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Taylor Made歴代No.1ドライバーは

キャロウェイゴルフにいた人間がライバル企業のテーラー・メイドのことを書くことに違和感を感じる方もいるかもしれません。しかし、キャロウェイゴルフに入る前はフリーのゴルフライターとしてテーラー・メイドの創設者の一人、ゲーリー・アダムス氏を取材できたことは自分にとって良い経験であり、同時にゴルフクラブ開発の分岐点に遭遇できたからです。

目次
Taylor Made歴代No.1ドライバーは
新しい時代の扉を開けたドライバー
創業者、ゲーリー・アダムスの視点
試行錯誤の連続、そして製品化へ
新素材のクラブを成功させるための戦略
3Wに狙いを定めた結果は
<ピッツバーク・パーシモン>から<ツアー・プリファード>へ
スウィングもシンプルに

今、ウッドは金属製が当たり前の時代ですが、それ以前はウッドというくらい木製が標準だったからです。少しオーバーな表現をとればゴルフ界における産業革命が起こったのです。
テーラー・メイドの企画で「あなたの考えるテーラー・メイド歴代No.1ドライバー」を答えるというものがあり、偶然にも締め切りの前日にそれを知り絶対それは<ピッツバーク・パーシモン>であるべきという強い思いで応募し、ここに書いたことを投稿したのです。
それは1990年に米国で取材したことをベースにまとめたのですが、その時代を知っている人間がもうあまりいなくなりテーラー・メイドのフアンはもちろん、クラブに興味のある人がクラブ開発の歴史を知識として知ってもらい次につなげて欲しいと思ったからです。

Taylor Made歴代No.1ドライバーは
テーラー・メイドの41年の歴史の中で誰が何と言おうともNo.1ドライバーは<ピッツバーク・パーシモン>であるべきと信じるからです。
その理由は2つあります。

新しい時代の扉(素材・製法)を開けたドライバー
一つは競技用ドライバーとして初めて金属製のヘッドを採用したからです。
ゴルフクラブはウッド、アイアンと呼ばれるようにウッドはそれまで木製(パーシモン材)が主流でした。木でゴルフクラブを作るとなると家具を作るように手作業となり技術も熟練さが求められるだけでなく、素材も天然のものだけに同じものはなく個体差が必ず存在します。当然クラブとして出来上がったものも同じ形であっても硬さ、重さ、木目、重心位置など微妙に違うために同じものは2つとない、これが当時のウッドの状況だったのです。

それだけにエースドライバーが見つかれば、そのクラブは大切に使ったことは言うまでもありません。雨に日は控えのクラブを使用したり、重要でない試合や練習ラウンドでもエースドライバーは温存したものです。
もし、ヘッドが割れたりでもしたらエースを失うことになり、精神的にも影響が出るのでエースドライバーは最新の注意を払いながら使ったのです。

そのような状況の中、メタルウッドはステンレス素材(17−4ph)を使用し、それを精密鋳造製法で製造することで工業製品として量産でき、同じ機能のものを誰もが手にすることを最初に成し遂げたのです。
これは産業革命といっても良いほどクラブ作りの歴史の中で大転換を起こしメタルウッド時代の幕を開けたクラブが<ピッツバーク・パーシモン>なのです。

創業者、ゲーリー・アダムスの視点
メタルウッド誕生のきっかけは創業者の一人ゲーリー・アダムスの観察力と気づきから始まったのです。
PGAビクターというクラブメーカーのセールスマンだったゲーリー・アダムスはゴルフ場の練習場で練習用としてアルミ製のウッドヘッドで、これも当時出始めていた2ピースボールを打った時、従来のパーシモン製のドライバーで打った時よりもはるかに距離が出ることを発見したのです。
ウッドを金属製にしたら確実に飛距離が出るだけでなく工業製品として同じ機能のものを量産できる、良い製品ができるなら必ずビジネスとして成功すると確信した瞬間でした。
その確信を元に仲間を募り企業に踏み切ったのです。

試行錯誤の連続、そして製品化へ
誰もやったことのないものを作り上げることは経験した人でないとわからないものです。これもある意味タイミングが良かった部分として、アイアンの製造がステンレス素材を用いた精密鋳造法で行われ始め、この技術をメタルウッドの製造方法として利用できたからです。

それでも初めてウッドを金属で作ることは試行錯誤の連続です。
金属でヘッドを作るとなると素材の比重が木に比べて7倍以上も重く、そのためにヘッドの構造は中空構造を取らざるを得ないもので、パーシモンのFWウッドよりもヘッドの大きさは小さくせざるを得ないものでした。
しかも、その肉厚にわずかな差が生じてもヘッドの重心位置が変化し、クラブとしての性能に大きな影響を与えるのです。そのために設計とそれを忠実に再現できる金型製作が技術的にとても難しいものでした。

これら一つひとつの課題を解決しながら最後に製品化までたどり着いたのです。ヘッドの設計を受け持つ工業デザイナー、金型設計のエンジニア、製品化するためのシステムエンジニア、これらのスペシャリストが揃わなければ<ピッツバーク・パーシモン>は誕生しなかったのです。

ゲーリー・アダムスは金属ヘッド(メタルヘッド)の先見性を見抜き、それを製品化しようとする熱き想いを持って仲間を集め、社名をテーラー・メイドとして1979年あえて<ピッツバーク・パーシモン>という名前をつけて最初のメタルウッドを世に出したのです。
ゲーリー・アダムスは「私はメタルウッドの生みの親、と言う言い方をされていますが、それは少し違います。自分の役割はデザイナーのテリー・マッケイブやエディ・ランガートにクラブとしてのアイデアを伝え、彼らが実際にメタルウッドを完成させたからです。私の役割はビジネスとしてどうやって成功させるかというマーケティングの担当としてベストを尽くしたので、一人の力ではできなかったからです」と取材の中で話してくれたのですが、「物静かで謙虚な人だなぁ」というのが印象として強く残っています。

ピツバークは鉄鋼の町として栄えたところです。そこのパーシモン(柿の木)という名前はこのクラブをどのように認知してもらうか、相当考えに考えた結果だと思います。

新素材のクラブを成功させるための戦略
2つ目の理由がこれにあたります。この新しいドライバーをどのように世間に認めてもらうにはどうしたら良いか、が戦略のポイントでした。
パーシモン素材が主流の中で、新しいドライバーヘッドの大きさは150ccをわずかに超える程度のもので通常の3Wよりも小さく、しかも打球音は金属独特の鋭いもので、そこにも大きな違和感をプロは指摘しました。打球感も硬くボールコントロールは難しいクラブでした。

道具の違いがわかるプロはどんなに最新のクラブが飛ぶからといっても、すぐには使用しません。現在使用しているドライバーより、明らかに優れていなければ取り替えることはないのです。試合で使うには新しいものはリスクが大きすぎるからです。
プロたちがこぞって使ってくれなければ、どんなに性能が良くてもビジネス的には難しいことは分かってはいたのですが、想像以上に打球音、形状は大きな壁となっていたのです。

このようなクラブを最初に使ってその期待される結果がはっきりとわかるようにするにはどうしたら良いのだろうか、これが課題でした。
異端を正論に持ち込むための戦略として何が効果的なのか?
出てきた結論は、メタルウッドのドライバーを苦労して勧めるより、メタルの3Wを試してもらう方が、より理解が進むだけでなく、使用するにあたっての抵抗感も少ないのではないかとゲーリーは気が付いたのです。

3Wに狙いを定めた結果は
3Wはドライバーの次に飛距離が出るクラブであり、FWウッドとしてグリーンを狙える正確さも併せ持っているクラブです。この良さをプロに認めてもらうことが最初に戦略となったのです。
しかし、誰に使ってもらうかです。戦略としてはウッドが不調でスランプに陥っているプロで、しかも有望視されている若手にターゲットを絞り、彼にメタルウッドの3Wをテストしてもらうことにしたのです。彼とは確かサイモンという名前で若手の中で実績もあり将来を期待されていたのですが、なぜかスランプに陥り悩んでいたところでした。スランプからの脱出がクラブで出来るなら、その道具はメタルだろうがなんだろうがなんでも試してみたい心境に彼はいたのです。

最初の一打、彼としては久しく打ったことのない素晴らしいボールが打てたのです。2打目、3打目も素晴らしいショットが次々と飛び出し、その飛距離はドライバーを凌ぐもので、彼はすぐにこの3Wの良さを認め、ツアーで使用することにしたのです。
彼のその後の活躍は多くのツアー仲間たちに影響を与え始めたのです。「あいつの使っている3Wはなんていうクラブだ」。噂がツアーで広がり始めたのです。
メタルウッドが正式にゴルフクラブとして認められた瞬間でした。

ピッツバーク・パーシモンからツアー・プリファードへ
ここに至るまでの時間、そして資金、情熱、同じ意を持った仲間たち、これらが一つでもかければ<ピッツバーク・パーシモン>はこの世に存在出来なかったと思います。
この原点があるからこそ、ウッドは金属製が当たり前となり、それを最初に成し遂げたテーラー・メイドという会社の存在は新しいウッドの時代のパイオニアになったのです。

<ピッツバーク・パーシモン>という苦心してつけた名前を<ツアー・プリファード>に切り替えるまでのストリーはテーラーメイドのファンなら知っていて欲しいところですね。(ツアー・プリファードとはツアーのために用意された、という意味)
<ピッツバーク・パーシモン>がヒットした後、テーラー・メイドはイリノイからカリフォルニア州カールスバッドに移転したのです。その理由はロサンゼルス郊外にコーストキャストという精密鋳造の工場があるからで、またカールスバッドは1年中ゴルフができるクラブ開発にはうってつけの場所だからです。

その後、カールスバッドはアメリカゴルフメーカーの一大拠点になったのです。
あのキャロウェイゴルフも1983年にパームスプリングスからカールスバッドに移転して来た時は、テーラー・メイドが最初にオフィスを設けた場所にあえてオフィス兼工場を設けたことは先駆者に対する尊敬の念、あやかりたいという想いも当然あったと思います。
自分が聞いた話ではカールスバッドのゴルフ産業がある地域は日本の大手不動産デベロッパーが開発した用地で、そのエリアはグラファイトデザインやフジクラが進出したところでもあるので日本とは何か縁がある場所だと感じたことを思い出します。
2代目となる<ツアープリファード>の大成功でテーラー・メイドは新しい時代のクラブメーカーとして存在感を増していったのです。

創業から10年、ゲーリー・アダムスはテーラー・メイドを去り、ファウンダースクラブを立ち上げ、当時の仲間たちもそれぞれ独立したのです。

スウィングもシンプルに
メタルウッドの功績の一つにスウィングにも影響を与えたことがあります。それは同じ機能のものが手にできるようになり、クラブが異なることから個性的でもあったプロのスウィングもエネルギー効率の良いシンプルなスウィングが目立って多くなったからです。
特にメタルウッドを駆使して全米オープンを制したカーチス・ストレンジのスウィングはその典型的なもので<I-Finish>と呼ばれる現代スウィングの基本的なものを作ったからです。

メタルウッドという新たなゴルフクラブの出現が新しいゴルフクラブの新時代を作ったのであれば、その最初のクラブとして<ピッツバーク・パーシモン>はゴルフクラブの歴史に、人々の記憶の中ににその名前を刻むべきもので、テーラー・メイドの歴代No.1ドライバーはこれしかない、と私は強く言いたいのです。
このクラブの出現がなければメタルウッドは少し違った展開の可能性もあり、SIMもMシリーズも生まれることはなかったからです。

もし、私の書いたものに興味がありサポートししてみたいと感じていただけるならとても嬉しく思います。次の投稿に際しても大きなモチベーションになるからです。