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海のまちに暮らす vol.1|大学を休学する、東京を離れる

 海の近くの小さな町へ移り住むことにした。それまでの住処は都内の6畳一間で、ベッドと冷蔵庫とテーブルを置いたらもういっぱいになってしまうくらい狭い部屋だった。都会の真ん中にある小さな洞穴から東京の様子を覗いているのは、それはそれで楽しかったけれど、やっぱりここは人が多すぎるし建物がありすぎるから、自分が住む場所には向いていないのかもしれないなと思った(もちろん、ひと口に東京と言っても本当にいろいろな顔があるし、好きな場所だっていくつかある)。とにかく、ちょっと違うところに住んでみようということになった。大学も休学することにした。本当は休学することを先に決めていて、移住先を決めたのはその後なのだけれど、僕は順序立てて文章を書くのがあまり得意ではない。まず教務室へ行って、4月から休学します、と言いにいった。「うちの大学は国立だから、休学するのにお金がかからないんだよ」と同級の女の子が言っていた。いくつかの書類を用意して持っていったら、簡単に手続きが済んだ。本当に休学費用も取られなかった。

 本が好きだから大学の課題で本ばかりつくっていた。なんで本が好きなのか自分でもよくわからない。たぶん適当にパラパラめくって見たいところだけ見て、飽きたらドサっと放り投げておけるからいいんだと思う。本ってちょっと雑然としたところあるし。文化的なものって、暮らしの雑な部分に残されていたりする。インターネットとかSNSはツルツルでピカピカだから、みんな手触りがあったり重たかったり摩擦のあるもののほうを信用したくなってきたのかもしれない。レトロなものだって流行っているわけだし。

 農業もやりたくて、大学構内の空き地を開墾してスイカやオクラを育てようと思っていたのだけれど、上野(僕の専攻は上野校地にあった)で農作はやっちゃいかん、ということらしく、がっかりした。食べるものだって自分でつくりたい。だから取手(茨城県)のほうの校地で勝手に畑を耕して農作をしている先輩がいるのを知った時は嬉しかった。その先輩は自分で野菜を育てたり、野生の土を改良して陶芸をやったりしている面白い人で、昨夏に会って話をした。先輩は裏の川で釣ってきたアメナマ(アメリカナマズ)を夕飯のおかずにすると言っていた。彼はつくった陶器の醤油さしを僕にくれた。土でつくったとは思えない不思議な色をしていた。僕も農業とかやろう、と先輩をみて思った。

 住むなら田舎町がいいと考えて、最初は高知に家を探す気でいた。僕は高知で生まれた。ごく短い幼少期を高知で過ごし、小学校にあがる前に横浜に家が移った。それきり高知には縁がないのだけれど、なんだかやっぱり高知が好きなままだった。羽田から飛行機に乗り、高知龍馬空港に降り立つと毎回不思議な感情になる。それは懐かしさに似ている、けれどもっと深いところにある、思わず涙が出るような安心感そのものだ。そしてそれはおそらく匂いなのだと思う。高知龍馬空港の到着ロビーに充満する匂いを僕は覚えていて、その匂いが一瞬にして僕に時間を遡らせるのだ。四国地方特有の高い日差しや水の匂いを。今はもういない祖母の声を思い出す。まだ4歳の頃、高知市にある家で祖母と2人だけで暮らしていたことがある。妹の出産を間近に控えた母は市内の病院に、父は東京で仕事にいた。祖母は自転車の荷台に座布団を結び付けて、そこにまだ小さな僕をのせた。そうして自分も自転車のサドルにまたがって近所のスーパーに行くのだった。自転車を漕ぐ祖母の背中の石鹸の匂い、バケツをひっくり返したようなクマゼミの合唱、座りっぱなしで少し痛いお尻の肉。ときどき襲ってくる胸をつくような淋しさ。産まれてくる妹という存在のわからなさ。西日にさらされた眩しい縁側。そういう詳細な記憶を普段思い出すことはほとんどないから忘れたのだと思っていた。だけど飛行機を降りたとたんに必ず胸がいっぱいになるのは、匂いが遠い時間の先の記憶としっかりと結び付けられているからだと思う。細胞のレベルで体が思い出しはじめるのだ。

 だから2021年の夏に高知へ飛んだのは純粋な旅行のためというより家探しのためだった。そして結論から言うと、家は見つからなかった。その夏、僕はまだ運転免許証を持っていなかったし、徒歩とバス電車で広大な土地を巡るのは傍目にも無謀な挑戦と言えた。だから実際は物件の内覧というより、住むためのイメージを膨らませるための遠征みたいなものだった。もともと目星をつけていたのは高知県南西部にある大月町という町。四国地方の最西端(左下の端)だ。サンゴ礁の美しいこの町は高知龍馬空港から3時間以上、飛行機の搭乗時間も合わせると実質東京から最もアクセスに時間がかかる町の1つかもしれない(沖縄や北海道のほうが航空便の数も多い)。そういうところも含めて住むには面白いかもしれないと思った(一時期は大月町の航空写真をiPhoneのロック画面にするくらいには気になっていた)。しかし、念願叶っていざ訪れてみると条件に合う住居がなかなか見つからない。滞在中の天候に恵まれないこともあって、移住のイメージがうまく描けないまま羽田空港に帰ってきたのだった。

 こういう時すぐ縁がないと思ってしまうから、東京に戻ってきた僕はまた新たな移住先について考えはじめた。ちょうど大学卒業後の身の振り方を考えていた時期でもあったから、移住はしばらく先へ延ばして、興味のある装丁(本のデザインなどをすること)の仕事を東京で学びつつ、そのまま就職につなげるという選択もあった。1人で考えるのもよくないから大人に相談しようと思って、Aさんのところへ行くことにした。Aさんは雑誌や本のデザインをやっている偉いアートディレクターなのだけれど、本人はどこか風のように飄々としていて、いい大人ってこういう人かもしれないといつも思う。ものすごい数のレコードを壁一面に収集していて、年代物の蓄音機のサウンドを聴かせてくれたこともある。日本橋だか神保町だったか忘れたけれど、事務所の応接室で話を聞いてくれた。そして、「のもとくんはもっと遊びなよ」とだけ言った。

 そのほか、何人かの大人と話をした。やっぱりみんな口を揃えて「遊びなさい」というようなことを言う。普通は就職のためにこれをやりなさいとか、どこそこの企業に行きなさいとか言われるものだとばかり思っていたから、そういうことを言わない大人は僕にとってありがたかった。しかし、自分がこの先何をやればいいのか、そういう答えみたいなものは誰も一切教えてくれなかった。僕が頼る大人はみんないろいろな物事を教えてくれるけど、肝心の答えは全然教えてくれない。ひとまず答えは自分で考えることにした。「遊ぶ」ということがどんな意味なのかも今はよくわからない。でもそのうちにわかるだろうと思う。

 そういうわけで、マナヅルという町の名前を思い出したのはごく最近だった。「神奈川県の南西の端にあるマナヅルという町が面白いことやってるよ」
だいぶ前に大学の教授が話していたこの地名を、ごく最近になって、沈んだビート板が水面に飛び出したみたいに急に思い出した。そうだ、マナヅルだ。調べるとマナヅルは真鶴と書くらしい。真鶴町は穏やかな海に面した小さな港町。町には泊まれる出版所があったり、暮らしや景観のあり方を定めた独自ルール『美の基準』など、この町で行われている面白い営みは数多いのだとか。場所は神奈川と静岡の県境に近く、熱海の手前で隣には温泉地、湯河原がある。長いこと神奈川で暮らしていたけれど、そういえば小田原から西へは言ったことがなかった。夢中になってインターネットで検索をしていると海の写真を見つけた。とても深い青色をたたえた真鶴の海。高知の海に似ている気がした。これもまた不思議な縁かもしれない。

 思いたったが吉日、まず真鶴へ行ってみることにした。その場で電車を調べて、翌朝に家を出る。東京の家からは片道2時間くらいかかるらしい。平日の午前10時。東海道線の左側の窓が青い海でいっぱいになりはじめた。


vol.2へつづく













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