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🚢隠岐 知夫里島の思い出を検証② - 船と港と牛 -

前回からの続きです。

船と港

知夫里島へ行くには船しかありません。
私が子どもの頃は本土から大型船に4時間程度乗って島に近づくも沖で止まり、海上で小さな船(記憶しているのは、下画像の赤矢印で示したものに近い木造船です)に乗り換えて島に到着です。

一度、台風が近づいている時に小さな船に乗り換えたことがあります。船の中にもぐって椅子に座るのですが、横にある丸窓が波の中に沈むほど大きく揺れ、そのまま沈没するのかと思いありました。

当時の知夫里島には大型船が横付けできる岸壁がなかったのです。

来居港矢印

来居港の岸壁が整備され、昭和51年6月21日、村民待望の「おきじ丸」「しまじ丸」の来居港接岸が実現、

出典:新修 知夫村誌 画像(P.340)記述(P.334)

昭和51年まで、海上において船から船への危険な乗降が続いていました。

今は、このサイズの船が入港しています。

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隠岐丸時代、境港ー郡間約四時間を要していたが、境港〜来居間二時間三十分、七類〜来居間二時間十分ほどまでになった。更にまた時間の短縮をと、昭和五十九年四月には高速旅客船「マリンスター」(二八六㌧・三五五九馬力)が就航し、隠岐〜本土間を一時間四〇分で結ぶようになった。

出典:新修 知夫村誌(P.335)

船の周囲にはトビウオが飛び、海が荒れていなければ楽しい2時間半の船旅です。それでも、本土から島に渡る途中、360度どこを見渡そうが陸地が見えなくなった時には不安になりますが。

地理的なものは、私の下手な4コマ漫画で把握して下さい(笑)

写真は、祖母と私。祖母は大正生まれで100歳を越え、今は四條畷市内の老人ホームにいます。場所は、母の実家入口で、牛のツノを持って撮影です。

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次の写真は、実家入口の反対側です。右が私、左の少年は誰かわかりません(笑)
後ろの小屋は藁が大量に積まれており牛舎に使っていたように思います。左の母屋は建て替えられましたが、小屋だけは今も当時のまま建っています。

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現在のような多頭飼育ではなく、一頭〜三頭位までの飼育は昭和三十年代まで続けられていた。今ではほとんど建て替えられて見られなくなったが、古い納屋の牛舎は稀に四頭分設けられているものもあったがほとんどが一頭か二頭分であった。

出典:新修 知夫村誌(P.599)

島では山の上でも枯れることのない湧水があるため、何ヶ所も水飲み場が作られ、多くの牛、たまに馬にも出会えます。そうそう、タヌキもですね。

生産者の負担をできるだけ少なくしながら一頭でも多く飼育が出来るように、導入牛制度を取り入れたことも多頭飼育につながっており、村全体で三〇〇頭台をキープしている根源でもあろう。

出典:新修 知夫村誌(P.607)

今は500頭ぐらいが村の中で飼われているそうです。

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600人ちょっとの村人に対し、500頭の牛、2,000匹以上のタヌキ、ちょっとしたサファリパークに負けないくらい楽しい島です。

また、思いついた順に検証しだすと先に進まず、次回へ。

<了>

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