見出し画像

衝撃のインディペンデント映画の世界

みなさん、こんにちは!

関西在住の大学院生ほりしゅんです。

先日大阪のあるカフェにて開催された鈴木勉さんの著書『インディペンデント映画の逆襲ーフィリピン映画と自画像の構築』発売記念イベントに行ってきました!インディペンデント映画というと、皆さんはどのようなイメージを思いますか?日本では自主映画、インディーズ映画などと呼ばれることが多く、最近では2017年に『カメラを止めるな!』が上映され、ヒットしたことが記憶に新しいかと思いますが、それでもまだインディペンデント映画と言われてもピンとこない人が多いと思います。しかし、フィリピンにおいては盛んにインディペンデント映画が作成されており、カンヌ映画祭など多くの国際映画祭にて受賞されています。今回の投稿では、私が上映作品7作品を見て、感じたことや考えたことを述べ、その中で社会的な観点から映画というアートがどのような役割を果たし、どのように社会に影響を与えているのか、について考えていきます。

映画の背景としてのフィリピン社会

インディペンデント映画と聞き、皆さんはどのようなイメージをするでしょうか?映画祭で上映された『ローサは密告された』のいくつかの写真を見ながら、映画作成の背景にあるフィリピン社会について見ていきたいと思います。

画像1

『ローサは密告された』オフィシャルWebサイトより

この写真は、日本でも上映されたブリランテ・メンドーサ監督の『ローサは密告された』という作品のもので、フィリピンのサリサリストア(フィリピンの生活雑貨屋さん)を営む一般家庭を描いた作品です。簡単にあらすじを紹介すると、主人公のお母さん、ローサは麻薬中毒者の旦那、そして4人の子どもを支える大黒柱として懸命に働き、生活しています。その生活の足しにするために麻薬の密売人としても働いていたのですが、ある時誰かの密告によってローサとその旦那は警察に逮捕されてしまう、というストーリーが展開されています。この映画は以下の二点において強調されています。

一点目は、警察の腐敗です。国家権力の象徴として君臨する警察、日本では公務員であり、市民を生活を守るために働く人々としてイメージされることが一般的であると思います。しかしフィリピンでは、そのような市民からの信頼はなく、国家権力を濫用して市民の権利を踏みにじり、賄賂による売買が横行している悪人の組織として見られています。特にこの作品では、密告をしたのは兄が警察に捕まっている子どもで、兄との交換条件として密告しています。また、ローサたちの釈放の条件としてさらなる情報を言うか、賄賂を渡すことを強要されます。下の写真は、高額な賄賂を要求された夫妻が拒否したところ、銃を突きつけられた部分です。このような警察の腐敗は組織的に行われていることが多く、警察組織の上部にまで拡大していることも描かれています。この映画を見ると、彼らが警察官であることに疑問を抱かざるを得ず、まさに国家権力を濫用する悪人としてしか見れないような描き方であるとわかります。

画像2

http://www.webdice.jp/dice/detail/5449/より

二点目が家族愛です。フィリピンは相互性や相互扶助などといった助け合いの文化が根強く残っている国です。この作品においてそれは、よりリアルに描かれています。冒頭部分、サリサリストアを営業しているローサに対してつけを払いに来たおばあちゃん、交通費をねだる子ども(自分の子どもではない)など、日本では見られない普段の姿が映されています。このような助け合いは特に親族関係においてより強く見られるようになります。高額な賄賂を要求された夫妻は、自分の子どもたちにお金を作るように求め、家財を売ったり、親族に頼み込むなどしてお金を作ります。この姿に家族愛がすごく現れています。国家権力によってバラバラにされた家族を元に戻すべく、家族総力を上げてこの悲劇に立ち向かう姿を全体を通して描いています。

麻薬が日常となっている社会、賄賂が横行している社会、助け合う社会を同時に描くこの作品はメッセージ性が強く、臨場感、そのリアリティから高い評価を受けました。タイトルにあるように密告が偏在した世界、そして警察という組織が汚職にまみれた世界は私たちには想像を絶するもので、フィリピンという国を理解する難しさを感じました。

なぜインディペンデント映画が盛んなのか?

フィリピンでは2005年からシネマラヤというインディペンデント映画祭が開催されており、毎年多くの作品が世に輩出されています。それ以前においてもインディペンデント映画は主流とは言えずとも、黄金期を築いて来ました。なぜフィリピンではインディペンデント映画が盛んなのであろうか?そのヒントを得るためにトレブ・モンテラス監督作品の『リスペクト』という作品を紹介したいと思います。

『リスペクト』あらすじを紹介すると、主人公は麻薬中毒の姉、その彼氏と共にマニラの犯罪と貧困に囲まれるスラム街に暮らしています。ある日、盗みに入った古本屋の主人ドクに盗みが見つかり、罪として店の改装をすることから物語が展開していき、その中でかつて活動家詩人であったドクが詩を主人公に教え始めることで互いに意気投合するようになります。ラップを通して抑圧された状況から、制御不能な思いを制御し、アートとして開放することでバランスを保とうとする主人公の姿を描いています。主人公は、麻薬中毒者の家族、貧困、犯罪などに囲まれて生活しているため、常に抑圧された状態であるように描かれ、下の写真はそんな彼らがラップを練習する公共集団墓地です。(実際フィリピンには墓地に暮らすSquatter(不法居住者)が多くいます。)抑圧から逃げるように墓地を訪れ、社会の不公平さ、権力への反抗心などをラップに乗せて歌う姿が印象的でした。ストーリーには重いシーンがいくつも描かれており、例えば、主人公は仲の良い友達と3人で常に行動しており、盗みに入った時も3人であった。罪として店の改装を手伝っている時、警察官であり店主の息子が訪れ、主人公らを麻薬所持の疑いとして人権を無視した強行的な捜査をした。また、主人公が思いを寄せる女性が目の前で男に襲われている姿を目撃した。このような状況に対して、何もできず無力な自分に対して、店主のかける言葉が重く、それがラップとして昇華していくさまがかっこいい。そして、衝撃のラストへ。。。

画像3

ラップを用いたインディペンデント映画として上述のシネマラヤでも高い評価を受けた本作であるが、ここでは「抑圧」に焦点を絞ってなぜフィリピンにおいてインディペンデント映画が盛んなのかについて考えていきたいです。この映画の主人公は家族、警察、力など様々な者に抑圧されている様を描いているが、映画界ではどうであろうか?それを理解するためには、フィリピンの歴史について概観しなければならない。

フィリピンに映画が流入したのはスペイン植民地時代の1896年である。その後すぐにアメリカに支配されるようになり、この45年間にアメリカ文化が流入している。戦後にもアメリカ文化の影響は大きく、メジャー映画製作会社による商業主義に徹した映画が作成されてきた。しかし、テクノロジーの発展によってデジタル化が進み、デジタル製の映画が作られるようになると、メジャー資本に依存しない形の映画が盛んに作成されるようになってきた。このような歴史の中で長い植民地支配を通して文化的にも自らについて語れなくなってしまったフィリピン人たちの声、それを取り戻すために、また公共の検閲もなく、アメリカのメジャー制作会社による独占もないインディペンデント映画を通して、自らのアイデンティティを再興するために現れたのである。つまり、長い植民地支配のなかで文化的に抑圧されてきたフィリピン人のある意味での解放をインディペンデント映画の中に求め、自らを再構築しようとした試みがインディペンデント映画なのかもしれない。

上に紹介した二作品(『ローサは密告された』『リスペクト』)はどちらも社会問題を取り扱い、聴衆に対して強いメッセージを放っている作品です。これらはまた現在を生きるフィリピン人のありのままの姿を描こうとし、普段は何も語れない彼らの思いや気持ちを声にして届けている作品でもある。

日本におけるインディペンデント映画

上記で述べたようにフィリピンでは多くのインディペンデント映画が生み出される一方で、日本では社会的なテーマを扱った映画が少ないような気がします。

上に紹介した『リスペクト』はラップ映画だと紹介したが、その背景には混沌とし、無秩序な環境が存在していた。だからこそ、社会を批評的に歌うラップが誕生するのであり、この土壌の存在こそがラップに意味を持たせるのである。インディペンデント映画もそうであると、結論づけるのは早いが、現実に日本とフィリピンの社会を比較すると、社会に蔓延る問題はフィリピンの方が膨大であり、日本では一般的に安定した生活を送れる程度である。こう言った文化の土壌の違い、フィリピンにある危機感や、雑踏がメッセージ性の強いインディペンデント映画の作成の背景にあると思う。

画像4

日本においても例えば、自殺問題や、最近では相対的貧困層の増加が言われたりと、解決すべき社会課題は多い。メッセージ性が強いというと、私が思い浮かぶのは朝井リョウ原作の映画『何者』である。2016年公開時、私は大学生であったが、その後の進路を決める過程においてこの映画の話は何度も友達との会話の中で出てきた。そんな友達が言うには、この映画は「リアル」だと言うこと。学生が就職活動をする中で感じる葛藤や、友達関係などの描写にすごく共感している友達が多かったのが印象的だった。原作が書籍であるところは、フィリピンとは異なるが、少なくとも社会に向けてメッセージを放っている点では共通していると思う。しかしこの作品のタイトル『何者』からわかるように、就職活動を通して自分を直視し、自分が何者になりたいか、何者でありたいか、自分であることの意味を探す過程において、自分を見失う人も多いのではないか。それは、例えば、「こうなるべきだ」「給料の良い会社に入るべきだ」などのステレオタイプや社会で言われる規範が、本当にしたいこととすべきことの区別を曖昧にしていると思う。

このような学生が社会に振り回される姿は、自己のアイデンティティを構築する側面においてフィリピンにおける大衆と重なる部分もあるように感じる。インディペンデント映画は社会に何かを訴えるプロテストの手段にもなり得ます。日本では大衆迎合的な、商業主義的な映画が多い。それを良い悪いと批評しているのではなく、「自主映画」が持つ可能性を考えるべきだと思う。

読んでいただき、ありがとうございます!

本記事は以下の文献を参考に作成しました。ご興味のある方は是非ご覧ください!!

鈴木勉(2020)『インディペンデント映画の逆襲ーフィリピン映画と自画像の構築』風響社. https://www.amazon.co.jp/インディペンデント映画の逆襲―フィリピン映画と自画像の構築-鈴木-勉/dp/4894891271

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?