見出し画像

🚢隠岐 知夫里島の思い出を検証③ - 島へ流されたのは高貴な方? -

前回からの続きです。

大阪市港区

私が生まれて(昭和36年)50日の時から小2の夏休みに四條畷市へ引っ越すまで、大阪市港区南市岡に住んでいました。アパートは、途中で6帖一間(ひとま)に引っ越しますが、最初は4帖半一間で共同炊事、共同便所でした。

幼かった私は楽しく日々を過ごしていましたが、親子4人で暮らすには相当劣悪な環境だったと思います。

見出し画像は日輪学園の入園時にアパートの前で撮影したものですが、外壁を見る限り、やはり上質なアパートとは思えません。

母と余白ありS

昭和40年頃かな、6帖一間での私と母との写真です。父の撮影ですが、改めて見ると、初めて冷蔵庫を買ったのが嬉しかった、そんなアングルですね。

冷蔵庫の普及率
昭和35(1960)年、10.1%
昭和40(1965)年、51.4%
昭和45(1970)年、91.4%

出典:帝国書院

母は年中着物でした。
母:「港区にいたころ、そこら中の工場の煙突から煙が出ていて、洗濯物を干すと黄色くなった」
国民に光化学スモッグが周知される前です。

日本で光化学スモッグによる被害が初めて明らかになったのは1970年の東京立正中学校・高等学校の事例とされている。1970年7月18日、環七通りの近くにある東京立正中学校・高等学校の生徒43名が、グランドで体育の授業中に目に対する刺激・のどの痛みなどの被害を訴えた。後の東京都の調査によって光化学オキシダントによるものということが判明して以来、公に注目されるようになった。ただし、1965年頃に近畿や四国で、1969年・1970年に関東でそれぞれ報告されていた農作物の斑点などの被害が、後に光化学スモッグによるものであったと判明しているように、それ以前にも被害はあったと考えられる。

出典:Wikipedia

母は夏になると扇風機しかない狭いアパートから、祖父母のいる知夫里島へ私を遊びに行かせていたのだと思います。

昔の電話機

子どもの頃、知夫里島仁夫地区の小さな漁港に、今で言えばコンビニに近い店が1軒あり、そこに電話がありました。ここに村人へ電話がかかると、屋根の上にあるスピーカーで村人を呼び出す、そんな感じでした。また、電話機もとなりのトトロに出てきたのと同じだったように記憶しているのですが、はっきり言い切れません。

画像はスタジオジブリのホームページに静止画があり、以下のように書かれていましたので、使わせて頂きました。ありがとうございます。

※画像は常識の範囲でご自由にお使いください。

画像4

調べると、23号自動式壁掛電話機といい、昭和34年頃から順次淘汰されていたとのことです。
画像は郵政博物館ホームページからです。

電話機の余白ありS

私が6歳だったとして昭和42年ですので、当時、水道も一部にしか無かった知夫里島です(シリーズ①の記事を参照)。記憶が正しいのかはわかりませんが、使われていても不思議ではないと思っています。

昭和三十年代では、菅公署、商店及び各地区の中心とみなされるような場所に、公衆電話的に配置されていただけであった。
昭和四十年代に入ってからは一般家庭でも加入希望者が徐々に増えていったが、回線数の関係などで申し込んでも二年〜四年もしなければつかない状況であったので、加入数は一〇世帯に一台程度であった。

出典:新修 知夫村誌(P.499)

遠流の島

隠岐は島流しでも知られています。
親戚:「隠岐は政治犯が流されてきたので他の島とは違う、方言には京都の言葉も混じっている」

隠岐が遠流の地と定められたのは聖武天皇の時代、神亀元年(724年)で、江戸中期になって一般の罪人が流されるようになるまでは天皇や公家、役人などの政治犯が配流となっていました。

隠岐が遠流の地となったのは、都から遠く離れているというだけでなく、島での生活に問題が少ないということもありました。流された貴人が飢えたり、生活に危険を覚えるような場所ではだめだったのです。

その点、隠岐は海に囲まれ作物豊かで既に黒曜石以来の歴史のある土地であったことが選ばれた理由になっているのでしょう。

隠岐に流された著名な人物には、鎌倉時代に権力闘争に破れた後鳥羽天皇と後醍醐天皇、そして平安時代の歌人小野篁などがいます。

出典:隠岐ユネスコ世界ジオパーク

日本海に浮かぶ隠岐には、都びとの流人とともに中央文化が流入し、数々の貴重な伝統文化を残しています。

出典:島根県ホームページ

親戚の言葉は間違っていないのはわかりました。しかし、何故そうなったのかの説明を以下に記します。

隠岐は、陰陽道の思想では京都より北西の方角にあり縁起の良い地とされてたことや、島には生活に困らない食の豊かさと黒曜石による高い文化を持ち合わせていたという好条件で、天皇をはじめ皇族、神官、貴族の遠流の地となっていました。
当時、隠岐のアワビが天皇の即位式の供え物や高級役人(現在の大臣クラス)のボーナスになっていたことが、平安時代に編纂された「延喜式」に書かれています。そうしたことより、知夫里島も鎌倉幕府の立役者と言われている文覚上人や後亀山天皇の皇孫の小倉宮教尊親王、小野尊俊をはじめ松養寺のある松尾山周辺には沢山の位が高いとされる五輪塔の墓所を見ることができます。

出典:知夫里島観光協会

黒曜石

先の説明で黒曜石が2度も出てきますので、補足説明を。

隠岐ユネスコ世界ジオパークのホームページからです。

黒曜石

石器の材料だった黒曜石、中国地方では隠岐が唯一の産地だったのですね。但し、知夫里島を含む島前では取れず、島後のみが産地だそうです。

またまた、思いついた順に検証しだすと先に進まず、次回へ。

<了>

この記事が参加している募集

ふるさとを語ろう

この街がすき