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いつでも1番のサポーター

「いつでも1番のサポーターです。頑張れ俊太朗」

これは10年前に小学校を卒業したときにもらった卒業アルバルの中の「両親からのメッセージ」に書いてもらった事。未だに心に刻んである。

ただ当時はあまりしっくり来なかった事も覚えている。

僕は幼い頃から両親からは現実を見させられて育てられた(ように思っている) 。
言い方を変えればサッカー的に僕は両親からあまり期待されていなかった(と当時は思っていた)。


幼稚園の頃から将来の夢はプロサッカー選手。
小学生になってもそれは変わらず。
しかしいつでも僕の家族は
「プロサッカー選手にはなれないからしっかり勉強しなさい」
「サッカーをするのもサッカーが大好きなのも構わないけど、勉強が出来なくなったらサッカーは辞めなきゃいけない」

そんな事をいつも言われていた。
そして小学5.6年生くらいの頃から自分の夢をプロサッカー選手というのが少し恥ずかしくなっていた。


6年生の秋頃モンテディオ山形のJr.ユースの選考会に合格した。
あの時は浦和レッズvsモンテディオ山形をスカパーで観戦しているときに、青いモンテ封筒が届いたのを今でも覚えている。すごく嬉しかった。

その時「プロサッカー選手になりたい」から「もしかしたら頑張ればなれるのかもしれない」という気持ちになっていた。

ただ、周りは甘くなかった。
「サッカーを頑張ることは大いに結構。でもJr.ユースといえど勉強が出来なくなったらいつでも辞めてもらう」

セレクションに合格した事を両親に話したら、こんな事を言われたような記憶がある。


中学時代は目立った活躍はできず、ユースに昇格する事も出来なかった。
サッカーが強い高校に行きたかったが、これも両親の勧めで地元の進学校に受験する事にした。
今思うとあの時サッカー推薦で高校に行っていたら今頃どうなっていたのか想像がつかない。

高校ではチーム自体もそれほど強くなく不本意な形で高校サッカーを終える。
多分そんな状況でもサッカーへの未練、なんならプロとかそういう舞台への憧れが心のどこかで消せずにいたのかもしれない。
サッカー推薦で大学に行ける訳はなく、大学をまずは調べた。
当時調べたのは関東リーグが大学サッカーでは一番レベルが高いようだった。


そしてそこに所属している大学チームで国立大学は2つしかなかった。
所属選手の出身校を見るとどうやらセレクションなどは実施されていないようだった。


そこからは必死に勉強した。
努力が身を結び合格できた。

その時も言われた。

「サッカーを好きで必死にやるのは構わない。でもしっかり勉強して4年後山形に教員として戻って来れるように頑張れ」

当時は自分もそうなると思っていたかもしれない。

サッカーが嫌になっていた大学一年の時にサッカーが楽しくないと両親に伝えた時も言われた。

「サッカーが楽しくないなら辞めてしまえば良いじゃないか。こっちは楽しいとか好きだから応援している。大学にはまずは教員免許を取って欲しいと思っていかせているんだから。そんなに無理してサッカーをしてほしくない。」

なんとなく両親から「もうちょっとサッカー頑張ってみたら?」という甘い言葉を期待しての相談だったので、あの時に言われた言葉は大学サッカーの分岐点だったかもしれない。

大学3年生になり、色んな方と話をしたり自分自身もBチームの試合に出たりしてサッカーをプレーする事に一層ハマっていった。

そしたら卒業後もプレーヤーとして続けたくなった。
周りの助言もあり、海外には道があるのではないかと考え出した。

一度両親に電話で「卒業後は海外でサッカーをしたい」と伝えた時は全く信じてもらえなかった。たぶん「何を言い始めたんだ」と思われていたんじゃないかな。


まあそれも当然。まずは信じてもらうことからだと思い色々調べた。
海外サッカーセミナーというものに参加し、そこからの繋がりや様々な方の協力のおかげで大学3年の夏にラオスのチームに練習参加に行ける事になった。

それが決まったのは渡航する2週間前くらいで、いつも夏のオフは帰省していたから両親にいきなり
「今年のお盆はラオスに練習参加しに行くから少し帰省が短くなる」と伝えた。
両親は驚いただろう。でもその時から少しずつ卒業後にやりたい事について色々聞いてくれるようになった。


それは多分、自分がやりたい事や夢・目標についての覚悟や決意を感じ取ってくれたのかなと思う。


もっといえば僕ははっきりと「こうしたい」とか「こういう道に進みたいから今はこうしている」とかそんな話を本心で両親に伝えてこなかったなと思った。

先に幼い頃に「サッカー選手として期待されていないと感じていた」と書いたが、そうではなく自分の中にサッカーに対しての覚悟やそれに見合った行動・言動が足りていなかったのだと今では思う。別に期待してくれていなかったわけではない。自分で勝手に無理だと思っていただけ。
認めてもらうだけのサッカーに対しての覚悟や情熱が足りなかっただけ。


今年一年東京にいる事も何度もテレビ電話で話して相談した。今年一年だけでなく、5年後、10年後にどうなっていたいかとか週一回以上は必ず電話して話していた。

恩師の方々に自分の進路を報告させてもらった時は「よくお前がサッカー界で働く決断を出来たな。よく両親が許してくれたな。」と言う方もいた。幼い頃や中学時代の僕を知る方ならそう思うのも当然っちゃ当然である。


もしかしたら今でも両親は「早く山形に帰ってくれば良いのに。早く山形で身を固めて欲しい」と言う想いは消えていないのかもしれない。多分強く思われている笑
それでも今年僕が下した決断を応援してくれている。「自分で決めた道なんだからやり抜けよ」と期待してくれている。


両親はどんな状況になっても、どんな時でも一番応援してくれているサポーターです。

1番の理解者であり、言い方は良くないかもしれないが1番のスポンサーであり、誰から非難されようがいつでも応援してくれるのが両親。


そんな1番のサポーターに理解してもらえないような夢や目標は追う資格がない。
1番のサポーターが心から応援したくなるような決意や覚悟を示せないうちはその夢は絶対に叶わない。

社会人一年目になる今「いつでも1番のサポーターです」というあの一言がものすごく良い意味で深い言葉だなと感じている。


なぜこんな事を書こうかと思ったかと言うと、
今日は自分がお世話になっている和魂SCの卒団式があった。その時に卒団生に向けて話す機会があったからこんな話をさせていただいた。
本当はこのくらいしっかりまとめて話そうと思っていたが、持ち前のトーク力の低さで上手くまとまらなかった。


卒団する6年生達が両親に感謝を伝える場面を見ながら僕自身のサッカー人生を回想していた。


そして帰宅後、大学の同期のりゅういちがJリーグデビューを果たした。堂々としたプレーを見てどこか羨ましくも思った。りゅういちも多分同じような境遇で幼い頃から育てられてきたのではないかと思っている。それが今となっては夢を叶えてJの舞台に立っていると思うと本当に覚悟や決意は素晴らしい。自分とは天と地の差だ。彼の大学の取り組みと結果がそれを物語っている。今後の活躍にも期待。

最近はYouTubeでの発信に力を入れていたので、久しぶりに書いてみたがやはり書くことの方が自分は向いているのではないかと思ってしまう笑
まあ動画投稿も収益化を目指してしぶとく続けていきますけどね。

長々と書いてしまいましたが、社会人生活が始まる今(もう既にほぼ始まっているようなものだが)思った事を綴ってみました。

これからも1番のサポーターに認めてもらえるように生きていきます。いつかサッカーをさせて良かったと思ってもらえるような成果をあげたいです。

#サッカー #フットサル #夢 #家族



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