映画評 ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ🇺🇸
第76回ベネチア国際映画祭で金獅子賞、第92回アカデミー賞で主演男優賞を受賞するなど輝かしい功績を収めた『ジョーカー』の続編。前作に引き続き、トッド・フィリップス監督と主演ホアキン・フェニックスがタッグを組む。
理不尽な世の中で社会への反逆者、民衆の代弁者として祭り上げられたジョーカー。そんな彼の前にリー(レディ・ガガ)という謎めいた女性が現れる。リーはジョーカーをカリスマとして神聖化し、アーサーは再びジョーカーとして目覚めていく。物語はかつてジョーカーが犯した5件の殺人事件の判決を決める裁判が開かれることになるのだが、ジョーカーに待ち受ける運命とは。
『ジョーカー』ほど社会的弱者を描く映画として完璧なものはない。仕事や家族など自分と社会を繋ぎ止めるものがなくなり、最終的に何も残らなくなったことで無敵の人と化してしまう。「なぜ人は犯罪を犯してしまうのか」というアンサー及び、アーサーと同じ境遇の社会的弱者の人が見れば感情移入することはできる。
ラストシーンは夢か現実なのか区別がつきにくい形で終わる。現実ならば悪のカリスマ誕生物語。夢であればこれから来るであろう未来を示唆する。『ジョーカー』のような人を社会で生み出してはならないという、様々な問題を社会としても個人としても考え意識を高めていこうというメッセージを伝えられた映画の力がみなぎった完璧なラストであった。
一作目が素晴らしかっただけに、二作目を作ろうとすると、自ずと自己批評意外の選択肢は無くなる。その矢印はジョーカー信者、つまり観客に向けられる。
改めてなぜアーサーはジョーカーになっ経緯を説明すると、病気でまともなコミュニケーションは取れず、仕事はクビになり、常に周りから見下され、幼少期には親から虐待を受け、夢を馬鹿にされる。「自分はジョーカーかもしれない」と語る人の99.9%は、仕事もあればお金もあり、家族や友人もいて、最悪自分よりも見下せる相手もいる。「アーサーと自分自身を比べてジョーカーと言えるのか」「これでもジョーカーになりたいか」本作はジョーカーから影響を受けた人たちへの問いを投げかける。
その象徴がリーであろう。彼女の正体は何の変哲もない女性。実家は金持ちで、何故か自由に病院を行き来できる。ようは今の人生に満足いかず何者かになりたいという欲求をジョーカーで満たしている人として描かれる。ブルシット・ジョブ的にいえば、今の人生で本当に良いのかと悩むホワイトカラーだ。
本作はジョーカーよりもリーの方が画力の主張が強く、どことなく独りよがりの印象を受けるが、信者の暴走・信者の独りよがりが表す点では的を得ている。
批評の視線はアーサー及びジョーカーにも向けられるのだが、その描き方があまりにも酷く、本作を駄作に下げた決定的要因として足枷となってしまった。
冒頭アーサーが警備員から虐められるシーンが映し出されタイトルが出るという、前作のオマージュをしているのだが比較すると弱すぎる。今更『ショーシャンクの空へ』オマージュはお腹いっぱい。前作のラストはアーサーではなくジョーカーとして終わっていたからこそ喜劇でもあり悲劇としてでもある綺麗な幕の閉じ方を果たせたのであって、アーサーで始まって仕舞えば、見せられたのは何か困惑してしまう。続編以前に映画の掴みとしても最低点を叩き出した。
アーサーはリーに唆され、世間ではジョーカーを神格化する声が大きいこともあり、アーサーはジョーカーへと再び目覚めるのだが、この時点でおかしい。アーサーに降りかかる様々な悲劇を経験したことでジョーカーになったのであって、人に言われて、他者に唆されてなったわけではない。
そして最も問題なのが、唆されてジョーカーになったアーサーをお頭が弱い人として描かれている。百歩譲ってジョーカーに影響された人が軽蔑される描き方をするのは理解できる。だがアーサーがこれまで経験したことはジョーカーになっても致し方ないこと。つまり、本当の社会的弱者をお頭が弱い人として本作は定義してしまっている。前作のレガシーは何処へと消えた。
本作のジョーカーは周りに理解できず、周りが引いてしまうほどに、悪へと染まる様を描くべきであった。前作のラスト「理解できないさ」と台詞の意味がもたらされ、「ジョーカーってものは良いものではないぞと」「お前らが言うジョーカーは、そんな緩いものではないぞ」と高みを描いて突き放すべきであった。神聖化ではなくサタンとして描かれれば、シリーズとしてのレガシーを守ることができた。