受験戦争とアイデンティズム①
第117話
今から6年前、私は中学受験をしました。
入試の前々日、1月30日。学校の帰り、
友達とこんなことを語らったことを覚えています。
「俺もお前も赤紙が来ていて、戦争に行かなければいけない。
だが(受ける中学が違うので)出兵先は別々。
2月5日に生きて会おう。」
受験を戦争に例えたんですね。
受験戦争という言葉があります。
最近はそれほど聞きません。昭和時代の言葉ですね。
競争の熾烈さを戦争に例えたわけです。
「受験戦争」という比喩表現は
私からしても納得のいくところがあり、
使えると思っているのですが、
それは本来の、他受験生との熾烈な競争という側面というより
もっと内面的な側面、
本物の戦争でいう国内の動きと私個人の状態が似ているという点で
受験戦争という表現に賛成なのです。
具体的に言いますと、あれです。
「欲しがりません勝つまでは」
「贅沢は敵だ」
みたいな圧力。
これが本物の戦争と受験生の共通。
受験生も娯楽が制限されてますからね。
通常時とは異なる"有事"の空気感があるんです。
もっとも受験生の場合は
"有事"の空気感があるのは塾内や学校内のみ。
いや、少し変な言い方かもですが、
一人一人の単位で空気感を纏っているような。
だからひとたび街に出ると、
だいたいの人々は平常時の空気感ですので
なんかイラッてくるんですよね〜。(感想)
何を呑気に、って。
ここで間違えないでほしいのは、
私の定義する「受験戦争」は、
「本物の戦争」の単位は「国」であるのに対し、
こっちの単位は「個人(一人)」であるということ。
「欲しがりません」の圧力も
他者の目によるものではなく、自制によるもの。
まぁ自制も他者の目が内面化したものと言えなくもないのですが。
そういったサイズの縮小で成り立っていることを覚えておいてほしい。
「戦争」と「受験戦争」は相似の関係ということですね。
前回の第116話では
1日における夜は1週間における日曜日と同じだとし、
日曜日は休みないなぁと嘆いていたのですが、
これもまた
サイズのピンチアウト(拡大)・ピンチイン(縮小)が起きているんです。
こういう思考が今の私のマイブームみたいです。
と、「マイブーム」という単語を使いましたが、
みうらじゅん氏が作ったこの単語も
ピンチアウトがなされているように思われます。
本来の「ブーム」とは、ある集団の間での一時的な興味。
それを「個人」のサイズまで最大限拡大したのが「マイブーム」。
その結果、
ブームなのに集団間じゃないというちょっとした矛盾を孕んでいて、
それが可笑しさとなりつつもその感覚はわかるとて、
一般的に用いられる単語となったのでしょう。(見解)
先ほどの私もちょっとした矛盾を書きましたよね。
「少し変な言い方かもですが、一人一人の単位で空気感を纏っているような。」
空気感とは複数人の間で共有するものなのに
「一人」を単位としているという矛盾
でも、お分かりいただけるでしょ?受験生を経験していたら。
わたし一人が空気感を纏っていて、街ゆく人々との温度差にイラつくアレ。
"ちょっとした"矛盾は相似図形でいう辺の長さの違いであって
本質的には変わっていない。
これが「ピンチアウト・ピンチイン」の考え方です。
つづく。↓