見出し画像

ヒューマニズムの、その先へ | ハイデル日記 『ポストヒューマニズム』

「ポストヒューマニズム」についての記事を書こうと思い、日本語で簡単にGoogle検索してみたら、あることに気づいた。

参考になる内容が、あまりにも少ない。

ポストヒューマンやトランスヒューマニズムといった概念と混同されていたり、断片的にしか取りあげられていなかったり、包括的にポストヒューマニズムを理解するのは難しそうだ。

まあそれも、無理もないかもしれない。欧米の哲学や文化論、人類学やアートの世界でポストヒューマニズムという概念が議論されるようになったのはここ10〜15年ほどのことだし、蚊帳の外の日本となると3〜5年。思想が社会に根っこを生やすのには月日を要するが、まだ日が浅いのだろう。

未だ思想としての幼少期にあるポストヒューマニズムだが、昨今の環境危機やAI研究の煽りも受けて、現在急ピッチで研究が進んでおり、今後は一つの哲学として間違いなく影響力を増していく。ヒューマン(人間なるもの)やヒューマニズム(人間中心主義)を根本から考えなおそうとするその射程は主に人文学だが、その波紋は社会科学から自然科学、そしてテクノサイエンスやエンジニアリングへと広がっていくだろう。

本記事では、夏学期に参加した上級理論セミナー(Advanced Theory Class on Posthumanism)で扱ったポストヒューマニズムの議論やその課題をたどりながら、これからの時代、つまり従来の”人間的なるもの”の境界線が崩れはじめた時代の哲学というものを、少しだけ想像してみたい。

ポストヒューマニズムの系譜

ポストヒューマニズムとはどのような視点で、なぜ今この時代に支持を得ているのか?

ポストヒューマニズムを議論するうえで、まず明白にしておかなくてはならない誤解は、ポストヒューマン・イズム(posthuman-ism)ではなく、ポスト・ヒューマニズム(post-humanism)であるということだろう。

ポストヒューマンとは、新しい科学技術の力で人間の身体・認知能力を強化し、現在の人間を超越した形で進化した新たなる人間存在を指す。トランスヒューマニズムという思想に属し、主にサイエンスフィクションや未来学で用いられる概念だ。ダナ・ハラウェイのサイボーグ概念と極めて近く、ポストヒューマニズムを含むさまざまな現代思想で取りあげられる。が、このポストヒューマニズムというのは、ポストヒューマン・イズム(ポストヒューマン主義)ではない。

ハラウェイの「サイボーグ宣言」はフェミニズム思想界に電撃を走らせた

そうではなく、「ポスト」が「ヒューマニズム」を形容する。ポストモダニズムがモダニズムを批判してきたように、ポストヒューマニズムの主な目的は、人文主義、より現代的に解釈すれば人間中心主義から脱却し、人間ならざる存在(ノンヒューマン)のエージェンシーやそれらとの関係性を再考しようとする試みだ。

では、これまでヒューマニズム・ポストヒューマニズムはどう変遷してきたのか。人類学の系譜をみるのが、はやい。

人類学者アラン・スマートのポストモダニズム以後の系譜によると、ポストモダニズムは大きくポスト構造主義的なものとヒューマニズム的なものに区別できる。前者のポスト構造主義的なポストモダニストに挙がる名としては、デリダ、フーコー、ラトゥール、ドゥルーズ、ハラウェイなどで、彼らは構造主義では問題視されなかった個人(the individual)の一貫性や静的な構造に対して懐疑的であり、かわって諸関係やアクターネットワークの生成過程や流動性を重視する。

ポスト構造主義的思想家として知られる20世紀の知の巨人ミシェル・フーコーは、権力や知識、心理などを社会・歴史学的に論じ、学界から市民活動にいたるまで、凄まじい影響を及ぼしてきた

後者のヒューマニズム的なポストモダニストは、ポストモダンという点で従来の(=近代の)欧州中心的(Eurocentric)な人類理解を批判する。西洋以外の人々の声にも光を当てるべく、文化論のフィールドをいかにpolyvocal(多声的)にするかに一番の価値をおいた。ポストコロニアリズムなどが良い例だろう。ただし、あくまで「人間」が研究対象のほぼすべてを占めているという点で、人間中心主義的(anthropocentric)である。ちなみに、こんにちの人類学者のほとんどがこの分類に属す。

モダニズム(近代、つまり啓蒙主義や欧州中心主義)が築きあげてきた諸前提を根底から疑い、構想しなおしていくという点で、ポストモダニズムは大きな革命を起こしたといえるだろう。人類学というフィールドも、そのリフレキシビティ(再帰性)を生かし、ポストモダニズムの研究と方法論の発展に深く寄与してきた。しかし同時に、ポストモダン人類学は、一方で物質的関係性や人間ならざる存在を重視する学派、他方で人間の文化的営為を扱う学派を引き裂き、二つのあいだに深い溝を生み出したことにより、双方互いに対して盲目的に並走するか、相互批判して終わってしまうという、どうしようもない分断をも抱えているのだ。

この二つの学派のマイノリティーの側、物質性や人間ならざる存在を重視する人類学や哲学の中から、ポストヒューマニズムが立ち現れた。その主な動きは、社会科学や人文学において人間的なるもの(the human)しか考慮されていないという人間中心主義の批判だろう。しかし、これまで軽視してきたポストヒューマンやトランスヒューマニズムといった科学技術社会論とも真剣に向き合い、むしろハラウェイのサイボーグ論のように、人間はすでに部分的に人間ならざる存在(スマホ、医療技術など)に依存しているという視点に立脚している。加えて、エドゥアルド・コーンの生命の人類学(anthropology of life)のような、人間存在をより大きな人間以上の生物世界のなかに再配置していく作業も中核を占める。

したがってポストヒューマニズムとは、ポストモダニズムの体質を帯びながら、そのなかでも文化や人間存在というものを生物学や物理学や地質学という自然科学的な視点から問いなおすという思想的うねりや転回のなかから誕生した人文学的立場といえるだろう。

こちらのサイトでは、各方面の学者や探究者が、レディー・ガガや深海掘削などリアルな事例と共に、ポストヒューマニズムの世界を深めている

類似概念との重なりと違い

具体的なポストヒューマニズムの世界に飛び込むまえに、誤解されやすいさまざまなイズムを整理しておきたい。

ポストヒューマニズムの権威となりつつあるフランチェスカ・フェランド(ニューヨーク大学)の2013年の論文によると、ポストヒューマニズムには、さまざまな関連した思想運動や学説があり、それらが学者のあいだでもごったに使用されているため、混乱が生じている。以下がその主要な概念だ。

上記の論文をわかりやすくまとめた動画がこちら

トランスヒューマニズム
フェランドによると、トランスヒューマニズムの主な視点は、生物学的・技術的な進化に出発している。ヒューマン(人間なるもの)を考慮するうえで重要とされるのが、科学と技術にもとづいた人間強化・拡張の概念だ。遺伝子技術、ナノテクノロジー、寿命の延長、人体冷凍保存。これらは、人間の身体・認知能力を外的な技術によって再編成するが、それが個人の自由であるという、自由至上主義とも密接にむすびついている。思想的には、人間の合理性や進歩の概念に深く根をはっており、そういう意味では近代の啓蒙主義思想の延長線上にあるヒューマニズムといえるだろう。

新物質主義(New materialism)
1990年代のフェミニズムは、アリストテレス的な表象主義(representationalism)やジュディス・バトラー的な構築主義(constructivism)を過度に主張する傾向があった。そこで、すでに展開されていた身体や身体性(body、corporeality)の重要性に着眼し、さらに物質的な視点を深めたのが、2000年代から出現した新物質主義だ。流動的でパフォーマティブなのは言語や文化だけではない。物質(matter)もそうだろう。すべての文化的行為は、物質によって成り立っているし、すべての物質もまた、文化的行為と関係している。これまで議論されてこなかったヒューマンを形成するこの二大要素を、一つのダイナミックな過程の一部として捉えなおそうという試みが、新物質主義なのだ。

新物質主義についてはこちらでも紹介

アンチヒューマニズム
トランスヒューマニズムが肯定する近代的合理性や進歩、自由意志の批判を中核にすえるのが、アンチヒューマニズムだ。ポストヒューマニズムの思想と似ているが、重要な差異もある。それは、前者が「アンチ」、つまりヒューマニズムの終わりを掲げている(ミシェル・フーコーの「人間の終焉」など)のに対し、後者は「ポスト」、したがってヒューマニズムという体質のなかで脈々と流れてきた血液を急にそのカラダ(=社会)から取り除くことはできないという視点に立脚している点だ。

ポストヒューマニティーズ
近年注目されつつある概念が、ポストヒューマニティーズだ。ヒューマニティーズ(人文学)という広大な学問領域に対し、人間中心主義の限界を提示し、人間的なるものを再考する人文学へと転換するよう呼びかけている。ポストヒューマニズムの影響が大きい。またこちらは思想というよりも、学術世界を内側から変えようとする社会運動といえるだろう。

これらはどれもポストヒューマニズムと密接にかかわっている。例えば、トランスヒューマニズムは視点は違えど、技術やテクノジェネシスへの関心という意味で共通している。新物質主義の物質への注目も、ポストヒューマニズムに通ずる。

ただポストヒューマニズムに特徴的な視点も明確にしておく必要があろう。フェランドは、いくつかの「ポスト」を包含した哲学としてポストヒューマニズムを説明する。すなわちポストヒューマニズムとは、

- ポスト人間中心主義(post-anthropocentrism)
- ポスト排他主義(post-exclusivism):二元的な論理で諸存在とのあいだに境界線を設けたりせず、ポストモダン的な脱構築によって、存在論を明確にしようと試みる
- ポスト例外主義(post-exceptionalism):「新しい」とされるものも、相対化することでより広い尺度に配置しようと試みる
- ポスト中心志向(post-centralizing):関心や出来事を一つの中心をベースに捉えるのではなく、多数の中心が存在することを認識し(pluriverse的)、それらが流動的・可変的・多孔的であることを重視する

フェランドのこれらの主張が正しいかは別として、ポストヒューマニズムの概観をつかむのには適しているかもしれない。一言で表すと、

ポストヒューマニズムとは、ポスト二元論的、ポスト階層的な方法で、人間以外の領域に焦点を広げ、関係的かつ多層的な方法で考えるための適切な出発点となる哲学であり、人間の想像力の限界を根本的に広げるポストヒューマンの未来を描くことを可能にする。(30頁)

切り口①:物質という視点

それでは、人間なるものを想像しなおすポストヒューマニズムの議論において、具体的にどのような視点や潮流、切り口が存在するのか。

ここでは、三つの切り口を簡単に紹介したい。物質、フェミニズム、マルチスピーシーズ民族誌だ。まずは、物質について。

すでに前述したが、物質はここ二十年ほどの哲学において非常に注目されてきた切り口の一つだ。その転回の大きな燃料となったのが、量子物理学者で哲学者のカレン・バラッドだろう。

バラッドはその2003年の論文「Posthumanist Performativity: Toward an Understanding of How Matter Comes to Matter」のなかで、それまでの哲学や文化批評が言語や文化を創造する言説(discourse)に対してはエージェンシーを見出し、深めてきたのに対し、一方で「物質」は軽視あるいは無視してきたことを批判する。

言語は重要だ。言説は重要だ。文化も重要だ。唯一もう重要ではないとされているのは、物質だろう。(801頁)
文化的な表現やその内容には直接アクセスできるが、表現されたものにはアクセスできないという信念は、なぜ生まれたのだろうか。どのようにして言語が物質よりも信頼できるようになったのか。物質が受動的で不変的であるか、せいぜい言語や文化から派生して変化する可能性を受け継いでいるだけなのに、なぜ言語や文化には独自の主体性と歴史性が認められるのか。物質自体が可能性の条件として常に言語領域の中で形作られているのに、自然主義の信念をこのように残酷に覆すに至った物質的条件をどうやって探究すればよいのだろうか。(801頁)

例えば、政治的なドキュメンタリーを製作するとする。これまでは、その映像が用いるモチーフや表現を土台に、そのメッセージ性や社会的影響が重視されてきた。しかしこの映像を理解するには、登場人物の身体そのものが生物学的過程のなかにあること、撮影場所自体が生態学的・地質学的な状態にあること、そもそも撮影器具そのものに物質的現実が存在することを認識する必要がある。

すなわちバラッドは、表現・表象されたものも重要だが、それと同等に重視すべきは、その創造過程にかかわるすべての存在の物質的側面であると主張する。これをバラッドは行為体の現実主義(agential realism)と呼び、いかにも量子物理学者的な哲学を提示する。着眼したいキーワードは、イントラアクション、生成、そして物質=文化性だ。

あらゆる現象は、物質的なものと文化的なものが複雑にもつれあって生じる。ここでいう物質的なものとは、文化的営為を可能とする基盤や道具としてではなく、文化的営為”そのもの”であるととらえるべきである。また物質も、文化が生み出す諸現象のなかで刻々と変化し、変形し、流動している。つまり文化は物質性をもち、物質は文化性をもっている。世界の諸現象は、物質=文化的(material-discursive)なものである。

ここで登場する諸存在は、創発する関係性や力学の影響を受け、常に変化している。動的で関係論的な世界である。一つの存在を、別の存在と区別することが難しい。つまり諸存在は、存在論的な不可分性(ontological inseparability)のなかにあり、そこでの行為はインタラクション(inter-action、interは可分性を示唆する)ではなく、イントラアクション(intra-action)とするべきである。諸存在は、完成された個として交わるのではなく、常に関係のなかにおいて同時に創発しながら生成されていく(co-becoming)

この世界は、人間がいるかいないかにかかわらず、現在進行形の物質=文化的力学において生成しつづけている。これは「人間」や「人間ならざる存在」というカテゴリーを取っ払ってしまえばいいという話ではない。それぞれの存在が、異なる質と量のエージェンシーをもって、この世界に参加している。その移りゆくエージェンシーに注目し、物質=文化性の複雑なもつれあいを観察することで、ポストヒューマニストな理解を深めていくことができるとバラッドは主張するのである。

3分でイントラアクションとエージェンシーを説明している動画

切り口②:フェミニズムとポストヒューマニズム

この物質性の視点とも密接に関係している二つ目の切り口として、フェミニズムが提示するポストヒューマニズムを簡単に紹介したい。

フェミニスト哲学を代表する哲学者の一人であるロージ・ブライドッティは、「Posthuman Feminist Theory」という章で、いかにしてフェミニズムの歴史がポストヒューマニズムの出現にかかわってきたのか、その系譜を通じて論じる。

もともとフェミニズムは、父権制や男性中心主義の批判として発足した。つまり社会・政治構造における女性の権利や主体性を再考する思想であり、合理的で理性的な近代の人間像を中心に据えているため、人文主義(ヒューマニズム)に属する。

それが1970年ごろから変化したとブライドッティはいう。アンチヒューマニズムの台頭だ。フェミニズムにおけるアンチヒューマニズムとは、主に欧州中心主義的(Eurocentric)な普遍主義(universalism)の批判と、二元論(dualism)の批判だった。これまで欧州の啓蒙思想が確立してきた価値観やスタンダードは、必ずしも当てはまらない。ポスト構造主義やポストコロニアリズムにも大きく影響を受けるこの学派は、普遍性を問い、差異を理解する必要性を訴え、そうすることで二元論(男性ー女性、欧州ー他者、文明性ー野蛮性など)を乗り越えようとした。その影響は大きかったが、それでも、行き場のない文化相対主義という濃霧のなかをさまよったり、過去を美化するようなノスタルジックな論理に傾倒することも少なくなかった。

そうした悶々とした行き詰まりを超えて、1980年代から90年代にかけ革新的な思想を打ち出したのが、ダナ・ハラウェイだった。ハラウェイは科学や技術に対して非常にオープンで、むしろ今の世界を「サイボーグ的世界」としてとらえることで、テクノロジカルなリアリティを軽視することなく、同時に二元論や人間中心主義を克服しようとした。それまでのフェミニズムが抱えていたヒューマニズムとアンチヒューマニズムの分断をきれいに修繕し、世界で初めてフェミニズム思想としてポスト人間中心主義(post-anthropocentrism)を構想したのだ。これはもちろん、フェミニスト・ポストヒューマニズムの巨大な駆動力となる。

ハラウェイの人新世論はこちらでも紹介している

その後、つまり21世紀以降、このポスト人間中心主義(post-anthropocentrism)は、複数の学派・潮流によって洗練されていく。例えば、デゥルーズやガタリに始まり、バラッドやジェーン・ベネットが展開した前述の新物質主義は、リアリティの身体的・物質的な側面に着眼し、生気論的(vitalism)な哲学を組みなおすことで、脱中心的(decentered)で一元論的(monistic)な存在論を提案。他にも、科学論と文化論とメディア論が交錯した領域や、動物の権利やベジタリアニズムを盛り上げたエコフェミニズムなどが隆盛し、現代的な人間中心主義批判の土壌がたがやされてきた。

ブライドッティは、こんにちのフェミニスト・ポストヒューマニズム、いやポストヒューマニズムそのものが、こうした複数の系譜の上に立っているのだという。

元来、フェミニズムは主体性、特に政治的な主体性が形成される過程での権力構造に敏感であり、諸存在の平等の権利を訴えてきた。またそうするうえで、身体への洞察(セクシュアリティやジェンダー・クイア理論を含む)や関係性を重視してきた。それは、存在論的転回(Ontological Turn)やブライドッティのいう「関係論的な自己」という視点と高い親和性をもつ。

フェミニズムがポストヒューマニズムの発展にもたらした影響ははかりしれず、その骨格にしっかりと刻み込まれている。

切り口③:マルチスピーシーズ民族誌

最後に哲学や文化論から、人類学に話を戻したい。

先ほどポストヒューマニティーズ(posthumanities)にふれたが、広義での人文学におけるポストヒューマニストな転回において、人類学という学問が果たしてきた役割はかなり大きい。

人類学は、人間文化や社会過程の差異を解明すべく、参与観察という特殊のフィールドワーク方法論を確立した。実際に見て感じた世界を詳細に記録し、それを持ちかえっては理論的・概念的に分析することで議論を生み出す。社会科学とも人文学ともいえるのだが、ともかくこの方法論、専門的には民族誌(ethnography)というフィールドワークは、主に人間存在のみを対象としてきた。が、それが新たな意識とともに人間ならざる存在へと開かれようとしている。それが、マルチスピーシーズ民族誌(multispecies ethnography)である。

2010年に発表された論文では、人類学者のエベン・カークセイとステファン・ヘルムライヒがマルチスピーシーズ民族誌の出現を説明している。その冒頭にこう書かれている。

人類学の舞台に、新たな執筆ジャンルと研究様式が登場した。マルチスピーシーズ民族誌だ。風景の一部として、人間の食べ物として、あるいはシンボルとして、これまで人類学の周辺に現れていた生物が、最近の民族誌では前面に押し出されている。動物、植物、菌類、微生物は、かつて人類学的には「ゾーイ」や「裸の生命」(殺すことのできるもの)の領域に閉じ込められていたが、「ビオス」の領域で人間と一緒に登場するようになり、明確な伝記的・政治的生命を持つようになった。(545頁)

これは学問的に非常に大きな転換である。カークセイとヘルムライヒも述べているように、本来生物学や生態学が扱うような探究が、人間の社会的世界との関係性において見なおされはじめている。

人間は、そのホモ・サピエンスという一つの種に閉じた世界で生きているのではなく、他の多くの種との縺れ合い(entanglement)のなかにある。その共存関係における人間の生成過程とは、同時に他の生命の生成過程と紐づいており、それは共生成(becoming-with, co-becoming)としてとらえなければならない。マルチスピーシーズ民族誌は、その共生成が出現する接触領域(contact zone)に光を当て、「自然」と「文化」を隔てる境界線が崩壊し、複数種が相互的な(しかし必ずしも相利的ではない)エコロジーやニッチを共創造する過程を記録するのだ。

このような動きを著者らは、種的転回(Species Turn)と呼ぶ。

明確な概念として議論されるようになったのはたしかに最近だが、人類学と人間ならざる存在の歴史は、じつは長い。人類学がまだ博物学の一領域だった1860年代にルイス・ヘンリー・モーガンが出版したビーバー研究の著書は有名だ。その後20世紀を通じ、エバンズ=プリチャードやレヴィ=ストロース、他にもフェミニスト学者らによってしばしば動物が取り上げられる。21世紀に入ると、動物の人類学は、動物を単なる思考や捕食の対象ではなく、共存する存在や行為者としてとらえる認識論的転換を起こす(ハラウェイの伴侶種など)。他にも、民俗植物学から広がった植物研究や、細菌や微生物の民族誌があらわれはじめた。

またこうした種的転回の最大の課題の一つは、表象だろう。人類学者は、どのように人間ならざる存在の性質や行動を理解すればいいのか。ラトゥールは、他の人間を代弁する政治家と他の生物を代弁する生物学者が似ている、とする。「人間に閉じない民主主義」なるものを構想する場合、誰が人間ならざる存在の代弁者として適任なのか。それが人類学者なのか?代弁しようとするあまり、「こう思っているのだろう」と勝手に腹話術をしてしまっていないだろうか?そもそも「人間ならざる(nonhuman)」という表現じたい、まるで「人間」としての質が欠けている(non)かのような意味を含んでいないだろうか?

種的転回、マルチスピーシーズ民族誌に多くの疑問が残るのは、事実だ。それだけ前人未踏の試みということだろう。

それでも挑戦する背景にあるのが、人新世という時代認識なのだ(詳しくはこちらの記事を参照)。

カークセイとヘルムライヒもいうように、人類学(anthropology)が人類(anthropos)を地質学的な次元で問いなおしはじめた今、これまで連綿と距離をとってきた生物人類学と文化人類学が、再度互いに歩み寄りつつある。それをポストヒューマニストと呼ぶか、モア・ザン・ヒューマンと呼ぶか、関係論的と呼ぶかは重要ではない。問われているのは、人間の根本にかかわる問いを、ひらかれた生態学のなかに再配置し、方法論が提示する諸課題に対してもオープンにありつづけることであるはずだ。

現に、複数種的なリアリティは、パンデミックという形で僕らの眼前に広がっている。

WHOがCOVID-19のパンデミック宣言をして間もない2020年4月、カークセイはこのウィルスをマルチスピーシーズな創発から生まれた物語とする論文を発表し、「起源(犯人)探し」の無意味さを訴えた。

カークセイは、この論文に限らず、彼の出版物を自身のサイトでオープンに公開しているので、ぜひ参照されたい

なぜなら、コロナウィルスは数千年以上も存在してきたし、このSARS-CoV-2も49種以上の宿主種間を種から種へ飛びまわりながら常に変異している。それに、このRNAウィルスが複製する際、複製後の個体は必ずしも同一ではない。そこに人間が参加していて、飛行機やグローバル化した経済システムを通じて拡大に寄与するだけでなく、ペットのイヌやネコ、家畜のブタやウシがかかわっている可能性も極めて高い。

ウィルスに目を向けると、境界線が曖昧で不安定なことがわかり、種という概念が崩壊しはじめる。つまり、COVID-19という物語に起源(origin)などはなく、創発(emergence)しかない。それも一つの種に閉じた創発ではなく、複数種が複雑に絡まりあったマルチスピーシーズな創発なのである。

一種から多種へ。この視点転換は、ある意味ではポストヒューマニズムそのものだろう。

マツタケを追ったアナ・ツィンのThe Mushroom at the End of the Worldなども、マルチスピーシーズ民族誌の例だ

結び:イズムの先にある世界へ向けて

物質、フェミニズム、マルチスピーシーズ民族誌。

他にも切り口はあるのだけど、この三つを追うことで、人文学が切り拓こうとしているポストヒューマニズムという新たな哲学の輪郭がみえてきたと思う。

しかしもちろん、ポストヒューマニズムにも限界や課題がある。

たとえばポストという表現を使うと、あたかもヒューマニズムの次の時代を生きているかのように感じるけれど、ヒューマニズムは到底終わっていないだろう。そこには、いかにしてヒューマニズムのリアリティから乖離することなく、同時にその先のビジョンを描いていけるのかという大きな問いが横たわっている。

それに、ポストヒューマニズムは、いくら魅力的な思想をひねり出したところで、「イズム」の域を超えていない。

哲学者ティモシー・モートンは、同じく哲学者でモートンの翻訳をおこなってきた篠原雅武との会話のなかで、「イズムの終焉」という話をしている。私たちは近代を通じて、イズムからイズムへと乗り換えたり、私のイズムはあなたのイズムよりもすごい、とイズムの優越を競い合ったりしてきた。しかし、

そこには鳩イズムもあるだろうし、ネズミイズム、蠅イズムもありうるだろう。建物イズム、階段イズムもありうるだろう。コンクリートイズムも。階段も人間に接近してくるし、ゆえに何らかの態度をもつ。階段にもイズムがありうる。こう考えるなら、もういっそうのこと、建物の設計に人間ならざるものが入り込むのを許してしまえ、ということになる。(302頁)

建築にかんするこの会話は、そのままポストヒューマニズムの議論に当てはまる。大事なのは、ポストヒューマニズムというイズムではなく、その視点が可能にする現実の世界へと感覚をひらいていくことなのだろう。そこに登場するあらゆる行為者たちが「接近してくる」のを許容することなのだろう。

二週間に渡りグラスゴーで開催されたCOP26が、幕を閉じた。

その一挙手一投足に世界が注目するなか、世界最大の汚染国間の共同宣言など進展はある反面、「1.5度」を達成できそうな国は現時点でなく、課題は山積みだ。

止まらない炭素排出や魚類の乱獲、人間の廃棄物による汚染は、空気を汚し、海を乱し、大地を枯らす。多くの生命が苦しみ、痛みに耐え、死んでいっている。それでも、この地球に生まれた限り、この地球でやっていくほかない。

どうすればいいのか、みなが「答え」を求めている。

その答えというものは、実は、私たち一人ひとりが、すでに自分のなかにもっているのかもしれない。


見出し画像提供:Aimi Sunagaさん

本記事の見出し画像には、絵描きのAimi Sunagaさんの絵を使わせていただいた。Aimiさんは、コーチングや解剖学を通じてご自身の心と身体に向き合うなかで、日々移ろいゆく臓器の状態や、繊細な身体の変化が気づかせてくれる月や自然のリズムを大切にされている。そうした内在的な感覚がそのまま絵として立ち現れるのだという。「自分の内側を掘りにいったら、宇宙があった」。墨や岩絵具の独特の質感が織りなすこの絵の深みのなかにも、Aimiさんが「宇宙」と表現されるものが、たしかに、静かに躍動しているように思う。

この絵を拝見した際にまず受けとったのは、「始まりも終わりもない異質なもの同士の交わり」だった。その異質なものたちが、どこから来て、どこへ行くのか、僕にはわからない。そのわからなさや境界の曖昧さが、ひとつのたしかな染色体として、この創発の活力のなかに、ひっそりと宿っている。その感じが、この記事にぴったりだという感動と直観が同時に湧き上がったためお願いし、掲載の許可をいただいた。

ちなみにAimiさんは、ユニークな画材や世界観がダンスしていく描画の過程を動画としても制作・発信されている。ぜひこちらのインスタグラムをご覧いただきたい。

また、素敵なメッセージもお寄せいただいた。
「答えを探して歩き回らなくても、知りたいことはすべて、自分の内側にある。絵を描いていると、ふとそんなことに気づく瞬間があります。
ひとりという小さな身体の中に深く入っていった時、そこに広がっていたものは、宇宙や自然、人々など、すべてとの途方もなく広大な繋がりでした。
自分しか知り得ない心や身体の繊細な感覚に、意識を向けてほしい。そんな想いで絵を描いています」

須永 愛美(すなが あいみ)Aimi Sunaga
絵描き、一般社団法人 Ecological Memes 共同代表。自分や誰か、何かのいのちの内側を描き出すことをテーマに、観る人の身体の奥に直接響く絵を描く。内側への探究心は絵の表現だけにおさまらず、コーチングやピラティスなど、心と身体そのものにも向き合い続けている。プロフェッショナルコーチ。ピラティス・解剖学勉強中。

https://www.instagram.com/aimisunaga/

画像1

主な参考文献

Smart, Alan. “The Humanism of Postmodernist Anthropology and the Post-Structuralist Challenges of Posthumanism.” Anthropologica 53 (2011): 332.

Ferrando, Francesca. "Posthumanism, Transhumanism, Antihumanism, Metahumanism, and New Materialisms: Differences and Relations." Existenz 8/2 (2013): 26-32.

Barad, Karen. “Posthumanist Performativity: Toward an Understanding of How Matter Comes to Matter.” Signs 28, no. 3 (2003): 801–31.

Braidotti, Rosi. "Posthuman Feminist Theory." In The Oxford Handbook of Feminist Theory, edited by Lisa Disch and Mary Hawkesworth, 673-98. Oxford University Press, 2015.

Kirksey, S. Eben, and Stefan Helmreich. “The Emergence of Multispecies Ethnography.” Cultural Anthropology: Journal of the Society for Cultural Anthropology 25, no. 4 (2010): 545–76.

Kirksey, Eben. “The Emergence of COVID-19: A Multispecies Story.” Anthropology Now 12, no. 1 (2020): 11–16.

篠原雅武. 複数性のエコロジーー人間ならざるものの環境哲学. 東京: 
以文社, 2016年.

おすすめ文献リスト

フェランドの『Philosophical Posthumanism』(2020年)

上でも紹介したが、フェランドは自身のYouTubeに講座も上げていてわかりやすい(https://www.youtube.com/channel/UC-Brpo1XqtGmqURNK727d8w/videos)

ブライドッティの訳書『ポストヒューマン 新しい人文学に向けて』(2019年&試し読みは:http://www.kaminotane.com/2019/02/28/4877/)

Badmington, Neil. “Theorizing Posthumanism.” Cultural Critique 53, no. 1 (2003): 10–27.

Young, Bryanne. “Intimacies of Rock: Ethnographic Considerations of Posthuman Performativity in Canada’s Rocky Mountains.” Cultural Studies < 16, no. 1 (2016): 75–82.





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?