Will

今日はレイトショーでWillっていう映画を見た。
今日仕事があって疲れてたから観に行くか迷ったけど金曜で公開が終わるから今日行くしかないと思って観に行ってきた。
すごくよかった。

出会いって素晴らしいなと思ったと同時に、そんな煌びやかで簡単な言葉で言い表せる側面ばっかりじゃないってことを同時に痛いほど感じさせられる映画だった。色んなことを経験して考えてそれでも自分の心に正直に生きることを選択し続ける今の東出は自然の中で強く生きていたし、実際に1年前と比べて強くなったと自分で答えていた。

この映画では何度も鹿とか生きてる野生動物の狩りをする映像が画面に映される。人間によって仕留められた後に目を見開いたまま死んでいる鹿の目は言葉では言い表せない、強く訴えかけるものがあって今でも目に焼き付いてて目が離せなくて俺の心をざわつかせた。

当たり前だけど毎日食べているお肉はこうして殺された動物たちの命だ。肉を食べる時何も考えず食べてるし、もちろん自分もそうだ。というか自分の生活の中でもっと身近で考えなけらばならない、もしくは考えなければならないって思ってることがたくさんあるから、そんな普段食べてるお肉が人間によって殺された命だってことを考えるスペースがなくなっているのは仕方ないことなのかなって思う。特に都市部で生活してると自然を感じることも少ないしより顕著だと思う。でもやっぱりそういうことを考える暇もなく生活しているのはどうなんだろうとも思った。

この映画を見て1番強く感じたことは考え続けなければならないということだ。殺した鹿の死体を見て可哀想だと思う。自分で殺しといて可哀想なんて考えるのは人間だけだ。可哀想って思うくらいなら殺すなって思う。でもそうしたいからしている。実際に経験すると命の尊さとかをものすごく感じられるし、殺したのだからできるだけ美味しくありがたく頂こうと思うだろう。でもこれはただの綺麗事で殺して食べてるという事実は変わらない。この世は弱肉強食だからそのなこといちいち考えても仕方ない。そうかもしれないけど、考えても仕方ないからといってそこに蓋をして見なかったことにしたり考えないようにすることが果たして正しいことなのだろうか?

普段の生活でもそうだ。
考えても仕方ないこと、見えてないふりをすること。これは目に見えることでも、目に見えない自分の気持ちに対しても言えることだ。

その方が楽かもしれない。そしてそれを当たり前にしてしまったらもう色んなことが本当に見えななってしまうかもしれない。そんな気がする。気がするだけだから俺にはよくわからいけどきっとそれは怖いことだしとても悲しいことだと思う。

俺は生身の人間を前にした時に自分を装ったり、想いを素直に言葉でないから周りの人とそれなりにうまく関わっているように見えた東出のことが羨ましいと思った。でもそれもただの決めつけじゃないか?だって東出だって他の人だって他人と関わるとき常に自分をさらけ出しているかといえばそうではないはずでいっぱい悩んでるはずだから。そう考えることこそただの決めつけで思考停止なのかもしれない。他人と一線を引いて関わって自分が傷つくのが怖いからってもう今は無意識で傷つかないようにそう振る舞ってしまうのは自分が1番よくわかってる。そして俺は現に他人に心を許すやり方もそれがどういうことなのかということも最近よくわからなかくなってきている。

だからといってそこで考えるのをやめて他人と深い繋がりをもとうとすることを辞めてもいいのか?こんなことしょっちゅう考えて、頭がおかしくそうなくらい悩んだり絶望してる俺は誰よりも誰かに心を開いて話を聞いてほしいって思ってるんじゃないか?

だからせめてその練習はし続けようと思う。うまくいくかわからないし、うまくいかないかもしれない。振り出しに戻るかもしれない。でも自分にできることはなんなのかってダメでもダメでも考えて練習して、この今考えてることみたいに自分の心と向き合って大切だと思うことがまだ見えているうちは考え続けていきたい。


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