『海のまちに暮らす』 その8 ねこ先輩
ねこ先輩に会ったのは春の午後だった。真鶴出版の二階で布団を干していたら、隣家の屋根の上に小さな獣が寝そべっているのがみえた。はたしてそれがねこ先輩だった。
ねこ先輩はトタン屋根の上に全身を伸ばして横たわっていた。体の表面積をなるべく広げるようにして、少しでも多く太陽の光を受け止めようとしているみたいに平べったく溶けかかっていた。ふくよかな白饅頭が勢い良く叩きつけられたら、あのような形になりそうだなと思う。
がらがらと音を立てて二階の障子窓を開ける。ねこ先輩は顔だけをこちらに向けて、「ふ」と発言する。どうして「ふ」とだけ言ったのか僕にはわからない。ただそれだけを言って、まるで何かを試すみたいに僕のことをじっと見据えている。そのうちにこちらも何か言い返したほうが良いような気がしてくる。だけど一体ねこ先輩になんと返事をすれば良いのだろう。「む」と言えばいいだろうか、それとも「や」とでも言えばいいのだろうか。
そのうちに定められた時間が経過したのか、ねこ先輩はくるりと向きを変え、自分の尻尾で遊びはじめた。その心酔の様子にはある種の狂気のようなものが感じられる。まるで尻尾がそこにあるのをついさっき知ったばかりだという風なのだ。そんなこと初めからわかっていたでしょう、と僕は声を出さずにつぶやく。
それにしても、腰の付け根にふさふさした羽ぼうきみたいなものがついている気分はどのようなものなのだろう。それが身体の一部であるという状態は一体どのくらい心地良く、喜ばしいのだろう。そしてどのくらい鬱陶しいのだろう。
ねこ先輩とはその後もたびたび会うことになった。石垣の上からこちらを見下ろしていたこともあれば、真鶴出版の机で作業をしていると目の前の窓の外をぬるりと通過していくこともあった。大抵は興味もなさそうに、ちらと一瞥をくれて行ってしまうのだけれど、実際こちらのことが気になっているのかもしれない。茂みのなかからこちらを覗いていて「そろそろあいつの前に行ってやるか」くらいに思っているのかもしれない。いや、おそらく僕のことなどどうでも良いのだろう。
どうやらねこ先輩はずっと前からこの辺りに住んでいるらしい。たぶん地理とかにも詳しいのだと思う。綺麗な花が咲いている場所や、気持ちの良い風が通り抜ける場所なんかも知っているのだろう。そういう場所に人間を案内してくれる親切な猫もいるにはいるかもしれないが、ねこ先輩はそんなことは請け負わない。
かわりに毎度気まぐれに僕の前へ現れては、きまって何かしら示唆的なものを置いていく。思わせぶりな表情をしたまま右から左へと姿を消してしまう。それっきりで、次にいつ出会うかは僕にはわからない。決定権はねこ先輩が握っている。そういう存在なのだ。
僕らは互いに尊敬も軽蔑もなく、ただ何となくそのあたりにいるな、というざっくりとした認識で生活を送っている。このくらいの距離感を人間界にも適用できたらと思う。だけどそれはちょっと難しいかもしれない。とにかく、ねこ先輩とはそういう関係である。あいにく今週はまだ会えていない。
つづく
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