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『海のまちに暮らす』 その5 掃除をする




 海上を移動する雲の様子がなんとなく湿っぽいので、洗濯物は干さないことにした。こういう時の勘はよく当たる。昼食を食べに出る前にひとまず掃除機をかける。

 掃除機の順路はアトリエとして使っている作業部屋から始まり、次いで寝室、それから台所、浴室、玄関となる。作業部屋は床板の色が暗いため汚れが目立たないが、ここでは絵を描いたり紙を切ったりと細かい作業を行うので、なるべくこまめに掃除をする。

 ついでに机の上も片付ける。知り合いにはアトリエがごった返していても一向に平気、というタフな人間が多いのだが、自分はやはりものが少ないほうが作業に集中できる。たくさんの書類が積み上がっていたり、食べ物の残骸が目に入るところにあるとうまく頭が働かない。もちろん極度に潔癖な人間ではないので、部屋が散らかることもある。ただ少なくとも作業机の周りはそれなりに整然とさせようと努力している。一種の習慣のようなものだ。

 今暮らしている家は部屋の数も多く、天井も少し高いから、以前の住まいにいた時と比べて、頻繁に掃除機をかける。東京にいた頃は日中に家を空けていることも多かったが、最近は家で過ごす時間が長くなった。制作や炊事をはじめとした家事全般、それから簡易な運動も家の中でする。生活をつづけるうえで、部屋がある程度清潔に保たれていることへの優先度が高まったのだと思う。

 とはいえ掃除はなかなか億劫なので、やりはじめるタイミングが決められない。自分にとって早急の問題は、掃除という作業の開始点をどのように生活というタイムラインに組み込んでいくか、というものだった。それも無理がなく、自然に、継続的かつ自発的に。

 さまざまなシミュレーションがなされた末に、「休日の朝食が済んだ後がよろしい」という結論が出された。実際、夜や早朝はあまりうるさくできないし(我が家の掃除機は性能こそ取るに足らないが、稼働時の騒音だけは立派に大きすぎる)、仕事がある日は八時頃家を出てしまうから、なかなか暇がない。幸い今の生活だと週に二回ほど休みがあるので、休日の午前中、朝食をとった直後が最も速やかに掃除へと移行できるだろう、という算段になった。

 くわえて自分には確固たる性質として「やりたいことは勝手にどんどんやるが、あまり気の進まない物事は具体的な日時を決めないと一向に取りかからない」というものがある。そのため、朝食の直後という風にきっかりと決めてみた。具体性という傾斜をつけてやると身体が前へ進んでいく。速やかに軽々しく。無駄な燃料も消費しない。かれこれもう二十数年この心体で生きているから、自身の取扱説明書ならそれなりのものが書けそうである。

 そして一旦はじめてしまえば、掃除はなかなか悪くないものだ。窓を開けると海からの風が部屋を抜けていく。シンクは磨くと良い音がする。気づけば黙々と、集中して手を動かしている。頭がしゃっきりとする。挙句には「どうしてもっと早く掃除をはじめなかったのだろう、こんなに良いものなのに」という気分になる。そう思うくらいでちょうど良いのかもしれない。とにかく、やって後悔するということがほとんどない。これは自分の中では掃除に限らず、散歩や入浴も同じグループに属すると思っているのだが、実際にやってみると不思議にも「やらなきゃよかった」という感情を差し置いて「やってよかったな」ということになってしまう。面倒くさくて億劫な初動を越えさえすれば、わりにハイリターンなセルフケアなのかもしれない。


 もう一つ、掃除といって思い出されるのは真鶴出版のことである。
 以前にも書いたが、僕は真鶴出版の客室の支度を手伝うようになった。基本となる寝具の整え方、ゴミの捨て方、布団の干し方などを一つ一つ教わるのだが、初めのうちはひどいもので、たかだか一枚の布団カバーをつけるのにやたらと手間取ったりしていた。このような有り様で果たして仕事が務まるのだろうかと案じていたが、何度かやっていくうちに少しずつ(本当に少しづつなのだけれど)、要領というか心得みたいなものがわかってきた。

 例えば布団カバーをつける時にどういう順序で紐を結んでいけば良い形に仕上がるのかということや、宿泊する客層に合わせてクッションの柄を選ぶこと、客室に置く本の種類を考えることなどを、真似できる範囲で一点一点覚えていった。それはまるで、穴のたくさん空いた水瓶から水が漏れるのを二本の腕で阻止せんとするような不完全さを伴った進歩ではあったが、次第にこれらの細々としたポイントを抑えながら客室を整えていく仕事に、取りこぼしなく項目を達成する軽快さを覚えるようになっていた。
 客室が綺麗になると、自分が泊まるわけでもないのに心なしか嬉しかった。清掃のプロセスそのものにささやかな喜びを見出しているという事実に少し驚いたりもした。
 それに何より掃除の工夫や方法はそのままの技術として自宅で応用が効くものであり、それらの知識を持ち帰って実践するのは不思議な高揚感があった(僕は試しに、自分の家の布団をものすごく綺麗に整えてみたりもした)。

 この町に住みはじめてから多くの予期せぬ新しい感覚に出会っている。これまで通り抜けたことのない経験を通過して、知らなかった物事を一つずつ身につけていく。床に散らばった衣服を一枚ずつ拾って身につけていくみたいに。それは当たり前に暮らしのなかにある生き方の工夫であったり、自分自身との付き合い方であったりする。
 例えそれらがどれだけ初歩的な、取るに足らないものごとだったとしても、僕は日々、新しい自分自身に出会いつづけている。


つづく

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