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空間が思想を形づくる 東久留米市『滝山団地』

家からそう遠くない場所にあるマンモス団地。
僕の家の周りは、畑や川や雑木林だけではない。それよりも圧倒的に多いのが電車と新興住宅、そしてこの大規模団地群だ。
政治学者の原武史さんの著作『滝山コミューン1974』の舞台になった場所でもある。


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戦後の慢性的な住宅不足や高度成長期の人口流入の波を受け"極めて先進的な"集合住宅建築、いわゆる「団地」が郊外に大量に建てられるようになる。
まだ土の道が多く下水施設も整っていない農村に、水平垂直の建物、アスファルトの歩道、ステンレスのキッチン、水洗トイレなどが現れる。その全てが新しい豊かさの象徴として団地は多くの人たちの憧れとなった。1960年にできた『ひばりが丘団地』には新婚の皇太子夫妻も視察にきたという。

滝山団地は1970年に完成。70万坪の敷地に3180戸。それは確かにひとつの新しい街だ。1960年には約19600人しかいなかった久留米町の人口は、10年後の1970年には4倍の約78000人にもなった。農村はドラスティックに変わっていく。
これが雑木林以降の武蔵野の新しい風景となった。


この風景とともに、僕はこの本『滝山コミューン』に描かれた出来事に惹かれた。
滝山団地の子たちが通う小学校を中心に、"自由で民主的な教育"を目指す試み「集団づくり」が巻き起こる。そのルポルタージュを、原さん自身の体験を通して語られていく。

地縁血縁から解放された集団が、モダニティを携え理想的な共同体を目指す。しがらみや既得権益に縛られず、かと言って個人主義にも陥らない、自由で民主的な集団。
しかし、そうして生まれたコミューンは間もなくディストピアとなる。彼らの試みた「集団づくり」は、結果的にソ連的全体主義の手法に行き着いてしまったのだ。
そもそも団地とはソ連において最も発達した建築形式だ。均質で代替可能な居住空間が生み出す思想。学生運動が悲劇的な最後を遂げた70年以降にあって、滝山団地の奥さま方は、家事の合間にマルクス・エンゲルスを読んでいたのだと、原さんは語る。

今の滝山団地は、住民の高齢化が進み、かつての活気は失われてしまった。団地もまた、昭和の記憶を纏う過去の風景となりつつあるのかもしれない。しかし、ここにあったかつての「運動」の余熱はまだこの地域に残っているように感じる。

思えばむかし、郊外やニュータウンについての言説が流行っていて、それなりに読んで理解していたつもりだった。けど、田舎者であった僕には本当のことなどまるでわかっていなかったのだなと、この土地を歩き回って改めてわかった。

ここは、今まで住んできたどの街とも違う不思議な土地だと感じている。もちろん、マジョリティは僕の方ではなく、向こうにあるのだと思うのだけど。

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