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違和感を浄化すること

最近、私たち夫婦で主催している"くらしてん"というメディアのサイトリニューアルに向けて、このメディアを始めた頃のことを振り返ることが多くある。

このメディアを始めたきっかけやその頃に考えていたこと、そして自分自身のくらしに対して感じていたこと。自分の書いた文章をよみかえすと、不満たらたらで、いかにも自分らしい文章だなと思う。

そして、自分の文章を改めていくつか読んでいると、"違和感"という言葉を多用していることに気付く。

高校まで過ごした函館という街に対する違和感
大学で学びはじめた建築という学問に対する違和感
就職してから仕事をするなかで感じる違和感
そして、東京への違和感

思えば、僕のこれまでの半生は、この違和感というものに振り回されてきた。

どのステージにおいても、事あるごとに違和感を感じてしまい、それをうまく流すことができないのだ。そして、その違和感を解消するために、ほとんどの時間を費やしてきたような気がする。

"なんか不服そうだよね"
仕事をしていると、上司にこう言われることが何度かあった。

組織で建築設計の仕事をしていると、自分の思うものとは違うものを作らなければならないタイミングがほとんどだし、他にも色々と思うところが自然と出てくる。そして、それがいちいち顔に出てしまう性格だから、まあそう思われるのも仕方ないと諦めていた。

そして、適当にその場をやり過ごしながら、
"単純で、何も考えずに会社に尽くすことができればさぞ楽ですよね"
と心の中で卑屈に思っていた。

組織では違和感というものは仕事の邪魔にしかならない。
優秀とされる人は、そんなことに時間を費やしたりしないで、目の前の仕事を淡々とこなし、実績を積んで、嫌なら別の会社にさっさと転職するのだ。
だけど、僕にはそれができず、目の前に現れる違和感に一歩一歩立ち止まってしまう。これまで、自分の成長や進むスピードが、人よりもずいぶん遅いなと思うことがよくあったのだけど、それも今思えば当然のことだ。
自分でもめんどくさいやつだなと、ずっとどこかで思っていた。違和感は邪魔にしかならない。

冒頭でも触れたのだけど、
最近、くらしてんのメンバーと、わたしたちのメディアの方向性について話すことが多くある。ちなみに、このメディアは、わたしたち夫婦ふたりで始めたものなのだが、ありがたいことに今その他に数人の協力してくれているメンバーがいる。
メンバーと話していくなかで、自然とこのメディアの当初のコンセプトに立ち戻っていく。

"どういうところに、その違和感を感じたんですか?"
メンバーに、私たち夫婦がこのメディアを始めた頃に感じていた違和感について何度か聞かれることがあった。このメディアは、私たちの違和感からはじまったものだから、当然といえば当然だ。
だけど、このやりとりが自分のなかでは、不思議な感じがした。

自分が感じた違和感を、だれかに話していいんだ。むしろ、今それを求められているのか。

今まで、邪魔なものでしかなかった、あるいは隠すべきものだと思っていたものを、ポジティブに転換できた瞬間だった。

私たち夫婦が、自分たちのくらしについて感じていた違和感。
私たち夫婦のあいだでは、言葉にしなくてもなんとなくで通じ合うところがあったのだけど、他のメンバーとその感覚を共有するため、そのもやもやしたものを言語化して整理していく。

あらためて、ふたりで当初のことを遡っていくと、だんだんわかってきたことがある。私たち夫婦が感じていたと思っていた違和感は、実は大半が僕の感じた違和感に端を発しているものだったのだ。
日々くらしている中で、事あるごとに感じてしまう違和感を、家に帰ってきてから愚痴のように妻に話していたものを、妻が面白がってクリエイティブな方向に転換してくれていたのだ。

"じゃあ、それをメディアにしたら面白くない?"
"写るんですを送って、その人に撮ってもらったら良いよね。"

そんな会話から、このメディアが始まっていった。
僕が話した違和感に、スパイスを加えて、人前に出せるように調理してくれる。事あるごとに僕が感じる違和感を、毎回ちゃんと聞いてくれる彼女にとても感謝するし、なんでも面白がることのできる妻の能力を素直にすごいと思った。

うちの奥さんは、すごい。
違和感をクリエイティブに転換してくれる重要な役割を担っている。
とすると、僕は違和感を感じてそれを伝える役割ということになる。
"違和感担当"
不思議な役割だなと思いながらも、なんだか少しうれしかった。

そんなふうに自分の役割を認識し始めると、これまで引っかかっていたものが取れたような、すっきりした気分になっていった。これからは、自信をもって違和感を感じていきたい。違和感を抱えて歩いていこう。そう思いはじめた。

実はこれまで、くらしてんのメンバーと話しているとき、すこし戸惑ってしまうことが何度もあった。どの程度自分の考えを伝えるべきか、よくわからなかったからだ。

くらしてんを手伝ってくれる人たちが集まり始めた時、一方的に自分の考えを押し付けるようなことはしたくないと思った。
これまで自分の属してきた組織で、自分自身が散々そういう目に遭って、嫌気がさしていたから。好意で手伝ってくれる人が窮屈そうにしている姿はみたくない。
片手で足りるほどの、小さな組織ではあるけれど、なにかを決めるときは民主的に進めていきたい。それが正しいことだと思っていた。

だけど、このメディアは僕の違和感からはじまったもので、僕にしかわからない感覚で構成されているところがある。
だから、どの程度自分の考えを伝えたらよいのか、悪いのか、その辺の境界線がどこにあるのかが、いまいちわからなかった。

だけど、自分の役割は"違和感担当"であると、割り切ってしまうと、
自分の感じた違和感を言葉を尽くして伝え切るということが、ここでの誠実さだと思えるようになっていった。

メンバーに説明するための資料をつくりながら、これまで感じてきた違和感に向き合う。すると、これまで自分を振り回してきた"違和感"という存在が、愛らしいものにさえ思えてくる。ひとつひとつに向き合っていくと、それらが浄化されていくような感じがした。

どのような言葉にすれば、自分の感覚が伝えられるのか。
ああでもない、こうでもないと頭のなかで言葉を探す作業。
だけど、それが自分に与えられた最大の仕事で、苦慮はするけれど、それよりもこれまでにない楽しさがあった。

思えば、これまでの人生の大半をこの作業に費やしてきたのだ。
違和感を整理する作業は、いつまででもやることができる。
いままでは邪魔でしかなかったものが、いま武器になっている。
その感覚がうれしかった。

実は今、文中にも出てきた会社をやめ、小さな会社で住宅設計の仕事を始めることになっている。大規模な建築をつくるチームの一員としてやってきたこれまでとは勝手の違うこともあるし、また違う人間関係のなかに入っていくのだから、またなにかと違和感を感じることもあるだろうと思う。
そして、仕事だけでなく、くらしてんというメディアやその他の日々のくらしなかでも、これまでと同じように違和感を感じていくだろう。

だけど、またあらたな違和感を感じた時、
やれやれ、と思いながらも、これまでよりはもう少し良い顔で、違和感と対峙できる気がする。

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