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🚢隠岐 知夫里島の思い出を検証④ - 方言と屋号 -

前回からの続きです。

その前回の記事が、18,000件(最新の正確な数字は、このページ最後のタグ付け箇所に表示)を越える「#この街がすき」記事まとめ387本に選ばれました。

note に書き出して4ヶ月、初めてのことで妙にテンションがあがりました。

このまち

その記事が以下になります。

方言

隠岐弁で一番好きな言葉は「おしまいさん」です。
夕方、人に会うと、誰もが優しく「おしまいさん」と言います。

隠岐で育っていませんので細かいニュアンスまではわかりませんが、「今日も一日お疲れさん+こんばんは」の感じで私は使っています。下記の隠岐弁講座を見ましたが、「こんばんは」との事。間違えてはいませんでした。

隠岐弁、YouTube に講座がありましたので、興味のある方は学んで下さい。
4講座あり、1講座6〜8分程度です。

屋号へのこだわり

隠岐では屋号が普通に使われています。昔の電話帳には屋号も載っていたらしいです。

また、知夫村の他の地区はわかりませんが、仁夫地区で表札のかかっている家を見たことがありません。これも屋号が普段の生活に使われている理由からかと思ったりしましたが、玄関の鍵をかける習慣の無い村ですから、気にしていないのでしょうね。

*

祖父は自分の船を使って運搬の仕事をしており、その関係か戦争の始まる前に父は鳥取県境港市で暮らすことになります。祖母はそこで大空旅館と言う民宿を営むことになります。
父:「戦時中、一般家庭に砂糖が不足している時でも、民宿をしていたので砂糖が手に入った」

第二次世界大戦。
昭和20年4月8日、祖父は戦艦と一緒に荷物を運んでいる途中、フィリピン沖で攻撃を受け33才で亡くなります。
父:「祖父の船に乗っていた乗組員は全員無事で、彼らが言うには船長だった祖父は船と一緒に沈んだんだろう、と」

昭和20年4 月1日にアメリカ軍は沖縄本島に上陸し、7日には戦艦大和が沖縄に向かう途中で撃沈しています。そう考えますと、戦死した日にフィリピン沖を航海していたのは疑問です。しかし、戦死した日付が正確であったのなら、あと数ヶ月で終戦だったのは間違いありません。
また、私が33才になった時、次のように言われたのを覚えています。
父:「お前も親父の年になったか」

終戦後、母子家庭となった後も境港市で民宿を続け暮らします。
父:「隣の空き地で相撲巡業があった時、宿の2階に横綱が座って窓から下位力士の相撲を見ていた」
さすがに、どの巡業で横綱は?等、調べようがありません。

戦後、父は知夫里島に行こうとしませんでした。亡くなった祖父も父も長男なので、島にある実家を守る立場でありながら、色々と理由があったのだと思います。

父は叔父が亡くなった時、頑なに知夫里島での葬式には参列しないと言っていました。しかし、母と私の説得に約半世紀ぶりに島へ渡ります。

父:「島も随分変わったな」
父が帰ってきて放った言葉はそれぐらいでした。

*

父は知夫里島での屋号「大空(読み方はおおそらで濁点はつきません)」を非常に大切にしていました。祖父も祖母に任せていた民宿の名前につける程ですから代々大事にしてきたのでしょう。私も島へ行けば、名字で呼ばれることは一度もなく、大空の子と呼ばれていました。

屋号については岡野信子さんが書かれた
島根県隠岐郡 五箇村 大字郡の屋号語彙
ー民間造語文化の視点からー

と題した論文がネットに上がっていました。
島後の調査ですので島前の知夫里島とは違いますが、同じ隠岐です、大空について次のように書かれています(P.232)。

5 家格を示す屋号
 (2) 接頭辞「大」を冠して本家を示す屋号
  オーソラ(大空)
これらは、位置を言う語に〝大〟を冠した語構造を持つ。〝大〟は、その位置を強調する接頭辞であるが、同時に、分家表示の接頭辞「小」と対応して、本家表示に働いている。

新修 知夫村誌から、住宅に関する画像(P.338)を引用。全てではありませんが、かっこ内が屋号になります。

画像3

祖父が戦争で亡くなる事がなければ、長男の私は今も知夫里島に住んでいたと思います。近所からは大空さんと呼ばれていたのでしょう。

先祖が眠る鳥取県境港市の墓じまいをし、新たに四條畷市に墓を立てました。
その墓石の後ろには、屋号「大空」を刻んでいます。

話があちこちに飛びましたが、次回はもっと飛びそうです(笑)

では、次回に続きます。

<了>

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