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宮本常一と岡本太郎の写真

宮本常一の写真

周防の宮本常一記念館(周防大島文化交流センター)へ行った時に、宮本常一の写真を色々とみたことがある。といっても、10万枚はあると言われる写真を全てみれたわけでは無い。が、つまみ食い乍もみると、大凡の雰囲気みたいなものがみえてくる。
宮本常一の写真は淡々として、日常の、でも彼の目にとまったモノや人や風景が収められている。中には劇的だなと思う一枚はあるけれど、それは膨大な写真群のほんの一握り。ひとつ一つの写真は凡庸にもみえるけれど、それらを大量に漠然とみていると、目の感覚が少し変わってくる。絵巻物のように写真が繋がってみえてくる。

宮本常一の愛用したオリンパス・ペン。通常の2倍撮影することができる

それは常一が歩いた軌跡そのものだ。彼の愛用したカメラ、オリンパス・ペンは通常の2倍撮影することができる。歩いている時はもちろん、バスや汽車に乗っても常に撮影していたという。「芸術写真は撮るな、読める写真を撮れ」というのが常一の口癖だったという。しかし、そんな彼が晩年に武蔵野美術大学の教員となったのは、何の因果だろうか。

三重 茶屋念仏
お茶目な表情のお婆


山口 網の上で眠る漁師の息子

岡本太郎の写真

岡本太郎もまた、市井の人たちへ眼差しを向け撮影をしていた。けれど、その絵は宮本常一とは少し違っている。日常性は留めながら躍動感があり劇的。お婆の皺の一つひとつにも見入ってしまう。モースから民族学の薫陶を受けた美術家であることが良く分かるような、そんな写真たち。

民族学を学んだ岡本太郎の視線の先
久高島のノロ
恐山を登るお婆
久高島 藁を頭で運ぶ男

2人の邂逅

太郎が写真という手段を用いて、忘れられた日本の民俗を撮影し始めたのは1950年代半ばのことであり、常一が戦後になって写真撮影を再開したのとほぼ時を同じくしている。

そんな二人は、生前に対談をしたことがある(岡本太郎・深沢一郎・宮本常一「残酷ということ─『日本残酷物語』を中心に─」『民話』第18号、1960年)。
太郎が『日本残酷物語』に感銘を受け、1960年に常一が《忘れられた日本人》を出した翌年、岡本太郎は《忘れられた日本 : 沖縄文化論》を出した。書籍名は常一へのオマージュでもあった。
日本の民俗を同時代に捉えた2人の写真は、共通した意識を持ちながらも対照的だ。どちらにもとても惹かれる。

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