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随想:今に生き、今を生きる 1

心の置き所というのは、いろいろあるのだろうけれども、半世紀ちょっと生きて生きて、最も妥当していると思えるのが、「一切は無常である」ということである。「すべては、ままならい」ということだ。

他人もままならなければ、自分もままならない。自分が想っている通りに他人が想っているわけではないし、他人が想っている通りに、自分が想っているわけでもない。ましてや自分が想っている通りに自身の人生を歩めているのかというと実際はままならない状態だ。世の中の全般、自分自身も含めて、自分の想い通りになることなどほぼないのだ。

「片付くものなどありゃしない」と漱石は『道草』の最後で述べているが、歳を重ねるほどに、身に沁みて来る言葉だ。

でも、こうして身に沁みて、自覚して来ると、不思議と反転するように、氣分が悪いということもなくなっていく。減っていく。不思議なもので、ようは反発心がなくなっていくのかもしれない。だいたい人というのは図々しもので、つねに自分が正しいと思っている。アドラー心理学が言っているように、自己正当化、自己優越感、自己肯定感を求めて生きているものだ。様々なものに抵抗して、自分を正当化するためにあらゆることに、否定的に生きている。

熱力学第二法則によれば、孤立系・閉鎖系は必ずエントロピー係数が上がっていくということになる。つまり、ランダム性が高まり、無秩序化するということだ。余りにも一人よがりな、自分、自分と我執に囚われていると、かえって、エントロピーが高まってぐちゃぐちゃになっていく。つまり、「執着」こそが、「苦しみ」の原因なのだ。漱石も『道草』で「自分に始まり、自分に終わる」しかない自分の精神に、自分の淋しさの原因を突き止めている。自分のことばり考えても人生はつまらない。でも他人も決して想い通りになるわけでもない。ただ「ままならない」状態があるだけだ。

では「どうすればいいのか」

答えを知っているのなら、こんな記事は書かない。でも、正直、「ままならない」ことを自覚してから、氣分が不快になる度合いが減ったというだけで、それ以上の何かが得られたというわけではない。なんというか、実にフラットな氣分が続いている。別に何が楽しいわけでも、つまらないわけでもない。毎日暑いし、地球と仲良くやっていく自信もない。

ただ一つだけ明らかな変化がある。人は一日に六万回近く何かしら考えているものらしいが、その「自分の声を聞く」感じが減っている。つまり、雑念が減っていることは確かだ。先のことや昔のことを想い出すこともほとんどない。(実は将来不安の感情も、予感ではなく、想起的な行為なのではないかと自分は秘かに思っている)「すべては無常である」ということを受け入れると、人の想念というものは、このように変わるのかと不思議に思っている次第。つまり、「考える」という行為自体が減っていくのである。だからといって、ぼんやりしているのかというと、全くそうではない。

逆に感覚が研ぎ澄まされている感じだ。風の感触が良く分かる。日差しの感触も良く分かる。食べ物の味も良く分かる。物事も思いのほか、上手く流れていると感じる度合いが高い。電車やバスがスムーズに来るとか、サウナに入ると、人が出ていって、そのまま良い感じの場所に座れるとか、餃子の王将も、混んでいるのに、なぜか席が上手い具合いに空いて、すぐに案内されるとか、自然とそうなっていく感じが続いている。そして、「おっ!」という感じで氣分が良くなる。

感覚や感性が研ぎ澄まされていくと、物事の障害が減っていく感じである。不安や恐怖や心配や疑念、これらはみな自我から発生しているものだが、これらが物事を障害に見せていただけなのかもしれない。氣分をフラットに、今していることや今できることに自分をフォーカスしているだけで、案外、物事はスムーズに行くものだということに味をしめ始めている。

人は今にしか生きていないし、今を生きることしかできない。こんな単純なことに氣づくのに、半世紀以上かかった感が今はある。別に自分の想い通りに生きようなんてする必要もない。私という「感覚」を汚さないようにすることだ。そのアプローチは人それぞれだろうが、やはり私は、「掃除」につきる。特に、水回りの掃除。それで氣分は一掃される。なんでもないことだが、それで一日がスムーズに流れるならお安い御用だ。

自分の感覚を大切にしてい下さい。出来る限り、スッキリさせてあげてください。あとは別に何を意図しなくても、Let it happen で流れていきます。エントロピーという名の汚れをさっと一拭きすればいいのです。それを心がけて、行動するだけで、ずいぶんと違うもので、その発見はなかなか氣分の良いものです。

でもやっぱり不思議なのは、どうして無常ということを受け入れると、氣分が悪くならないのか、これがどうしても説明できない。なぜ、仏教は無常・無我・苦の三相を知ることで、人は安穏に至ると言ったのか。確かにそれらしき感じはあるのだが、どうも、その矢印をうまく説明することができない。いやいや体験することが大切なのです、と言われれば、そうなのだろうが、どうもスッキリしない。口が「への字」のままだ。

ただ一つだけ半世紀の経験からはっきり言えることは、「我を張っても仕方ない」ということだ。なんのいいこともありません。手放したほうが賢明ですよ。

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