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砂とエージェンシーと共生成 | ハイデル日記 『砂の人類学』

10月、到着したばかりのハイデルベルクのホステルの談話室で第一学期に取りたいコースのリストを眺めていた僕の目を止めたのは、「砂の人類学」という文字だった。

そもそも人類学とは、その名のとおり人間存在や文化にかんする学。コースリストには他に「記憶の人類学」とか「医療人類学」といった、人間を主題としたテーマが並ぶなか、唯一地質学的な「砂」というものと人類学を組み合わせたワードには何か惹かれるものがあった。僕はすぐその教授にメールを送った。

結論からいうと、このコースはとてつもなく面白かった。僕のもっていた人類学という学の概念を変えたといっても過言ではない。

なぜ「砂」を「人類学する」のか。
人類学という学問には、どのようなポテンシャルがあるのか。
諸存在との共生成(co-becoming)のなかで生きていく、とはどういうことか。

この記事では、冬学期に取った本コースで僕がおもしろいと感じたことを紹介したいと思う。

人間存在に影響を及ぼす物質ー「砂」

砂とは、まぎれもなく物質である。それは地球という惑星に存在するその他多くの物質ーー水や空気などーーのうちの一つであり、さまざまな場所に存在する。もちろん陸を形成する地盤にも砂は存在するし、川や海の水底にも静かに沈殿している。砂は、人間が誕生するはるか昔から地球デビューしていたし、これからも存在し続けていく。

・・・という訳にもいかないかもしれないというのが、実は今日の砂事情。なぜなら、人間が住処や社会インフラを築く上でもっとも必要とされているのがコンクリートやセメントであり、それらが膨大な量の砂を必要としているから。2050年には世界の3人に2人が都市に住むことになるという予測もあるなか、砂は、「水に次いで世界でもっとも需要の高い資源」というステータスまでのし上がってきた。

今この記事を読んでいるあなたも、おそらく砂を使って建てられた建物の中にいると思う。

このきわめて日常的な「砂」という物質に着目して、人間とそれの関係性をひもとくことで人間存在を理解しようとしていたのがルーカス・レイ教授だった。

僕らがこのコースで扱ったケース・スタディは、シンガポールの知られざる砂搾取によって生活を脅かされるカンボジアの住民や、インドの「砂マフィア」(そういったものが本当に存在する)、アメリカ中部で拡大し続けるfrac sand mining(フラッキングーー日本語では水圧破砕ーー用に使われる特殊な砂の採掘のこと)とそれが引き起こした反対運動など、どれも聞いたことすらない例だった。それらが教えてくれたのは、砂によって利益を得る人から、砂に生活のライフラインを頼っている人、砂によって豊かな生活を失った人や砂を通じてつながったコミュニティまで、この一見取るに足らない物質が人間存在や社会に影響を及ぼしているということだった。

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原油抽出用の砂を採掘するための採掘場、アメリカ・ウィスコンシン州(出典:FracTracker

物質主義と新物質主義

しかし、個人的にケース・スタディよりも衝撃を受けたのは、ここ10年ほどでかなりの盛り上がりを見せている「物質主義(materialism)」の議論とその理論だった。

日本語だと「唯物論」といったあまりぱっとしない名前で語られるこのディスクール(言説)は、西洋の哲学が長い間説明しようとしてきた精神(mind)や意識(consciousness)といったものを、物質、つまり物理的な実体をもったものとして説明しようとするもの。これは昔からある考え方で、主にプラトンが提唱した観念論(idealism)ーー世界を観念(プラトンの言葉でいえばイデア)でもって理解しようとする考え方ーーなどと対立してきた。

その「古臭い」思想が近年再注目されている理由の一つが、その進化形として誕生した「新物質主義(new materialism)」の台頭だろう。

フェミニズム思想や哲学、物理学、文化論など、複数の学問が学際的に提唱してきたこの視点は、人間存在や関係性、その生物社会的(biosocial)な過程を物質に焦点を当ててみるという意味では物質主義と変わらない反面、それらを人間中心主義(anthropocentrism)や複数の人間・非人間存在が複雑に織りなす集合体(ラトゥールのアクターネットワーク理論やデゥルーズから派生したassemblageの概念)という文脈から捉え直すという点が異なっている。

ベネットが提唱する「究極のデモクラシー」

ここで、「砂の人類学」でカバーした2つの理論を紹介したい。哲学者ジェーン・ベネット(Jane Bennett)と人類学者ティム・インゴルド(Tim Ingold)によるものだ。

ベネットがその著作「Vibrant matter」(2010年出版)で訴えるのは、「人間であるかないかに関わらず、すべての存在はエージェンシー(行為主体性)をもっていて、ゆえに同等に扱われるべきである」という視点だ。

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ジェーン・ベネット(出典:IKKM

このエージェンシーという表現、哲学や人類学に詳しくない人は聞いたことがなくて当然だと思う。でも実は、今めちゃめちゃホットなトピックの一つ。なぜなら、いま気候変動や生物多様性の損失、惑星レベルの汚染問題などによって危惧される生態学的な生存を議論する上で、「人間」を「それ以外の存在」とどういう関係性の中にあるものとして捉えるかが急務となっているからである。その判断基準の一つとして注目されているのがエージェンシーという概念で、一般に「〇〇はエージェンシーをもつ / 〇〇にエージェンシーを見出す」といった感じで使われることが多い。

ベネットは、そのエージェンシーを「結果・効果を生み出す存在(things which produce effects)」として定義する。たとえば、あなたがカフェでコーヒーを飲みながら周りを眺めているときに、とあるマグカップが目に入ったとする。そのマグカップを見たあなたは、以前友人にそれによく似たカップをプレゼントとしてもらったことを思い出す。そのとき、マグカップは、あなたに「ある記憶を想起させる」という形で「結果」を生み出した。つまり、あなたに対して「行為」をなし、その主体として顕現したのである。

ベネットは、このエージェンシーの考え方を、結果を生むすべての存在に応用すべきだと主張する。「すべての存在」とは、動物や植物といった生命体はもちろん、石やマグカップや気候といった非生命存在も含まれる。すなわち、それらすべてを活力をもった物質(vibrant matter)によって構成される存在とみなし(一種のvitalism、生気論)、人間ー非人間や生命ー非生命といった区分や二項対立など関係のない、平たくて公平な存在論(フラット・オントロジー)を想像しなおすことで、「political ecology of things(モノの政治生態学)」、つまり、文字通り全存在が参加できる究極のデモクラシーを提唱しようという試みなのだ。

このベネットのバイタリズムは、新物質主義を学ぶ者にとってはマスト。ただ人類学者の間でも、かなりラディカルなアイデアとして捉えられることが多い。それに対して、政治色を避け、哲学者的な難解な言いまわしもせず、もう少し引いたところから現実的に思考しようとするのが人類学の大御所・インゴルドだ。

インゴルドのギャザリングと共生成

彼が最近のエッセイ「In the gathering shadows of material things」(2020年)で指摘するのは、新物質主義におけるassemblage(アセンブリッジ、集合体)という概念の拡張の必要性だ。ベネットも上記の本のなかで、丸々一章をアセンブリッジに割いているが、これは諸存在が臨時・偶発的(ad hoc)に集まって形成される集合体という、デゥルーズの哲学から派生した概念だ。

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ティム・インゴルド(出典:CCCB

たとえば、あなたの部屋を想像してほしい(ご在宅の場合、あたりを見渡してみてほしい)。椅子、本、植物、壁といった無数のモノであふれかえっていると思う。これらは固定的なようで、実は少しずつ変化している。新しく入ってくるモノもあれば、いなくなるモノもある。配置も変わるし、その日の天候によって入ってくる光や室内の湿度も変動するだろう。つまり、その部屋の今の状態は昨日から(少し)変わっている。この流動的なモノの集合体が、今この瞬間「あなたの部屋」という単位で切り取ったアセンブリッジといえるのだ。

インゴルドが問題視するのは、このアセンブリッジにおいて、諸存在が「外的な関係性」しか築けないということだ。あなたが部屋にある椅子に座るとする。このときあなたはその椅子と明らかに「関係」をもつ。アセンブリッジ論は、この瞬間「あなた」と「椅子」が同じ空間で影響(ベネットの言葉でいえば「結果」)を与えあうーー椅子のデザインによってあなたの座り方が変わるーー個別の存在とみなす。この関係性は表面的・外的な関係性である。

しかしインゴルドは、このとき「内的な影響」も生まれると主張する。たとえば、あなたの座り方は、体内での血流を変え、その結果気分も変えるかもしれない。椅子も同じで、あなたがかける圧力によって、その座る部分、足部分、背もたれ部分、車輪があるなら車輪の部分の物質がそれぞれ(わずかながらも)変化していく。あるいは上下逆さまにしては意味のない椅子を、一定の向きで使うことで、椅子そのものに意味が生まれる。これらは互いに質的な変化を及ぼしていく

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この目には見えないものところ(shadows)で内的に相互作用しあう集合体をインゴルドはgathering(ギャザリング)と呼び、その内的変化の過程をbecoming(固定的なbeingに対して)ーー日本語に訳すと「生成」とかだろうかーーと定義する。

ではなぜインゴルドは、わざわざこのアセンブリッジとギャザリングの違いと重要性を指摘するのか。それは、これらの概念的な枠組みは部屋だけでなく、道路や公園、あるいは町や生態系そのものに当てはめることができ、さまざまなフィールドで諸存在の集合体を分析する上で重要な物質的観点を与えてくれるからだろう。

そうする上で、「部屋はすべて私の思う通りに構成されている」という視点は、人間ならざるものが自身に及ぼす影響を完全に無視し、他存在と一方的な関係性しか築けないという大きな人間中心主義の落とし穴に陥ってしまう。

インゴルドは、私たち人間が生きていく上で、エージェンシーをもった他存在と意識的・無意識的に構成していく諸関係・諸過程に当てられるべき光を当て、それらを共生成(co-becoming)として捉えることで、人間的なるものを深淵から想像しなおそうとしているのである。

変わりゆく人類学

話が長くなりすぎてしまったし、本題の「砂」から完全に乖離してしまった。

でも、冒頭でふれた僕の最初の問いーー「人間」と「砂」はどう関係しているのかーーの答えがいかにして形を成していったかは、なんとなく想像してもらえたと思う。

またこのように、人間とは一見直接関係のない「砂」のような存在に焦点を当てるのは、ここ数十年の人類学において大きな潮流となっている。

その理由の中心にあるのが、「人間の営為というものは、人間が非人間存在と築く関係性に大きく依存していて、その関係性をひもとかない限り、人間というものを理解することも難しい」という認識。

私たちがどれだけ人間や社会の自立性、独自性を強調しても、結局は、エージェンシーをもつ他存在を生かし、またその大きなネットワークのなかで生かされているのだろう。

(人類学における近年の転換については、今学期取っている「ポストヒューマニズム」の記事にも書くつもりなので、お楽しみに)


主な参考文献

Bennett, Jane. 2010. Vibrant Matter: A Political Ecology of Things. Durham, NC: Duke University Press.

Ingold, Tim. 2020. “In the Gathering Shadows of Material Things.” In Exploring Materiality and Connectivity in Anthropology and Beyond, 17–35. UCL Press.

おすすめ文献リスト

人類学者 Arjun Appadurai  ーー 著書『The Social Life of Things: Commodities in Cultural Perspective(1986年)』など多数

人類学者 Eli Elinoff  ーー 著書『Disastrous Times: Beyond Environmental Crisis in Urbanizing Asia(2020年)』など

政治哲学者 Jane Bennett  ーー 上記の『Vibrant Matter: A Political Ecology of Things(2010年)』など

人類学者 Tim Ingold  ーー 上記のエッセイの他に、著書『ライフ・オブ・ラインズ―線の生態人類学(和訳2018年)』『人類学とは何か(和訳2020年)』など多数

人類学者 Thomas Pearson  ーー 砂をテーマとした著書『When the Hills Are Gone: Frac Sand Mining and the Struggle for Community(2017年)』

論文「Holding Patterns: Sand and Political Time at China’s Desert Shores(2017年)」 ーー 著者 Jerry C. Zee

論文

このコースの最後に期末論文を書きました。物質主義的な視点とインゴルドの理論をベースに、ドイツの森林アクティビズムでのフィールドワークを考察したものです。英語ですが、もし興味のあるというマニアックな方がいればこちらからどうぞ。


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