感触の経験が全く無いわけです.大人になれば「なんとなくそう言う感覚わかる気がする」という共感を呼び出すこともできそうですが,13歳の小学生がそんな豊な体験などどこにもない.これからの未来しかない.
なのに,「生の実感」の再現タイプの詩を教科書で読まされた.だから「疎外感」として感じられたわけです.なるほどですね,そう言う説明を聞くと,さもありなんと思います.
もう一方で,「生の実感」の再現ではない詩というものもあります.例として同じ谷川俊太郎さんの詩で「沈黙の部屋」というのが紹介されていました.これも少しだけ引用してみます.
著者の渡邊さんの説明によると,こちらの詩は具体的体験ではない.表現された空間は現実には存在しない架空の座標のようなものであり,いわばシュルレアリスムの詩だ,と言う訳です.
なるほどです.「生きる」という詩が,何となく分かるなあと共感を楽しむものだとしたら,こちらの「沈黙の部屋」は得体の知れない謎で非現実的な空間にVRのように入り込んだようなクールな感覚があります.
もう一つ「実感の再現」とはほとんど無関係な詩の例として,塚本邦雄さんの短歌が紹介されていました.次の引用です.
「冱ゆる」というのは「冴える」(さえる)のことです.「戀う」は「恋う」(こう)ということです.
著者の渡邊さんによると,この歌は「馬を見たり触ったりした実感をいきいきと伝えるタイプの歌ではない」と言う訳です.「生きている馬の実感」は全くなく,概念としての「馬」「人」を表しているのだと.
なるほどです.そう言われてみれば,そうだろうなと思います.面白いことに,ここでも三島由紀夫が登場してきました.(何かシンクロニシティを感じますw)
僕が考えたい方向性,「詩」とは何か.あるいは三島由紀夫にとっての「詩」とは何かを考えるヒントに少し近づいた気がしました.例えば,三島由紀夫の「詩を書く少年」にもこんな描写があります.
僕が「詩」を通して考えたい点の焦点が定まってきました.
言ってみれば,「言葉」と「現実」の関係です.さらに一歩進めると,「言葉だけ」の表現と「実体験」との関係です.これがどう絡むか.あるいは,文学や詩の表現者としての創作活動のスタイルが,表現者自身へのフィードバックとしてどう影響するか,ということを考えたいのだと思います.
きっとそれが三島由紀夫の文学観を読み解く鍵になるんだろうなと直感しています.今回は『今を生きるための現代詩』を読みながら,その最初の足がかりを見つけたように思います.自分の中で「詩」に対する解像度が上がって嬉しいです.
『今を生きるための現代詩』では,ほかにも様々なタイプの詩が紹介されています.
日本語の特性である「音読すると意味が判断できない言葉がある」という点も初めて意識することができました.安東次男さんの詩を例にして,そのことが説明されていました.
またものすごく興味を惹かれたのが,川田絢音さんの詩でした.イタリアという異国の地で,母語のない環境で過ごす存在の孤独さが生々しく感じられる詩がありました.まさに「異郷」のなかに「異物」としての自分がいるのです.
言葉というものが,「人と通じる回路」として成立していない危うさ.寂しさの極みみたいな感覚がありました.それは共感の不可能さ,シュルレアリスムとしての言葉でもなく,ただあまりにも物質的な,自分の外部にある異化された言葉という感じがしました.このあたりの感覚もこれからもっと考えてみたいと思いました.
あとは著者の渡邊さんが指摘するように,男と女の詩の違いについても説得力のある論が書かれていました.
男の詩は「自分対世界」であり,他者はどこまで行っても他者である.近代的西洋的自我は男の発想によるものだろう,ということでした.
それに対して,女の詩は「わたし」の輪郭線がハッキリしない.「自分の体」が自分の持ち物ではない.まるで自分は宇宙的な大いなる意思に使われているただの道具だと感じるような感覚がある.
なるほど,と思いました.個人差はもちろんあるにしても,性差の中で確実にある身体性から生まれる言葉や表現が違ってくる,というのは当然あるなと思いました.
個人的な感覚ではありますが,近代的な文学作品を読むと,基本的にまさに近代的な自我と自然・社会,あるいは自他の二項対立から生まれる「構造」が土台になっていると感じます.それは近代哲学の構造でもあるなと.
それは主人公を分析しても,読み手の自分という固有性を考えても,身体的な男性性が軸になっているのは実感としてあります.同時に女性作家による作品や女性性を感じられるような文体や表現に触れると,全く別の「構造」との交流が感じられて大きな発見を得ることも確かです.
いつも文学作品を読む時,そのレベルの他者性の発見をしたいと心から願っています.さすが詩人ならではの言語感覚と身体性への捉え方に感じ入りました.
また紹介されていた,井坂洋子さんの「山犬記Ⅲ」という詩も,ものすごく興味深かったです.まさに自己という輪郭線が曖昧になった上での,自他未分の視点の流動性のようなものが言語によって喚起されて,言うなれば「アニミズム的」な快楽を感じるものでした.とても興味深い詩でした.
ふう〜.
色々と感じること,連想することが尽きないのです.
今回要するに,僕は新たに「詩」の世界の入り口に一歩踏み入れたようです.それは楽しく,斬新で,恐ろしく,生々しい何かです.
僕の中の言語偏重主義的な魂がうずきました.文学作品も一個の「詩」のように読むこともできるでしょうし,そう意識することで解像度が上がるだろうなと思いました.これからの読書がまた一段と楽しみになりました.
今回はとりあえずこんなところで.
では,また!
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