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仏教 十二処の認知プロセス

 ある対象や物事や出来事と出会い、知覚され、最終的な認識として確定されていくまでには、厳密な「認知の流れ」というものがある。その認知の流れの「現れ(過程)」を、仏教では「十二処」と説明している。

 その概要は、「対象(情報:色・声・香・味・触・法)」➡「六門(眼門・耳門・鼻門・舌門・身門・意門)」➡「〈触発→〉識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)➡「受(快・不快・無感覚)」➡「想(想起的予期・演繹的推論)」➡「尋(絞り込み)」➡「応(行為)」となっており、この左から右へと流れ現れる。

 認知とは、対象が知覚され、認識されることである。その「認知」が成立するために不可欠な働きが三つある。それが、「対象(情報)」と「六門(感覚器官)」と「識」である。この三つが➡の流れる瞬間に、識において「フォーカス」され、認知の最初のフェーズが生じる。

 まず「対象」とは、大まかに言うと「環境」の謂いである。外界の事物や出来事や事柄、または脳内に一日に六万回も生じているといわれる想念や思念も含まれる。このような環境を仏教では「対象(情報)」といい、それを六つに分割して、「色(形)・声・香・触・法」と表現され、感覚器官である六門(眼門・耳門・鼻門・舌門・身門(皮膚)・意(潜在意識)」の感覚センサー器官を通じて触知され、脳幹の「脳幹網様体賦活系」によって、六識の「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識(直観)」のいずれかににフォーカスされる。この六つの対象と六門を合わせて「十二処」と言う。

 仏教においては、心が実体として在るとは考えていない。心とは単に「対象を知ること」と定義されている。対象が六門を通じて識にフォーカスされることで瞬間的に知(直観)が生じる。そして次の瞬間には滅し、滅した瞬間に、次の対象が識にフォーカスされ直観が生じるように、刹那にその都度の唯一無二性の生滅を反復していく。人は一日に六万回程度の想念を繰り返していると言われるが、ほそらくそれどころでない、とてつもない速度で生滅変化が起きているのであろう。
 たとえば物理学の世界では、この宇宙において、眼に見える物質の割合は5%で、眼に見えないエネルギーの割合が95%であると言われ、心理学的にも顕在意識は5%、潜在意識・無意識は95%と言われている。
 つまり、対象➡六問➡触・識(直観)は、経験的にも無自覚に生じる潜在意識の領域であり、アキレスと亀のように決して追いつけない速さで生滅変化を繰り返しているのである。

 それでは、十二処がどのような過程で現れるのか見ていこう。
 たとえば、ある冬の朝、起きたら、窓のカーテンから明るい日が射していて、いつになく気分良く目覚めた自分に、ちょっと嬉しくなって、ガッバと起き上がる。ぶるっと身体が震え、寒さが急に体を覆うが、そのままカーテンを開けた瞬間に、一面の雪景色が広がる。雪に反射した光が眼球のレンズを通って、網膜につながり、情報として電気信号に変換され、視神経を介して後頭部の視覚野に到達すると、一群の神経細胞にインパルスが走って発火する。「対象」➡「六門」➡「触(発火)→識」の流れで、「眼識」が現れる。

 ここで重要な働きをしているのが、「触(パッサー)」である。雪に反射した光が眼の門に届き、情報が電気信号に変換されて神経に伝わってくるところまでは、むろん自動的に流れていくのだが、そこで、「触」が働くか否かによって、情報が「識(視覚野)」に伝達されるかどうかが決まる。
 つまり、この「触」こそが、脳幹の「脳幹網様体賦活系」である。人によっては、空気の冷たさや、澄んだ匂いに、フォーカスされるかもしれない。それは、人によって異なる。このようにして「対象」の「情報」を脳神経細胞(「識」)に識別しているのが、「触」(脳幹網様体賦活系)である。
 そのために、「識」は、同時に二つの対象を取ることはできない。六門からは常に様々な多様な情報が浸透しているが、触を介することで、ものすごい速さでだが、一瞬の識の対象は常に一つしかなく、またその現れは、時系列的に、つまりは、不可逆的に、決して後戻りできない流れにおいて、生滅変化をしているのである。

 朝、光に反応し、ガバッと起きて、カーテンを開け、雪景色に眼を打たれ、澄んだ空気に思わず目蓋を閉じて、都会では味わえない澄んだ空気の心地良さの肌寒い匂いに満たされ、隣りではまだすやすやと眠っている恋人がいて、何かを思いだそうとしている自分がいて、それでいて、その雪景色に誰かがいることに気づき、よく眼を凝らしてみると、その人が雪に埋もれるようにして倒れている。はっと動悸が高まり、思わず、彼女を起こす、というように、ほんの一分も満たないあいだには、さまざまなフェーズが変化し生滅しているのである。人は、このような非連続性の連続を一様なこととして感じているのは、それが余りにも高速で、かつ不可逆的な流れであるが故に、そう感じているだけである。実際は、順番に、一時に一つずつ、時系列的に生滅しているだけである。

 一様に流れる川に同じ水がないように、不可逆的な水の流れには、決して同じ水は無い。それと同じように、私たちの認知の流れも、多様なる一様として、川の流れのように流れているのである。それは荒々しいときもあれば、穏やかなときもある。しかし、その流れをどう感じるかは、「触」において、異なる。しかし、それは、実際には、あまりにも不可逆的な高速の流れであるが故に、いわば「無意識のフォーカス」と捉え、コントロールできるものではないことを知っておく必要がある。
 実際に、寝ているあいだを除き、私たちが目覚め活動している限り、膨大な情報が身体に間断なく六門に浸透し、ある情報は毛様体の働きによって、選ばれた情報だけが「識」にぶつかり、恐るべき速さで直観が、不可逆的に生滅しているのである。だから、本当に脳幹が脳機能において最も重要であることは間違いない。

 脳には三つの機能、大脳新皮質、大脳辺縁系、そして脳幹とあるが、生存本能の働きやホメオスタシス(恒常性維持機能)を担っているのが脳幹である。よくSF作品で、脳幹にボルトを差し込む穴が空いているシーンがあるが、まさにそこにこそ生命の核心があり、『進撃の巨人』の弱点も脳幹だった。

 次に、その直観が生じる瞬間の次に、「受」が来る。つまり、感覚の感受性の場が広がる。いきなり強い光を浴びると、「眼識」に苦が生じるように、この「受」には、「苦受」、「楽受」、そして「不苦不楽受」という三つのフェーズがある。しかし、この「受」も人為的操作は出来ない。快、不快、無感覚は経験的にも自ずとそうなる。つまり、「対象」➡「六門」➡「触→識」➡「受」までは、自動的である。「あ、痛!」「美味しい!」「無感覚」という感嘆符までは、どれも自動的である。それは、不可逆的な高速の流れで現れてである。

 この自ずと発生した「受」の次に発生するのが「想(知覚=記憶)」である。正確に言えば「想起的予期」である。この想の想起的予期が起動することで、「対象の内容」が初めて知られる。白く光っているのが、「雪」であり、そこにいるのが恋人である、と分かるのは、この「想」が働いているからである。
 たとえば、窓を開けたとき、「匂った」・気持ちいい・「空気が澄んでいる」と思ったとき、それは「鼻識・受・想」の流れによってである。その「受」の対象の情報の言語化が「想」だと言ってもいい。そして、それは個々人の「経験の記憶」に於ける「想起的予期」によって発想される。つまり、想は発想の謂いである。
 しかし、いわゆる言い間違いがあるように、その機能が常に十全に機能するというわけではない。個人差も著しく、その対象の情報の解釈には、「差異」が有り、千差万別な様相を呈していくだろう。同じ匂いでも、直ぐに「寒い」とだけ発露する人もいれば、匂いに何の反応も示さずに、この後のスケジュールを思い浮かべる人もいるかもしれない。この「発想」の場こそが、個人差の分岐点・境界であり、これを期に、自ずと発生する「六門・触ー識・受」から自らそうなっていく個別性が発生する。それは、その対象の情報に於ける経験の記憶、すなわち「想起的予期の発想」の「差異」として現れるのだ。

 自ずとが「潜勢的」なら、自らは「現勢的」である。この流れは、その存在の現れの姿、「姿勢や態度」としても現れる。この姿勢・態度の差異は、その個々人の「経験の記憶」や状態・体調によっても異なる。無論、ここには、語彙力・技術・表現力など様々な能力の差異も絡んでいることは言うまでもない。この「想起的予期」の「発想」が、その人の姿・形の姿勢をもたらす、つまり生き方を顕わにしていると言ってもいいし、その発想が、その個人の行為習慣を規定していると言ってもいい。

 そうして「想」が機能し情報のそれが特定された瞬間、もっとそれの情報を知ろうと、他の何かに注意が向けられていく。その働きが「尋(解釈・注意)」、つまり、それがどういうことなのか、どういうものなのかを考えるのである。

 六門からは一瞬も途切れることなく、膨大な情報が浸透している。対象が六門を通じて触ー識されれば、自ずと「受」が現れ、苦受が生じたら、ネガティブな発想になり、楽受が生じれば、ポジティブな発想なり、「尋」によって、その解釈が拡張されていく。苦受なら、嫌悪・怒り・疑念など、そして楽受なら、貪欲さ・慢心などに派生していく。そしてその解釈に於いて、その後の流れ・心情・行動が決められていくのである。

 だから、自動的な「六門・触ー識・受」に於いて、いかに、その苦受を断捨離し、楽受に入れ替えていくか、発想を豊かにしていくかによって、その後の解釈、心情・行動が変わっていくのである。

 対象との相互作用の場としての「六門・触ー識」は潜勢的で操作不可能だが、「受」における「想」は、自ら入れ替えていくことができる。コップ半分の水を見て、不快に感じたとしても、まだ半分あると発想できるか、あと半分しかない、と発想するのかでは、その後の「尋・応」の行方が変わって来る。

 何か場面ごとに、ある対象と出会い、自身がどう感じているのか、そしてどう思ったのか、発想したのかをよく「尋」ね、不快なら断捨離し、快へと入れ替えて、行為していくようにする。これを繰り返していくことで、「経験の記憶」が変わり、発想それ自体も変わり、不快なことがあっても、それに囚われることもなくなっていく。つまり、「落ち着いている」状態になれるのだ。慌ただしい発想からは、慌ただしい行為しか生まれない。やる気のない言葉からは、何の成果も上がらない。信じてもいないのに、あたかもそうであるかのように自分に言い聞かせても、それが叶うわけがない。あらゆる行為は、この「受・想」の「どのように感じて思っているのか」、その「発想」にかかっているのである。この発想が対象をどう解釈するのかを決めていると言ってよい。

 仏教は、この発想の根本精神に、「慈悲」を据えている。それは「抜苦与楽」、つまり、苦しさを抜き取り、楽を与える。いわば、「新陳代謝」である。この意味で、仏教の行動原理は、いつも「慎ましい」
 こうすれば、こうなると、大上段に構えるのではなく、その都度、目の前にいる人に対して、今できることを、今必要なことを、今適切なことを、そして今快く感じ思えることを行うことが、仏教の在り方である。

 つねに、自身がどのように感じて生きているのか、そのありのままを如実に、解釈や判断抜きで、理解することである。自分がどんな出来事に快を覚え不快を感じるのか、または無感覚なのか。自分の感覚・感性を知ることが、汝自身を知る始まりである。そして自身の感覚・感性の働きを知れば知るほど、自分がどうすればいいのか、その方向性が分かって来る。できれば、快の方へ向かって欲しい。今できることから始め、必要なものを揃え、適切に処置し、快い状態にしていくのだ。

 別に自分を外に合わせて変える必要はない。自身がどのように感じているのか、もし不快なら断捨離すればいい。そして、自分が「本当は何を望んでいるのだろう」と、分からなくても、その方向へ自身を向け感じ取っていれば、やがて、それに相応しいことが内側から閃いて来るものだ。自分がどうしたいか、わからないとき、自分はどうしたいのだろう、と「尋」ねればいい。そうすると、十二処の性質上、おのずと「応」えが、現れてくる。

 この十二処の認知プロセスを覚えておくことで、自身の受から理解することが、汝自身を知ることだということがよくわかる。決して「尋・応」の考える・思考からではない。自分がどのように感じ取り、経験の記憶から、どのような関係性を想起し、そこから、何を予期しているのか。その発想が、自分の行為を勢いを生んでいることを知ることができる。

 事の問題は、「受」にある。しかし、それは自動的に生じて来るものである以上、コントロールできない。だから、感受した時に、不快ならいかに、それをすぐに断捨離できるのかにかかっている。最近ヤクルトスワローズの高津監督が、「大丈夫だ」ということを言っているが、私自身も、不快な感覚が生じたり、嫌な雰囲気、妄想が生じたら、「大丈夫だ」とつぶやくことにしている。心配や不安や不満に囚われそうになったら、すぐに「大丈夫だ」といって断捨離して、深呼吸をして、自身をニュートラルに落ち着かせ、自分にとっての WELL-BEING のイメージの情景を想起し、その情景を味わうように、感受し、自身を快で満たし、外に囚われないようにしている。自分に集中し、今できること、必要なこと、適切なこと、快いことに集中するのだ。

 自分を落ち着かせたいとき、この十二処を思い出して、「受」から洗い流していこうと、切り替えていってほしい。この「受」を浄化することが、発想の豊かさを生み、快くなっていく秘訣である。


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