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『海のまちに暮らす』 その4 泊まれる出版社、まち歩き




 真鶴には背戸道(せとみち)という、住宅の隙間を縫うような細い通りがあちこちに存在する。石垣や植え込みに沿って伸びるこれらの小道は家々を結び、人々が行き交う生活導線である。
 高低のある地形の必然から生まれた背戸道をはじめ、この町には都市の余白とも呼ぶべき公私の溶け合う空間やオブジェが、至る所に積極的に残されたままのようだ。

 例えば高台の開けた路地の途中にぽつんと一台のベンチが置かれている場所がある。そこはバス停でもなく、あるいは店の敷地でもなく、たらいや漁具、物干し竿のある民家の軒先へベンチが放り出されている。それはただ一塊の可能性として、まるで誰かがそこに腰掛けるのを待っているかのように港を向き、風を受けている。

 このようなベンチは町内にいくつも見受けられた。どれもあくまで彫刻として景観に溶け込みながら、道端を通り過ぎていく人々のために設けられた空間として役割を与えられている。座ることを強要する文言はどこにもなく、無視することも座ることも同じくらいの自由度で開かれているのだ。土地の境界を曖昧に共有することで生まれた余白が空間と人を不確かにつなぎとめる。そのゆるやかな関係が意図的に残されたままの場所なのかもしれない。


 いわみちと呼ばれるなだらかな通りから背戸道へ侵入する。鉢植えにされたやわらかい草花と金柑の枝を通り過ぎると、臙脂色のトタン屋根のある二階建ての民家の前に出る。ここは〈真鶴出版〉という出版社である。

 真鶴出版は真鶴のローカルな魅力を独自な出版物へ落とし込む出版社/独立系書店でありながら、町を訪れた人が宿泊できるゲストハウスでもある。古民家の特徴を残しながら手が加えられた建屋の一階はキオスクとして本や雑貨が並び、二階へ上がると客室がある。宿泊の枠は一日一組限定で迎えられるため、お客さんは一棟丸ごと貸し切りのようなかたちで自由に本を読みながら滞在することができる。

 宿泊プランに〈まち歩き〉というオプションが付くのもユニークな点だ。これは真鶴町内を案内するゆるやかなガイド付きの散歩なのだが、いわゆる観光案内とは異なり、町民が生活を営む名もなき路地や文化的な個人店、石垣の解説や植生、建築などややマニアックな生活史と考現学的視点の織り混ざった小一時間のツアーである。スタッフの案内によって行われるこのまち歩きは、道中に偶然出会う町内の住民との立ち話もまた乙なものである。

 観光を主力産業としていないこの町の見所は特定のレジャースポットや施設ではなく、むしろ町のあり方そのものと言ったほうが正しいのかもしれない。年月にさらされながらも大きく変わることのなかった町の姿と人々の生活、両者の必然ともいえる結びつき方のほうに注目してみるということだ。ひとつの町で人々が長い時間をかけて継続している暮らしの姿を、町民と同じ眼の高さで収集ながら歩くのだ。

 そのためのきっかけとなる情報をゲストへ手渡している真鶴出版はある意味、町外の人々が真鶴へ訪れる際の玄関口の機能を果たしてもいる。町内の人と町内の人、町内の人と町外の人、町外の人と町外の人がごく自然に関係を持つということ。出版という名がついてはいるが、紙面上のテキストに限らず、さまざまな人と人が行き交う一つの空間として、町と人を編集している実験所のようにみえる。


 そんな真鶴出版を一年あまり、インターンのような形で手伝うことになった。
 当時の僕はイラストレーションと文章表現、グラフィックデザインのそれぞれの制作を試しながら、それらを組み合わせてつくることのできる本というものに興味を持ち始めていた。

 一般に流通する本の多くは、その出版工程に複数の専門家が関わる。執筆、編集、デザイン、印刷、営業といった人の手とプロセスを経て一冊の書籍の姿になる。自分はそういう会社のようなやり方ではなく、必要な全ての工程を自分の頭や手を通して完結させて本を出版してみたいと考えていた。文章は自分で書けばよいのだし、絵も描いているし写真も撮る。それらをMacBookに取り込んで文字を組んだり、印刷用のレイアウトをデザインすることも一応できる。これらはすべて自分が好きで続けている独学の作業だが、それぞれの技術を合わせることで自分にも本がつくれるということに気がついたのだ。

 そのような経緯も相まってインディペンデントな出版活動を行っている場所に興味を持ち始めるようになり、真鶴出版を知ったのだった。真鶴という土地へ深く根を下ろしながら宿を営み、出版に携わる真鶴出版という場所に新しさを感じていたのだと思う。

 結局、住む家が決まって早々に真鶴出版を訪れ、店のことを手伝うスタッフとして仕事を教えてもらえることになった(真鶴出版を運営しているのはカワグチさんとトモミさんという夫婦である。真鶴への移住者でもある二人は、突然やってきた学生の話に温かく耳を傾けてくれた)。ちょうど客室を整える清掃の人手が足りなかったこともあり、それからは週に二日ほど通い詰める日々がはじまった。どんなことをやっていたか、その一部を思い出しながら書いてみる。


 朝の九時過ぎに家を出て、坂を下ってお馴染みの背戸道を進み、真鶴出版一階の扉を開ける。

 この日は前日の夕方にチェックインしたお客さんが二階の寝室から降りてきていて、一階のソファで本を読んでいたので挨拶をする。お客さんの層はさまざまだ。年配の老夫婦や学生のカップル、大学の先生や建築家、会社員、画家、友人や知り合いと連れ立ってくる人、一人の時間を過ごしにくる人もいる。この日は三歳の子どもを連れた自分より少し歳が上の若い夫婦で、昨日の夜ご飯はお寿司屋さんに行ったんですよ、と話してくれるのを聞きながらお茶をいれる。

 お客さんと世間話をしながら、今日これからのざっくりとした予定や興味のあるお店、お昼ご飯に食べたいものなどを相談したりすることもある。その希望や気分をもとに、まち歩きで巡るコースや所要時間を頭の中で組み立てていくのだと教えてもらった。小さな子どもを連れている場合は、歩く距離が長いと疲れてしまうこともあるし、コーヒーが好きだと話すお客さんにはおすすめのお店も紹介したい。決まりきった正解を用意していないぶん、お客さんに合わせた町の楽しみ方をその都度一緒に考えてみる。

 まち歩きはだいたい昼前に行われるので、出発前に町の説明をする時間が設けられている。町がどのような背景を持ち現在にいたるのかという前提知識をざっくりと共有することで、その後のまち歩きの道中で、初見では拾い上げにくい町の特徴に親しむことができるようになるからである。事前説明が済むと外へ出て、まち歩きのスタートだ。連れ立って歩く背中が木漏れ日の先の、細い路地の奥に消えていく。

 まち歩きのプランには、初めから終わりまで完全に固定されたマニュアルはない。むしろ歩くコースやガイド内容も日々細やかに更新され、アップグレードされ続けている。
 それはおそらく真鶴の町が動きを持っているからだ。季節ごとに植栽が移り、家の位置が変わり、新しい店が建つ。そして案内するお客さんも毎回異なる。道中では天候が変わる場合もある。誰かに出会って立ち話することもある。そのためまち歩きはさまざまな要素を観察しながら応用を伴って継続されている。

 そのような変わりやすさを前提とした応用が、まち歩きの質を変わらないものにしているとみることもできる。それはいわば変わらないための変化である。真鶴の変遷を知るにつれ、この町の歴史はさまざまな変化を内包して、変わらない姿を保っていることがわかってくる。同時に町や人がいかに移ろいやすいものであるかということもわかる。真鶴出版のまち歩きにはライブ感があり、それはただの道案内というよりも、まっさらな紙に即興的になされるドローイングに近い。

 この日は別のスタッフがまち歩きに出ているので、自分は午前中のあいだに客室の清掃をする。ベッドシーツやタオルを新しい清潔なものに取り替えて、掃除機をかける。窓を開けると向かいの家のトタン屋根の上にぶちのついた斑の猫が丸くなって、足の付け根を忙しそうに舐めている。菜の花。紅白のつつじ。斜面の上を貨物列車が低い音を立てて走り抜けていく。水まわり、トイレ、シャワールーム、一つ一つを磨き上げるように拭く。

 午後にチェックインするお客さんを迎えるために、風を通して細部を綺麗に整えていると、少し不思議な気分になる。自分のものではなく、見知らぬ誰かの生活をここに支度しようとしているからかもしれない。一軒の宿として来訪者をもてなすという、自分の部屋を掃除するのとはまた異なった感覚だ。

 清掃があらかた済んでしまうと、今度は書籍の発送作業に取り掛かる。真鶴出版では、自ら出版している書籍や関係のある土地や他社の出版物、スタッフが気になる本などを独自に仕入れて店頭やオンラインストアで販売している。そこから旅立っていく在庫の梱包と発送の仕方を、教わりながらやるようになった。

 発送は手際の良さと丁寧な心づかいのバランスが肝心だ。書籍に傷がないか素早く検品した後に注文ごとに在庫をまとめて納品書を出す。購入者一人一人にメッセージを添え、納品のボリュームに合わせた梱包で包む。個人の購入者への発送以外にも、各地の書店へ書籍を卸す機会もある。日によって注文数も変動するので、まち歩きや清掃と重なって慌ただしいタイミングもある。

 そのような複数の仕事のほとんどを一階で行うので、日中の真鶴出版は賑やかである。金曜と土曜は昼からキオスクを開けるため、宿泊客以外のお客さんもぞろぞろやってくる。関西や東京、近隣の熱海から来る人もいれば、近所のおばあちゃんが話をしに立ち寄ったりもする。ゆるやかなカオスを含んだ時間の中で手を動かしていると、生活と仕事の境界が曖昧に溶け合っていく感覚がある。

 夕方近くになると宿泊予定のお客さんがやってくるのでチェックインの対応をし、お茶菓子を出し、客室の案内や夜ご飯の予定を相談したりする。毎日のように新たなお客さんと出会い、送り出し、また出会う。一見繰り返しのようにも思えるそのサイクルだが、連続しているからこそみえてくるものもあるようで、自分はここで宿の仕事や接客をこなすうちに、まるであたかも自分が旅に出ているかような情報の受け取り方をしていることに気がついたのだ。

 例えばお客さんと机を囲んで会話していると、彼らが住んでいる町や生活のこと、仕事のことや真鶴へ来た理由についてざっくばらんに教えてくれることがある。たいていのお客さんは自分より歳上だ。社会に出て何かしらの仕事をしながら、家庭を持ったり挫折をしたり、人生のステージが変化するような経験を経てこの町へ足を運んでいる。皆何かの必然のように、あるタイミングでこの町を訪れている。そんなふうにみえる瞬間があるということだ。そして自分は彼らとの会話から、数々の複雑な、未経験の感情を手に入れることになる。

 旅先で他人の話に耳を傾けるのは興味深い。真鶴出版は宿として来訪者に一方的にサービスを提供しているわけではなく、反対に来訪者から多くのものを受け取っている。仕事の合間に少しずつお客さんと話すようになり、新鮮だったのはそういう部分だった。人をもてなす立場の自分が図らずも贈与されているという逆転の状況。真鶴出版が、日夜さまざまな人が訪れるこの町に動かない定点として場所を構えている意味が、ほんの少しわかったような気がする。


 十八時をまわると終業なので、カーテンを閉めて机を片付け、お客さんに夜の挨拶をして宿を後にする(すでに夕食を食べに店へ出ている場合もある)。こうして真鶴出版の一日が終わる。スーパーマーケットで季節ものの野菜と納豆と卵、肉などを買って家へ帰る。


つづく

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