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知っていると、楽しい。

今年の夏、藤井聡太棋士が将棋界を大いに賑わせていたのは、将棋をまったく知らない私でも知っている。


——「同飛車大学」
とある日のTwitterのトレンドにでていた言葉だ。

みてみると、なんかわからないけど大事な対戦で藤井棋士がなんかすごい手を使ったらしくてTwitterがすごく盛り上がっている。

将棋に詳しい人たちが(たぶん)目をキラキラさせながらつぶやいていて、すごく楽しそうだ。

「びっくりするような手を使った」という事実はわかった。でも、それがどのくらいすごいのかは、知識のない私にはわからない。残念ながら心が動かされるようなワクワク感が起こらないのだ。


「将棋を知っている人はこの対戦がすごく楽しいんだろうな。知らなくてこの状況を楽しめないのが悔しい」

そうつぶいている人を見かけた。わかる。すごく共感。


人はなんのために知識を身につけるのか

方程式の問題によくある、

弟は家から歩いて駅に行きました。兄はその15分後に家を出て自転車で駅に行きました。(中略)兄は家を出発してから何分後に弟に追いつきますか?

この手の文章題を見て子どもらはよく突っ込んでいる。

「なんでわざわざ別々に行くわけ?一緒に行けばいいじゃん」

「兄弟が別々に家を出て、途中で追いつく必要がある」状況が実生活でもし起こったら、肌感覚で「今行けば間に合うかも!?」なら即追いかけるだろう。
わざわざ計算なんかしてたら追いつくものも追いつかない。

子どもたちの理屈だと、実社会であまり役に立たなさそうなことをなんでわざわざ勉強しなきゃいけないんだろう、ということなんだろう。


確かに子の気持ちはわかる。

私もかつて子ども時代に勉強したことがそのまま実生活に役立っているかと言われると微妙だ。
(ただ、子どもたちに勉強を教えるのには役立っている)

でも年をとった今思うのは、知っていることがたくさんあると楽しめる対象も増える

「なぜ勉強しなければいけないのか?」と子どもに聞かれたらきっと「将来何かの役に立つかもしれないから」と答える大人は少なくないだろう。

役に立つ立たないももちろん大事だけれど、知識を身につける理由はそれだけではない。

知識を身につけることで楽しみが増えるのだ。


つまらないのは『知らないから』かもしれない

「暮らしが楽しくない。つまらない」のだとしたら、知らないことが多いのかもしれない。

年をとると人生がつまらなく感じてしまうのは、もしかしたら今現在世の中で起こっている物事に疎くなるからなのかもしれない。


でも、知らないことがたくさんあるのは、それだけ楽しめる可能性があるということだ。

知識を身につけることは、『日常生活の延長上にあるいろいろなことを楽しむために、人間に与えられたぜいたくな行為』なのだから。


まだまだ世の中には知らない世界がたくさんある。

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