前回からの続きです。
大阪市港区
私が生まれて(昭和36年)50日の時から小2の夏休みに四條畷市へ引っ越すまで、大阪市港区南市岡に住んでいました。アパートは、途中で6帖一間(ひとま)に引っ越しますが、最初は4帖半一間で共同炊事、共同便所でした。
幼かった私は楽しく日々を過ごしていましたが、親子4人で暮らすには相当劣悪な環境だったと思います。
見出し画像は日輪学園の入園時にアパートの前で撮影したものですが、外壁を見る限り、やはり上質なアパートとは思えません。
昭和40年頃かな、6帖一間での私と母との写真です。父の撮影ですが、改めて見ると、初めて冷蔵庫を買ったのが嬉しかった、そんなアングルですね。
母は年中着物でした。
母:「港区にいたころ、そこら中の工場の煙突から煙が出ていて、洗濯物を干すと黄色くなった」
国民に光化学スモッグが周知される前です。
母は夏になると扇風機しかない狭いアパートから、祖父母のいる知夫里島へ私を遊びに行かせていたのだと思います。
昔の電話機
子どもの頃、知夫里島仁夫地区の小さな漁港に、今で言えばコンビニに近い店が1軒あり、そこに電話がありました。ここに村人へ電話がかかると、屋根の上にあるスピーカーで村人を呼び出す、そんな感じでした。また、電話機もとなりのトトロに出てきたのと同じだったように記憶しているのですが、はっきり言い切れません。
画像はスタジオジブリのホームページに静止画があり、以下のように書かれていましたので、使わせて頂きました。ありがとうございます。
調べると、23号自動式壁掛電話機といい、昭和34年頃から順次淘汰されていたとのことです。
画像は郵政博物館ホームページからです。
私が6歳だったとして昭和42年ですので、当時、水道も一部にしか無かった知夫里島です(シリーズ①の記事を参照)。記憶が正しいのかはわかりませんが、使われていても不思議ではないと思っています。
遠流の島
隠岐は島流しでも知られています。
親戚:「隠岐は政治犯が流されてきたので他の島とは違う、方言には京都の言葉も混じっている」
親戚の言葉は間違っていないのはわかりました。しかし、何故そうなったのかの説明を以下に記します。
黒曜石
先の説明で黒曜石が2度も出てきますので、補足説明を。
隠岐ユネスコ世界ジオパークのホームページからです。
石器の材料だった黒曜石、中国地方では隠岐が唯一の産地だったのですね。但し、知夫里島を含む島前では取れず、島後のみが産地だそうです。
またまた、思いついた順に検証しだすと先に進まず、次回へ。
<了>